回想記・その3、続・駒づくりを楽しむ会。
前回は「駒づくりを楽しいむ会」でやろうとしたこと、やりたかったことについて述べました。
私は当時34歳。扶養家族は4人。仕事は日本板硝子に勤務するコンピューターシステムエンジニアで、当時の就業規則には会社以外の業務をしてはならないとありました。
私がやろうとするのは会社とは関係が無いライフワークであり、クビになっては家族が路頭に迷う。「カクカクシカジカ、将棋駒づくりの会を作って活動したいので許可が欲しい」と直談判したところ、相談相手の人事係長(後の社長)からは「よろしい。分かった」との即答を貰って、安心して船出できたのは大きかった。
やがて私の駒づくりが社内報に載ったりして会社内外に知られると、会社主催の取引先との親睦会では、引っ張り出されて「駒の話」とか「私の生きざま」を話したり、社外では日本生命会社の社長会や、トヨタ自動車の取引先親睦会からも呼ばれたりした。
会報は年4回の発行して、展示会は賛同者に支えられて毎年開催。入会者はたちどころに200人300人を超えて、やがてと今日・大阪・静岡では新しいサークルも生まれたりして、駒づくりの根が全国に広がってゆきました。
映像は後日、12年間の会報1号から50号までを一冊にまとめたもの。全部で436ページ。私の歩みの記録でもあります。
一方、山形県天童市の駒づくりは工程すべてを一人で賄うというのではなく、木地師は木地成型、彫り師は彫るだけ、書き師は文字を書くだけで、上に立つ親方がすべてを取り仕切っている100年前から明治大正時代からの旧態依然の分業体制。質より量で、作られているのは廉価な駒ばかりでした。しかし丁度このころ、それに飽き足らない上物志向の人が二人三人と出始めたり、本会に入会する若手も出たりで、少なからず刺激はあったように思われます。ですが幸いにも、こちらへの嫌がらせや圧力は一切ありませんでした。
ところで私は一日の時間の1/3が会社勤め、1/3が会の運営と自分の駒づくり。残る1/3が睡眠というの生活。しかし、まだやりたいこともある中で、体力維持の睡眠はしかっりと取るべく、一日が1時間でも2時間でも増えてほしい願いは残りました。