10年前、「なんでも鑑定団」に登場した川井さん所蔵の「葵紋蒔絵の将棋盤」について、千太さんから、お尋ねがありました。それについて、私が分かる範囲で述べさせていただきます。
盤の厚みは4寸。素材は榧。4面の盤側それぞれには、輝きと色合いの異なる三つ葉葵家紋が3つずつ描かれています。
それらの輝きの違いは意図的に作られており、この内、真ん中の葵紋は通常の金粉を蒔いた金蒔絵で、右側の葵紋は金粉に銀粉を加えた金蒔絵で描かれています。これら二つの家紋は通常の蒔絵技法であり、コーテイングしてある漆の膜を通して見ることから、色合いや輝きは金そのものの輝きではなく、やや鈍い金色を呈しています。
これに対して左側の葵紋は、ピカーっとした金無垢の輝きそのものであり、模様を切り抜いた板状の金箔を漆で貼り付けて加飾する「金平文(きんひょうもん。金貝とも言う)」の技法で、金無垢の板を露出した形であり、光り輝いています。
周りにちりばめられている「唐草の葉」にも、光り輝いているものとがあって、ピカーっと輝いている葉っぱには、同じ金平文の技法が使われています。
しかし、金平文の弱点は「張り付けている土台(この場合は、カヤの木)と、張り付けた金箔との膨張率の違いによって、経年の温度変化の影響を受けて剥がれやすい」ことにあり、何十年、あるいは100年、200年が経つうちに徐々に剥がれが進行し、トラブルを起こすことです。
加えて、盤を抱えて持ち上げたり移動させるときには、盤側の剥がれ気味の家紋部分が、人体(腹や腰)に擦れたりし、一層、剥がれが促進するわけです。
テレビでは、剥がれ気味の家紋を指して、「3つの家紋のいずれかは、本来は婚姻元のものであるべきで、他家の家紋だったものが葵紋に付け替えている」という説明がなされました。しかしそれは徳川同士の婚礼もあった事実を無視して、理屈に合わない説明ではなかろうかと思うのです。
さて、この盤の出どころですが、盤はかなりの期間、ある商社のオーナーのもとにあったことがわかっています。経過をさかのぼると、もともとは水戸の徳川家にあった可能性があります。明治から昭和初期に至る時期には諸大名のお宝が頻繁に売りたてられて、そのような折に民間に流れたと考えます。
この盤は厚みや足の形、蒔絵の様式を考えると、江戸時代後期の19世紀に作られたものだと推測できます。類似品としては、名古屋の徳川美術館に、この時期の婚礼道具としての将棋盤が遺されていますが、この盤と様式的に異なる点は、それらは通常蒔絵による加飾のみであり、先述した「金平文(金貝)」の技法は使われておらず、珍しい「金平文」の技法が使われているのは、この盤のみであります。
この時代、江戸時代の工芸技術は、大名などパトロンの財力(バックアップ)により最も高められた時期であり、明治以降の現代とは比べ物にならないほどのレベルの違いがありことに加え、大変な財力も要します。
よって、お尋ねの「明治時代以降、似たような将棋盤が作成されることはないか」との質問に対しては、「それはない」と断言して間違いはないと思います。