とうとう父が逝きました。
脳出血で左半身麻痺になってから20年。89歳なので大往生という表現が正にそれであったわけですが、誰も予想しなかった展開、長寿を全う致しました。
脳の30%が血に浸るような大出血でしたが、幸いにも昼間に外で倒れ発見が早かったことから一命を救われました。
同様の症状で入院した親父よりも若い人が亡くなるような病室で明日をも知れぬ日々を乗り越えました。
それでも殆どの場合、5年前後で亡くなられる方が多いと聞いていた訳ですが、親父は持ち前の頑健さと根性で前人未到のご長寿街道を邁進していっていたのですが、僕らはずっと半信半疑のまんまでしたよ。
肺炎で入院が三回、?四回か?
一昨年はすい臓がんの診断すら下りましたが奇跡の回復。癌の兆候はマジで消えたのであります。
ヘタすると先に逝くのは我々だ。とか
じいちゃんは死なない。とう確信に近いも思いを近年は抱えていたのでありました。
5/28そんな父もいよいよ食事が採れなくなり、その一ヶ月後には水分摂取もできなくなりました。
いよいよに備えて家族でお見舞いに行きましたが、意識はしっかりしていて孫達の顔をみて喜んでおりました。
普通、食事が止まり水分も採れなくなりなると、だいたいどの位で?とスタッフの方々に聞いてみるものの誰もはっきりは応えてくれません。そりゃそうだよな。
7/1月曜日肩呼吸が始まりいよいよ危険な状態になってきたということで夫婦で仙台に駆けつけましたが到着した時は平穏。火曜日も。おばがお見舞にきて話し掛けたら笑ったりしておりました。
これって普通?流石にスタッフの方々も首を横に振っていました。そだよなー。なんっつてもじいちゃんだからなー。
明日も大丈夫なら一回帰って仕事してくるか。力強く握り返してくる手を放して「明日また来るねー」と施設を後にしましたが、深夜遂に帰らぬ人となりました。帰っちゃってごめんな親父。
勿論本人本当に頑張ってきました。施設の長老にして右に出るもののない最長記録ですよ。
しかしこれを支えてきた介護スタッフの皆様。東日本大震災の際には、電気も水道もガスも止まっているなか一度も欠かさずに食事を与えてくださいました。こんな献身的な介護なくして親父の長老はあり得ませんでした。
忙しいなか時間を作って訪ねてくれた友人、親戚の皆様。無理難題を言い出す父を見放さず最後まで本当にお世話になりました。父は皆様から多くのエネルギーをいただきました。
兄弟夫婦、そしてカミさん子供たち、休みといえば仙台へ帰り父のところに通うのが僕らの生活の一部となってるくらい多くの時間と労力を注いでくれました。
長い間本当にありがとう。そしてお疲れ様でした。僕はこれからこの返しきれない御恩を少しでもお返しできるように頑張ってみようかと思っている次第であります。