ベンベエの詩的つぶやき

世の中をちょっと斜めに見て・・・

彼岸

2007-03-21 15:52:55 | 日記・エッセイ・コラム

今日は彼岸の中日。

城の崎より松葉カニが送られてきた。
発泡スチロールの箱を開けると
大きなのが四ハイ、まだ動いている。
彼岸の日に殺生は厭だが
生殺しにしておくのはもっと残酷。
急ぎ大鍋で二ハイだけ茹でる。

親父も義母もこの松葉カニが好物だったので
先ずは、脚の一番太いのを仏壇に供える。
ぼくはカニを食べると何故か疲れるので
味見程度。
あとの二ハイは知り合いにあげる。

それにしても蟹のこのグロテスクな姿。
視覚からはとても美味そうには思えないが
世の中得てして、このようにグロテスクなものにこそ
実が備わっているとも言える。

明日は「カニちらし」を作って供えてやろうと考えている


匂い

2007-03-13 17:57:10 | 日記・エッセイ・コラム

嗅覚は、五感の中で最も本能を刺激する
原始的な器官である。

花々の蜜の匂い
動物たちのマーキング。
人間たちも同じ、
匂いに惹かれ、匂いに高揚し
イマジネーションをかきたてられたり
甘いその罠に落ち込んだり・・・。

「ああ、クサッ!」
朝起きて妻の最初のことばである。
どうやら世に言う加齢臭らしい。
インド人の体臭のようにスパイシーなカレー臭なら
結構なのだが・・・・
眉間にシワ寄せて顔をそむけるところをみると
よほどひどいらしい。
自分ではよく解らないので、
だんだん哀しくなってくる。

腸内清掃がいいようなので
いろいろのサプリメントや
エチケット食品を摂っているのだが
効果のほどははっきりしない。

そこでいまは、「塗香」を使っている。
京都から取り寄せたもので
そっと手首に塗りつけておくと
一日中、白檀や沈香の芳香につつまれ
とてもリラックスできる。

「クサッ!」 なんてもう言わせない。

      *「塗香」とは、そもそも僧侶たちが修行の際
                身を清めるために使用した。


射撃

2007-03-11 11:54:15 | 日記・エッセイ・コラム

我が家の向かいの杉山の奥には射撃場がある。
今日は日曜日。
かなり風が強くふいているというのに
朝からドツン、ドツン音がする。
大会でもあるのだろうか・・・。

生業は別だが
趣味や遊びで狩猟する人とは
友達にならないようにしている。

餌を食んでいる優しいいのち、
草原を駈けている美しいいのちを突然
鉄砲で撃ち殺す。
倒した大きないのちに片足かけて
ポーズをとっている写真を見せられたことがあるが
実に尊大で卑しい顔だ。
しかも自分の獲物を剥製にして
応接間に飾ったりしている。
そういう人とうっかり友人にでもなったら
あるとき
ペペロンチーニなど美味しく食べている背中を
突然、ドツンと撃たれるかもしれない。
そして僕のこの身体が剥製となって
マントロピースの上に置かれるかもしれない。
だから友達にはならない。

せめてクレー射撃で満足できないものかと思う。


俳句のすすめ

2007-03-09 11:56:47 | 日記・エッセイ・コラム

「俳諧は三尺のわらべにさせよ」・・・・・
芭蕉翁の教えである。

俳句を一句詠むにはその対象をじっくりと
観察することが必要になる。
観察することによって
これまで見えなかったものが見えてくる。
気づかなかったことが気づくようになってくる。
いつしか、それらの対象に関心と愛情を抱くようになる。

小さな子供の内から
そうした習慣を身につけることで
周囲のものに対して優しい心くばりが可能となる。
三つ子の魂、百までも・・・である。

花鳥風月。
花のいのち、虫のいのち・・・・
生命の神秘さと、生命の大切さを実感できる子供の
育成が今こそ望まれるのではないだろうか。
他人の生命も自分の生命もすべて
生命こそ最も大切であることを気づかせるような
教育が必要ではないだろうか。

小学生の教科の一つとして
音楽の時間、体育の時間と同じように
俳句をカリキュラムに組み入れては
どうだろうか。
五七五の韻律は日本人の生活の中に
深く浸透しているので、
抵抗なく
子供たちに受け入れられると思う。

以前、長野県安曇野の俳句大会に出席したとき
金賞をとった小学二年生の作品を今でも記憶している。
  『水たまりわたしの顔が盗まれた』
どうです、無垢で素晴らしいとおもいませんか?

      地に触れて消えてしまへり春の雪  
やす


真昼の星

2007-03-07 14:36:38 | 日記・エッセイ・コラム

  井戸掘り職人の言うことには、
  井戸の底から天井を見上げると
  真昼間でも星が見えるらしい。

  底に下りて確かめたことはないが
  どうやら真実のようだ。
  画家・香月泰男も
  シベリア抑留時代の体験として
  穴の底から見た昼の星を描いている。

  人間はまだまだ未発達、
  五感で捉えられたものしか信じようとしないが
  見えなくとも聞こえなくとも
  存在するものはちゃんと存在するのだ。

  「噂をすれば影」・・・この体験はよくあること。
  相手の持つ波動によって
  近づきつつある存在を感じさせられているのだ。
  多くの人はその現象を偶然と呼ぶが
  そうではない。

  通じる筈がないと油断していても
  こころに思ったことは波動によって伝わってしまう。
  悪意も善意も、そのまま・・・・。

  真昼間の星のように誰かの眼には見えている。