福井県の、ある博物館展観者向け解説書の原稿です。
12年ほど前に書いたページですが、目に留まりましたので、アップしておきます。
象牙の水無瀬駒と、葵紋蒔絵の将棋盤
元(財)将棋博物館顧問 熊澤良尊
ーーはじめにーー
4年前、福井県で古い象牙駒と、葵紋を蒔絵した美しい将棋盤が数百年ぶりに発見されました。その折にはNHKニュースで速報され、詳しいことは「将棋世界」誌2008年9月号で、駒にハイライトを当てて紹介しました。
その後はテレビの人気鑑定番組に登場したり、日本将棋連盟制定「将棋の日」のイベントには羽生名人と谷川九段の記念対局に使われたりして話題を呼びました。
今回は寄託先の福井市立郷土歴史博物館において、盤と駒一式の特別展示もあり、将棋盤の歴史と工芸技術にもスポットを当てて紹介します。
1、「水無瀬(みなせ)駒」と「葵紋蒔絵の将棋盤」
本品は、昨年度当館へ寄託された「水無瀬駒と葵紋蒔絵の将棋盤」一式
です。「水無瀬駒」は、16世紀末の高位な公卿・水無瀬兼成(かねな
り)が書いて、その品格ある文字と端整な駒形は、近代将棋駒の手本と
もされています。
およそ4百年前に737組が作られて、時の後陽成天皇や関白秀次、公
卿たち、そして歴史上の名だたる武将たちの多くが繰り返し買い求めた
超高級駒でもあります。
中でも、家康は関ヶ原の戦いの前後数年間に53組を入手するなど、庶
民は弄ぶことすら憚られたといいます。
本品の駒はその一つ。将棋盤と共に数年前まで某家の蔵に眠っておりま
した。
それが4年前に所有者が変わったことで研究者の目に留まり、由来が明
らかになりました。
一方、盤は吉祥模様の「若松・唐草と葵紋」が金蒔絵で加飾され、その
様式と盤の厚み、足の形から18世紀末乃至19世紀初頭の徳川家、松
平家いずれかの婚礼調度として作られたことが分かり、駒箱も同様です。
盤面には駒を打ち下ろした凹みが無数にあり、側面の家紋の一部に剥脱
と、駒の一部の漆が摩滅しているところなども。これらについては別項
で解説します。
江戸時代、将棋盤は囲碁盤・双六(すごろく)盤と合わせて「三面」と
呼ばれて大名家婚礼調度のひとつでした。名古屋市・徳川美術館に遺さ
れている「国宝・初音(胡蝶)調度」の将棋盤と駒はその代表事例です。
本品の駒と盤の製作時期には、およそ2百年の隔たりがあります。駒は
江戸時代の直前に作られて、その後、江戸時代半ば過ぎに新調された盤
と組み合わされて大名家の婚礼調度となり、今日に伝えられました。
2、将棋の歴史
将棋のルーツは、古代インドの「チャトランガ」であると言われていま
す。
伝来時期やルートには諸説があり未だ特定出来ませんが、平安時代後半
には駒は既に5角形で現在の将棋に近いものが存在していたことが公卿
の日記や各地遺跡からの出土駒で知ることが出来ます。
年代が特定出来る最古の駒は、奈良市・興福寺井戸跡から出土した11
世紀半ばとされる「玉将」や「歩兵]など17枚が、山形県酒田市の遺
跡では「兵」一文字の駒もおよそ1千年前の同時代のものが出土してい
て、その他、福井県では一乗谷朝倉遺跡では、戦国時代の将棋駒174
枚が出土しています。
これも雑兵や僧侶などが手作りしたもので、その中に「酔象(すいぞ
う)」の駒が1枚が混じっていて、古い文献に「酔象を加えた42枚の
将棋もあった」とされて、これを「朝倉将棋」と名付けて、毎年記念大
会が聞かれています。
因みに駒数40枚で捕獲した駒が使える現在の将棋は、昔は「小将棋」
とも呼ばれ、室町時代あるいはその前の頃から指されていました。
また、駒が92枚の「中将棋」は公卿たちが好んで指したことから、
「お公家将棋」とも呼ばれました。
総じて駒数が多いのは日本将棋の特徴で、古いところでは354枚の
「泰(たい)将棋」、192枚の「摩訶大々将棋」などもありました。
特に「大局将棋」は駒数804枚の世界最大の将棋で、江戸時代初期
に考案されたと推測します。ただし、これらが実際に指されたのかは、
大いに疑問が残ります。
江戸時代、徳川家康は「将棋所」(大橋家)を設けて、囲碁(本因坊家)
とともに庇護。やがて指し将棋とともに、詰め将棋も盛んになって庶民
へも広がり、その頂点が世襲の「名人」として代々引き継がれました。
現在の「名人戦」は昭和10年、13世関根金次郎名人による制度改革
で、実力日本一を競うタイトル戦へと近代化。これを制したものが、
「名人」となり、名人位を5期獲得することで「永世名人」の称号資格
を得る仕組みとなりました。
木村義雄・大山康晴・中原誠は14世~16世の永世名人であり、谷川
浩司・森内俊之・羽生善治は、引退後に17世~19世を名乗ることに
なります。
3、展示品「象牙・八十五才の水無瀬駒」
古来より「駒は黄楊(つげ)に限る」と言います。
指先へのなじみが良く耐久性があり使うにつれて深い飴色になります。
事実、水無瀬駒の93%が黄楊製で、僅かに白檀・紫檀・桑・象牙も
「変わり材」として使われていました。
本品はその数少ない象牙製であり、象牙の水無瀬駒は737組中の僅か
5組に過ぎず、駒尻の「八十五才」によって関ケ原の戦い前々年の、
慶長3(1598)年に作られたものと分かります。しかも「将棊馬日記」
に依れば、この年に作られた象牙駒は1組のみが作られ、それは室町幕
府最後の将軍・足利義昭(あしかがよしあき、号は道休)が注文したも
のであることが分かります。
しかし意外なことに義昭は前年に死去しています。経緯はどうでしょう
か。
初めて象牙駒の注文を請けた兼成は、異国の材料ゆえ、その入手にかな
りの年月を要したと推測しています。そのため義昭は、駒の完成を見届
けることなくこの世を去り、その後、出来上がった駒は義昭の縁者に渡
された。このようなドラマが垣間見れるのです。
その象牙駒が2百年を隔てた江戸時代半ばを過ぎてどういう経緯で大名
家の婚礼調度となったのかは不明ではありますが、それまでは全く使わ
れることは無かったのだろうと想像します。
そして200年後、新品同様の象牙製の将棋駒は、婚礼道具として使わ
れて、その後、盛んに使われた結果、盤の表面の瑕跡や、駒の文字は、
部分的にこすれて文字が見えなくなるほど摩耗しているところが生じて
いるのはこのためであり、それから今日まで、とにかく数奇な運命を辿
ったのでありましょう。
なお、本品と同じ象牙製の駒は、翌々年の慶長5年と6年にも都合4組
が作られて、徳川家康と豊臣秀頼、太閤秀吉の北政所の血縁者等にも渡
りました。これらは同じDNAの姉妹駒なのでしょうが、今日の私たち
には、それらを見ることが出来ません。
4、展示品「将棋盤と駒箱」
本品は、それぞれ黒塗りの総箱に収められています。
大きい箱の内面には波を打ったような跡があり、これは槍鉋(やりがん
な)で仕上げた削り跡で、盤が作られた年代背景を示すものです。
総箱の表には漆の御家流文字で「村梨子地(むらなしじ)若松唐草(わ
かまつからくさ)御紋御将棋盤」。小さい箱には同じく「御駒箱」とあ
り、「村梨子地」は、群雲のごとく濃淡の斑模様に金を蒔いたものを言
い、「御紋散」は家紋の「三つ葉葵」であります。
盤は厚み4寸。材は榧(かや)。盤面以外は漆の梨子地模様ですっぽり
塗り込められ、4つの側面には家紋「三つ葉葵」が3つづつあって、
最大の特徴は、それぞれ金の色目と輝き方を違えてあるところ。
この内、特に各面左側にある紋の輝きは鮮やかで、漆を通して鈍く光る
通常の金蒔絵のそれとは違って、金箔を何枚か重ね合わせて薄い板にし、
これをフノリとニカワで貼り付けた「キリガネ(截金あるいは金貝)」
の技法で飾られているモノです。
漆でコーティングしないので輝きは金そのもので、家紋3つの内の1つ
をことさらに光り輝かせようとする意図が汲み取れます。
更に子細に見れば、背景を飾る唐草。その小さな葉っぱの一部にも「キ
リガネ」が使われていて、それに気づけば、2百年前の大名家婚礼調度
がいかなる技術で作られたものかが分かろうというものです。
ただ、永年に及ぶ経年変化(温湿度変化)の影響を受けやすい「キリガ
ネ」ゆえ、その一部に傷みを生じているのであります。
5、水無瀬家と水無瀬兼成卿
水無瀬家は平安時代の貴族・藤原道隆につながる家筋で、後鳥羽天皇の
生母の里方にあたります。
その13代目兼成は三条西家で生まれ、請われて水無瀬家に入って後に、
能筆家としても名高くなり、家康に伊勢物語を講ずるなど一流の文化人
であります。
水無瀬家には「駒書きは勅命により始まった」という伝承があり、その
ことは「将棊馬日記」で裏付けられることになりました。
冒頭、天正18年のページに「上」とあるのが、後陽成天皇へ中将棋駒
を納めたという記述そのものであり、兼成の将棋駒づくりは、祖父・三
条西実隆にさかのぼります。
その祖父の日記「実隆公記」には、「請われて将棋の駒を書いた」とい
う記述が散見され、祖父は兼成が23歳までをともに生きた人でもある
ことから、祖父の駒づくりの様子を兼成は、真近に見知っていたに違い
ありません。
4百年が経った現在も、兼成筆の水無瀬駒は10組程が遺されていて、
それらを列挙すると、大阪府島本町にある水無瀬神宮の「八十二才」と
記された駒。先述した徳川美術館の「国宝・初音の婚礼調度」の駒。
熊本市にある加藤清正ゆかりの本妙寺の「中将棋駒」など、それらは
今も歴史あるお宝として大切に保存されています。
なお、水無瀬家では兼成のあと、親具(ちかとも、一斎とも)・兼俊
(かねとし)の合わせて三代で駒が作られました。その背景には5角形
の駒木地を作った「馬削忍斎」という下職の存在も大きかったように
思われます。
6、将棋駒、今と昔
近年のタイトル戦には専ら「漆盛上げ駒」が使用されます。
対して江戸時代中頃までの高級品は、能筆家が漆で書いたいわゆる
「書き駒」です。
江戸時代の半ば以降は、将棋駒の需要が広まるとともに、専門の職人
が駒づくりをするようになり、いわゆる駒師の出現で、公卿ほど字が
上手ではなくても真似ようとします。そこで考案されたのが能筆家の
文字を印刷した紙を貼ったりして文字を彫る「彫り駒」や、彫り跡を漆
で埋めた「彫り埋め駒」が作られるようになり、やがて明治時代には
さらにその上から塗り絵の如く、文字を書きなぞっての「漆盛上げ駒」
が作られるようになります。
一方、山形・天童藩の駒づくりは独特な文字の書き駒で、幕末の下級武
士の手内職として発達。安価な庶民向けの手軽な駒の地場産業となり、
円国の生産量95%を占めるなどして、駒のふるさとと呼ばれるように
なったわけです。
この間、公卿がつくる高級駒は急速に衰退し、それに代わり現代では、
職人技の「漆盛上げ駒」が高級駒とされているのです。
そして、現代は「王将」と「玉将」で駒が作られます。
実は「王将」駒は、江戸時代半ば頃に生まれた比較的新しい種類で、
古い時代では水無瀬駒で見る如く「双玉」の2枚の「玉将」で作られて
いました。
因みに玉将・金将・銀将の一文字は財宝を表し、桂馬・香車は薬香料を
示す駒であり、日本将棋はこれらの争奪戦でもあります。
また、日本将棋最大の特徴は相手から召し上げた駒が直ちに味方として
使えるところで、先が細く手前が厚く広い5角形の駒形は、指先で扱い
やすく、盤に並べた方向で味方にも敵にも使える合理性と順応性を備え
た優れ物であることを申し添えておきます。
以上
[付記]
冒頭で触れましたように本品は4年前、福井県で発見されました。
その後2年経って、テレビの人気鑑定番組に登場し、番組の解説では
「駒は象牙と漆の白黒で義昭の供養のために作られたものだ」と語ら
れていました。
果たしてそうなのでしょうか。若し、象牙駒が義昭の供養の為に作ら
れたものであるならば、その翌年に家康と秀頼へ渡された駒も同じ
象牙の白黒の駒であり、これらも供養のものと解釈しなけれななりま
せんので、真っ赤な間違いだということが出来ます。
また、盤について番組では「輿入れ調度の家紋は本来、輿入れ元と輿入
れ先との組み合わせでなくてはならないのに(これは誤った認識)、
この盤では3つとも同じ三つ葉葵であるのは、後世に誰かが紋を付け替
えたからで、価値は無い・・」などとも語っておりました。
これも、全くの眼鏡違いでありましょう。
家格のステータスシンボルである家紋の使われ方については、一定の考え
方があって、つまり、
①「同格の時は両家の家紋が組み合わされる」、
②「家格の差が大きい時は、格上の家の家紋のみが使われる」のです。
後者の実例は、井伊家に近衛家の姫が嫁いだときの婚礼調度で、
この場合、井伊家の紋は使われず、格上の近衛家の家紋のみが使われて
います。
テレビのコメントに事実誤認はなかったか。盲目的に信じ込む人も居た
りして、罪のない「駒と盤」にとっては思わぬ大迷惑であり、間違は正
さねばなりません。
後日談として、盤は蒔絵の技術分析のために輪島市の漆工文化財修復経
験者5人による、真摯で自由な意見を求めました。その結果は「家紋に
は付け替えた痕跡はない」との結論がはっきりして、その詳細は地方紙
2紙で報道されました。
更に後日、斯界を代表する漆工古美術研究者2人による再度の入念な観
察評価が行われ、それでも「家紋は金貝であり、付け替えたものではな
い」と同様の結論がでて、そのこと全国紙でも「鑑定は覆った」と、
詳しく報道されましたことを付記しておきます。
(熊澤良尊・記)
本日、事務局から最新の状況と、刷り上がった「チラシ」が届きました。
定員15名に達し、そのほとんどは、このブログをご覧になっての申し込みだそうで嬉しく思っています。
参加者府県別の内訳は、東京2名、群馬1名、埼玉1名、千葉1名、静岡1名、滋賀2名、大阪2名、兵庫1名、岡山1名の各地からと、地元の島本町2名とのことで、申し込みなさった方へは、まもなく、このチラシが届くと思います。
また当日は、戦国時代を深く研究されている元大阪城博物館館長先生と、日文研客員教授の大先生が参加されるとのことで、「私の研究不足を補ってもらえるのではないか」と楽しみに思っております。
以上、参加申し込みくださった方々に、報告とお礼を申し上げます。
9月19日(木)、雲多き晴れ。
先程、朝起きて、ニュースでは、自民党総裁候補9人が大阪辺りに来ての演説会。それを見て「オヤオヤ」と思いました。
「オヤオヤ」は、候補者誰もが口々に「関西、関西」、「関西、大阪」、そして「関西を第一に」・・と、関西大阪の一辺倒。
それまで名古屋に行けば「中部日本、名古屋・・」、福島に行けば「福島、福島・・」と、行ったその土地のことしか言わないことに違和感を感じていました。
観衆たちにとって都合の良いと思われる言葉かしか言わない候補者のエゴ、丸だし。観衆の多くが、どのように思っているかを見くびっているようで、そのことすらも考えられない候補者の思考の無さ。
以上が、今日の「オヤオヤ」でした。
9月17日(火)、晴。
今日、2度目のアップです。
中秋の名月。
中秋の名月とは、旧暦8月15日の事。
ですが、必ずしも満月とは限らないらしい。
因みに、カレンダーを見ると、月例14日とありました。
真丸の満月は、明日らしく。
先程、将棋ペン倶楽部から、大賞の受賞セレモニーの案内をいただきました。
東京で、10月5日に開催とのことで、久しぶりの上京と、関係者皆様にお会い出来るのを楽しみにしていたのですが、「事情があり残念ながら欠席することに致します」と、返事いたしました。
このブログをご覧の皆様には、全く関係が無いことながら、触れておきます。
9月15日(日)、曇り。
原発で発生した「核燃料デブリ」の処理についてのニュースが、テレビや新聞をにぎわせています。
発生したデブリは、数十トンとかですが、今回の取り出し作業での量は、僅か耳かきほどの3グラム。
その取り出しにさえ難航しているとのことで、政府や電力会社のやっていることには、あきれるばかりです。
私がかねがね思っていることですが、政府や電力会社がやってきたことは、とにかく一途に「原発を作る」ということだけに特化し、最終的な収集処理を全く考えない姿勢であり、東日本大震災によって、廃炉せざるを得なくなった原子炉を、今になって、どのように収拾するかにアタフタしているわけで、この調子では、何百年、何千年かかっても、収集はおぼつかない。そのように思えます。
では、どのようにすればよかったかですが、私が言いたいのは、建設計画を立てるときに、にはどのようにするかを十分に検討し、明確にしておく必要があったということ。
政府や電力会社は、収束のことは全く考えることなく、とにかく原子炉を作ることだけの一念で進めてきたことの結果が、今の状況を生み出しているのです。
で具体的に、私が以前から考えていたことを以下に述べることにします。
当初、建設計画を立てる時には撤退時のことを考えて、「稼働時に発生する燃料デブリと、炉そのものと設備の廃棄処理場所を、炉建設地の地下深くに埋没することを条件に、建設場所探しをしなければならなかったと思うのです。
即ち(金が欲しく?)建設候補として名乗り出る自治体があるとすれば、その条件のもとに地元に建設ことを申し出るわけで、そのようにしておくことで、あとになって今のように政府が(探すのが困難な)廃炉デブリの処分場所を探さなければならない事態にさらされることは無いわけです。
一方、金より安全を選ぶ健全な自治体ばかりで、名乗り出るところが皆無なら、政府の思惑に反して原発の建設自体が不可能になるわけで、正論を言えば、そのようにしておく必要があった。
しかしながら、建設一辺倒の政府と電力会社では、このような考えは全く無かったので、今のような事態になったわけで、慌てて今頃、アタフタしていることに、無力感と滑稽さ(馬鹿さ加減)を感じるわけで、加えて、マスコミはこのような根本的なことに全く触れないこと。
それにも強い憤りを覚えるのであります。
長い記述と、読みにくい文章になりましたこと、平に謝謝。
9月13日(金)、晴。
暦の上では秋だというのに、変わらずの夏空。昼間の気温は33℃でした。
抵抗しても始まりませんので、こちらは毎日、愚痴るだけ。
当分、こんな日が続くようです。
ところで「将棋馬日記」。
先に「女性は一人だけ」と言っていましたが、どうやらもう一人いるようです。もう少し解明できればと思っています。
当方は、今日も盛り上げ仕事。
書いていたのは裏文字のおよそ30枚。文字数に直すと、60文字ほどですね。
毎日、このようなことをしているのですが、いつまで続けるのかデス。
尤も、ジッーと座りっ放しでなく、一文字ごとに席を立ったりして、気分を変えながらやってはいます。
2階に上がってコーヒを入れたり、冷やした水を飲んだり、トイレに行ったり、外の空気を吸ったり、太陽に当ったり、口に入れるチョコレートをさがしたり。
とにかく,ジッーとしていることが苦手なんですね。
落ち着きが無いのは小学生の頃からですが、それが長続きする秘訣かもしれません。
水無瀬兼成さんは、89歳で亡くなるときまで、駒づくりをしていたのです。そんな時、どのようにしていたのでしょうか。
最後の年は、亡くなる8月までに43組の駒の文字を書き残していて、現在の満年齢で言えば、88歳の米寿。
あやかりたいものです。
9月12日(木)、深夜。
先程、何時ものように深夜に目が覚めると、テレビには対局者の映像。そうです。先の叡応戦をはじめ、藤井さんをめぐる戦いの軌跡。その解説。NHKスペッシャルでした。
興味深く見ていると、対局者のひだをそのままに、分かりやすい解説に共感。編集者の相当な将棋愛を感じさせる番組でありました。
見終わって思ったのは、録画しておけばよかったということでした。
では、また。