松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

コロナでフレイル

2020-10-14 | からだの風景-みる・さわる・かんじる-
またしても久々の更新です。
事あるごとに(私たちは)コロナとともにある社会を生きていくことになったのだなぁと実感する日々、いかがお過ごしでしょうか。
今回はコロナ自粛を経て身体に現れた様々な不調の中でのフレイル体験について。

思い返せば、コロナ感染の拡大によってずっと緊張感を強いられてきたことによる心身へのダメージは、かなりきつくなってきていたと思います。
私の不調の始まり方はたいていの場合、睡眠の質から。
ほぼ並行して食、排便(便秘)と波及します。
体調的には腰痛。最近は四肢に痺れも。
気分的にはウツっぽくなり内向傾向が強くなります。


太極拳導引の練習会も自粛で休止。
三密回避を優先すれば自宅での練習とならざるを得ず、身体を動かすには質量共に十分とは言えませんでした。
平常とは言えない状況の時こそ気持ちのありようと、なるべく平静さを目指して身体を動かしてはみても一向に気は晴れず、リラックスできているんだかどうだか。
心理面でもいつも緊張感がつきまとっていて動揺しやすかったかな。
そもそも意識的に穏やかでいることにも限界があると。
(そこまでの力量に達していないってことですね)

そんな状況の中、いくつか変調の兆しが体に現れました。
右脚の動きがいつもと違うような感じ。
歩行時に重い感じで、腰も何かを庇うような感じ。
体幹もイマイチで肚も座らない感じ。
背中、上部胸椎が硬い。
いつもは左腰が痛むのになぜか右側に違和感。
これはちょっとおかしい。

ということで久々に整形外科を受診したのが6月下旬。
診断は変形性腰椎症。
医師からは加齢による病態は致し方ないものの、運動習慣(太極拳導引)があることからこのまま保存療法で行けるのではないかと。
筋力低下の部位に関しては筋力トレーニングもありかとも思う。
希望するならばリハビリテーション科で受けることも可能と。
せっかくのチャンスなのでリハビリテーション科で筋力トレーニングを受けてみることにしました。



ちなみに整形外科でもコロナ自粛をきっかけとする(思われる)不調を訴える人が増えているとのこと。
私のケースも多分フレイルになるのだろうと思います。
フレイルについては自分ではもう少し先の話かと思っていたのですが、コロナおそるべしです。


更年期って土用みたいなものかも

2020-08-05 | からだの風景-みる・さわる・かんじる-
更年期といえば、女性ならば閉経前後の
10年間くらいをさすみたいですね。
また、男性の更年期や更年期障害についても
認知されて久しいこの頃。
この時期はちょうど人生の節目や
身体的心理的な変節を迎えるタイミングとも
重なる人が多く、内外ともに不安定な状況。
そのため心身のバランスが崩れやすく
不調が現れやすいのですね。

ただ皆が皆、いわゆる更年期障害となる
というわけではありません。
不調にも程度があるというか
日常生活に支障が出るほどになれば
痛かったりつらかったりします。
できればなるべく穏やかに
更年期を過ごせたらいいんですけれどね。


人の一生を春夏秋冬に例えたりしますよね。
青春
朱夏
白秋
玄冬
の四つの季節です。
それぞれの季節の変わり目が
人生の節目に重なるとも言われたりします。
季節の変わり目に土用があるならば
人生の節目にも土用にあたる期間があるのでは?

更年期といえば秋から冬への変わり目
みたいな印象が強いですが、
たぶんそれまでの変わり目にあっても
それなりに心身ともに不安定になる時があったような。
少なくとも私にはありました。

私の場合、人生的にはこれから冬を迎えるわけで、
季節の変わり目としては、これまでになく
ちょっと厳しいのかもしれないです。
春から夏みたいなワクワク感もなければ
夏から秋のような感傷的な淋しさもない。
衰え弱ることへの受容、諦念の果ての安穏に
落ち着くのでしょうか。

秋から冬に向かう土用の期間。
すでに体のあちこちにガタつきが出ていますし
これから先シニアなりの楽しみも味わいたいと願ってます。
養生を重ねつつ
日々淡々と過ごしていけたらいいなあと。








五体のいろいろ

2015-11-05 | からだの風景-みる・さわる・かんじる-
体全体を五つのパーツに分けて
五体と呼ぶわけですが、
どうも洋の東西を問わないらしいです、
なんで五つなのでしょうね。


東洋思想でいえば
すぐに浮かぶのは陰陽五行学説があります。
五行の五は木火土金水の五要素の五です。
そして五という数は全てを表すとされています。
だから五体といえば人の全身を意味する。
ここから五体満足という発想も生まれたのでしょう。

では、五体とは具体的にどの部分なのでしょうか。
調べてみてビックリしました。
五つに分ける分け方がいろいろありました。
ということは分け方の数だけ
根拠(視点、考え方)があるということになります。


一般的な五体は「頭・四肢」です。
外観通りの一見して納得しやすい分け方。
他には「頭・頸・胸・手・足」というのもありました。
これらは人体解剖学的見地からの五体
ということになるらしいです。

さらには「頭・腕・胴・足・心」という分け方も。
こちらは可視部(頭・腕・胴・足)と
不可視な部分(心)との組み合わせ。
このあたりになると
哲学的要素も入ってきているような感じですね。

中医学などでは「筋・肉・骨・脈・皮(毛)」に分けます。
東洋医学ではすじ(筋)と肉は別ものとします。
また身体を表層から深部へと
層にみたてているような印象も。
さらには脈を組み込むあたりはユニーク。
流れ・巡りをいかに重視しているのかがわかります。

おもしろいところでは仏教の作法にも
礼拝時には「額・両膝・両肘」を大地に接する(投地五体)
というものがありました。単に礼法というだけでなく、
それなりの理由があるのかもしれません。

五体とする分け方ひとつにも
意識の置き所に微妙な違いがありそうです。
なかなか興味深いです。


ブルース・ファートマンと学ぶアレクサンダー・テクニーク(2015.2.8)_02

2015-03-16 | からだの風景-みる・さわる・かんじる-
午後からのアクティビティ・ワークで
私は太極拳でワークを受けました。
ワークを受ける順番が
あらかじめ決まっているわけではなく
その場の流れによって決まっていきます。
というわけで私のワークも唐突に巡ってきました。

ちょっとドキドキしながら始めると
ブルース先生の声がかかって早々に中断。
先生が椅子から立ち上がり私の背後に立つと
先生の手が私の身体にそっと触れてきました。
そして静かに穏やかな声で"OK...yeah"と
繰り返し囁きながらアクティビティ・ワークが
始まりました。

自分の準備が整わないうちに
動き始めようとしていたなと我に返りました。
気づくことは我に返ること、
つまり気づく前の状態は我にあらず、
忘我の状態だったということになります。
慌てている、落ち着いていない、冷静でない。
平常ではない状態にありました。
それを陶芸の映像にたとえるならば
まだ粘土にもなっていない未熟な土をロクロに乗せて
つくり始めようとしてたようなものです。

自分で自分の状態に気づけていなかった。
準備にかかる時間は浪費ではない(無駄じゃない)。
まさに「急いてはことを為損じる」です。

私(陶芸家)が私の身体(土)を
ととのえきれてないままに
次の段階へと進もうとしたのを見て
ブルース先生(陶芸家)の手が
私の心身(土)に伸びてきた。
私が冷静になったところで
次へのきっかけとなる方向性を伝えてきた。
冒頭のシーンはそんな感じのワークだったのかなと
思いました。

その後も先生は太極拳を続けるよう促して
私の身体に触れ続け、ときどき動きを止めては
何かしら気づかせてくれるようなワークが続きました。
それは一方的に強制されたり
抑制されているわけではありません。
むしろ習慣化した身体の使い方や
意識の巡り方をしていることに
気づかせてくれてるような感触が残りました。

道は方法は一つじゃない。
もっといろいろ試してみてもいいじゃない?
そんなアドバイスをいただいたような感じがしました。


ところで、ひとつ謎が残っています。
土、ロクロ、陶芸家の手はわかりました。
では水とは何ものなのか?

ワークを受けていたときを思い起こすと、
陶芸家はブルース先生、粘土は私、
ロクロは…その場(もしかしたら地球?)。
そして問題の水ですが、それはもしかしたら
ブルース先生と私との間に交わされていた
何らかの(たとえば気持ち?)交流が
それにあたるのかなと思ってみたりしています。
相手を信じる思い、感情のようなものかな。

ブルース先生の言動からは
私がしたいことを理解してくれているように感じらた。
私の視線の向く方向を一緒に見てくれていると感じた。
共鳴、共感がそのベースにあったのかなと。
だから私は安心して先生の手を受け容れていた。
変化する自分を素直に受け容れられそうな気がした。
だから先生とともにチャレンジしてみようと。
そしてやってみたら、案外よい感じだった。
新しい自分に出会った気分になった。
思わず笑みがこぼれた。
そんな感じだったのかなと思いました。


それともうひとつ、
ブルース先生が水のように思えたこと。
水は冷静です。
少しの空気の流れにも水面は軟らかく揺れます。
些細な変化にも応じる備えができています。
そして水はどんな形にも変化する(受け容れる)
決まった形を持ちません。
水の性質は柔軟だけれども弱いわけではない。
表面張力は太極拳の掤勁のようでもありますし。

このへんは正直なところ、よくわかりません。
とりあえず今はそんなふうに感じています。
機会があればまた参加してみたいと思ってます。




ブルース・ファートマンと学ぶアレクサンダー・テクニーク(2015.2.8)_01

2015-03-15 | からだの風景-みる・さわる・かんじる-
ブルース・ファートマン(Bruce Fertman)先生の
ワークショップに参加してから1ヶ月あまり。
なぜこんな時期での更新となったかというと、
当日の感想メモが途中で見当たらなくなり
一度は諦めたのですが、
最近になってそのメモが見つかった
という恥ずかしながらの事情のせいです。

アレクサンダー・テクニークのワークショップは
これまでにも何度か体験しています。
私はアレクサンダー・テクニークの教師を
志しているわけではないのですが、
ワークによって繰りひろげられる変容は
そのどれもが固有でありながら
どこか普遍的にも見えてくるのが興味深いのです。
その場に居合わせることができることが
単純に楽しいのです。



ブルース先生の今回のワークショップは
陶芸の動画のシェアから始まりました。
それは土をこねて粘土に練り上げるまでと
練り上げた粘土をロクロを使って
器ができるまでを写したものの2本ありました。
映像に登場するのは土と水とロクロ、
そして陶芸家の手です。
ワークショップの内容が進むにつれて
なかなか示唆に富んだ映像だなと思いました。


土を手で捏ねて粘土をつくる。
対象(土)にはたらきかけていく手の動きが
微妙に変わっていきます。
それは土の質感が刻々と変化しているからでしょう。
最初は土の中に含まれている空気を抜くように
押しつけるような仕草から
しだいに微妙にひねっていく所作が見えてきます。
やがて土の表面にまでひねり紋様が現れる。
この段階になると、土は最初の質感と
かなり違うように見えます。
こうして土は粘土となり準備がととのい、
かれの手もまた準備ができましたと。
陶芸家の意を土に伝えるのが手の役目ですから、
手もまた、ととのっている必要があります。

そしていよいよ粘土の塊から器をつくり出す。
今度はロクロが加わります。
ロクロの回転の調節には大概は足を使います。
手足を自在に使うために
陶芸家は腰掛けた姿勢(座り姿勢)に
なっていることでしょう。

土を乗せたロクロを回転させながら
全体の状態をととのえるために
しばらくの間、土を上方へと盛り上げたり
低く沈み込ませるようにしたりと
粘土が上下動をくりかえすところに
ロクロの回転運動が加わるので
自然と螺旋運動へと変わって行きます。
(この状態は地球上で活動している私達の
ようにも思えました)

水は土と手との関係を潤滑にする
触媒のようです。
水を含んだ手指が土に触れると
螺旋の筋目が美しく描かれて行きます。
水によってロクロの回転で生じる
摩擦や熱も抑えられ、
土は柔軟さを保ちながら
手指の動きに応じて姿を変えて行きます。

こうした仕組みはたぶん
ヒトのなかにもあるのだろうなと思えてきます。
そして(私が)気になったのは水です。
水のイメージといえば
潤い、軟らかさ、決まった形がない…
などが浮かびます。

ときに感じる動きにくさ、○○しにくさといった
違和感や緊張感がうまれる状況とは
もしかしたら水不足になっているのだろうか。
では、水なるものの正体は?
なんてことを、つらつら思ったりしてました。



油切れ

2015-01-21 | からだの風景-みる・さわる・かんじる-
私が整体を学んだてあて整体スクールにて
リピート受講していたときのことです。

授業のはじめは整体師の手をつくる
触診からスタートします。
じつはこの触診も
その内容というか“みかた”が日々更新されていて
たまに参加すると戸惑ったりします。
じつは最近になって
またひとつ手順が増えていました。


触診は、その人の体の状態がどうなっているのか
手で触れて判断します。
ですから練習では、その人の状態を知る手がかりを
伝えてくれる手をつくること、
そしてどうなっているかを
自分で判断できるようになるために
毎回お互いの体を触診しながら
どういう状態になっているか伝え合っています。

最終的には触診も施術も
自分ひとりで施するものなのですから
練習の時からひとりで決めていくことが
理にかなった実践練習となります。
見立ての正否はいわば二の次で、
まずは自分が決める。


で、先日の触診練習のときのことです。
先生を触診させていただいたときに
腰が痛いと話されていたので
先生の痛みの感じ(印象)を探りながら
雑談していた流れのなかで
ふいに出てきたのが「油切れ」です。

要するに油が切れちゃったような感じ

ああ、わかる、わかります、その感じ!
先生の感じている感覚を自分の感覚として
つかめたように思った瞬間です。
共鳴したというか共感できた感じがしました。

そういえば油切れなんて
久しく聞いてなかったような…
とっくに廃れちゃった言い回しかもしれない。
かろうじて思い浮かぶのは
充電切れくらい?

でも、油切れと充電切れとでは
ちょっと違うように思うんですよね。
充電切れは蓄電ゼロですから
まったく動かなくなっちゃいますが、
油切れというのは
まったく動かないわけではないのです。
だましだましなら使えるような状態。
つまり、ここでいう油切れの油というのは
燃料油ではなくて潤滑油なのです。
動きがよくない状態を例えた表現です。
動きにくくなってきた道具や機器類に
機械油を差して動きを改善した経験がないと
ちょっとわからないかも…

というような話でした。

元気と健康

2014-11-05 | からだの風景-みる・さわる・かんじる-
最近、元気ということばを
あまり耳にしなくなってきたように感じます。
お元気ですか?というように
あいさつ代わりに使うことはあっても
自分の身体やこころの状態を
言い表すことばとしては
あまり使われていないような気がします。
現在は元気よりも
健康の方が身近に感じるのでしょうか。

これはあくまで個人的な意見ですが
元気と健康とでは体や心の見方・とらえ方が
違うのではないかなと私は感じています。

私にとっての元気とは
生命力のようなものです。
命がある限り備わっているもの。
そして元気の程度、
どのくらい元気なのかということは
本人がいちばんわかっているもの。
そんな気がしています。
いってみれば元気は
本人の主観によって左右されるものかな。
ですから他者からみれば
とくには問題もなさそうにみえても
本人が不調を訴えたりすれば
おそらくその人にしかわからない
何かがあるのだろうなと思ってしまいます。
そうかと思えば、病気で療養してても
穏やかな笑顔で話しかけてきたり
力のある眼差しを向けられたりすると
病んでいる人とは思えなかったり
自分よりも活き活きしてみえることがあります。
こういう場面に遭遇したときの私は
元気という視点から
(その人を)みているのだろうなと思います。


健康には元気とは少し違った要素が
入ってくるのではないかと思っています。
健康という視点には健康とされる一定の状態が
数値データに置き換えられて用意されています。
つまり健康は検査情報の収集、照合、判定が
できるものでもあるのだなと。

いってみれば健康診査や健康診断は
健康状態における問題点を探すのが目的です。
健康であるための一定の条件に
適合するかしないか振り分けるシステムとも
いえないことはないかと。
適合すれば問題なし(健康といえる)
そうでなければ健康指導や加療へと次のステップに。
もちろんこれは保健制度としても
効率よく考えられた優れたシステムだと思います。
ただし、健康基準値の設定しだい(さじかげん)で
健康とされる範囲が拡大縮小する点は
留意しておくことも必要かなと私は思っています。
というのも基準値に近い数値を維持している人は
基準値が変わっただけで
それまでの状況が一変する可能性があるからです。
いまのご時世、健康上の問題の有無は
生活全般に大きく影響しますから。
自分の体の状態を自分で把握しておくことは
気持ちの上でも大切だと思います。

健康という視点だけで考えていると
何となくもやもやっとしてくる部分が
正直あるのです。
おそらくは主体性の問題なのかな。
病を招いたのは自分、治すのは自分の体。
最終的には自身のあり方なんですよね。
自分が変わらないと…ってことです。


さまざまな健康情報が巷には満ちあふれてます。
いたずらに心配や不安を煽る状況は
立派なストレス源です。
それだけで血圧が不安定になったり
血糖値が上がることもあります。
健康を気遣う人ほど、心配性の人ほど
この手のストレスには弱かったりします。
触らぬ神に祟りなしです。
自分を不安にさせそうな情報を自ら断ってみるのも
ひとつの健康法となり得るかもしれません。

健康であることにとらわれすぎるあまり
自分の体と向き合うことを忘れてしまうことは
ひじょうに残念なことだと思います。

健康とは、元気とは何なのだろうと
改めて問い直してみているこの頃です。


日々これ易なり

2014-09-04 | からだの風景-みる・さわる・かんじる-
徐脈の傾向はあいかわらずのようですが
少し落ち着いてきたようです。

徐脈の程度は要経過観察とはいえ
いますぐ医療対処が必要ということではありません。
それにしても…です。
徐脈はあまり気持ちのよいものではないです。

血圧が低く脈拍数も60あればよい方なので
血の巡り方もゆっくりで
心臓から押し出す圧力も弱いために
全身を巡る血流も弱く滞りやすくなる傾向に。
そこで筋肉を緊張させ血管に圧をかけて
巡り力を何とか補おうとしてるのかもしれません。

これまで課題としてきた緊張についても
少し見直してみることにしました。
緊張感は体の反応と心の反応があります。
おもにコントロールできるのは
心、感情の動きですね。
コントロールというのも
観察に近いニュアンスかもしれません。
感情のコントロールといいながら
つい力づくで導いてしまいそうになります。
意識的に高揚させたり
抑制させてしまうこともありがちです。

それとは違ったやり方、
たとえば感情の流れを利用しつつ
意のままに仕向けていくというか…。
そこらへんを目指してます。
感情の流れぐあいを観察した上で
目標と流れとのつりあいどころを
探りつつ辿っていくみたいな。


体の通常な状態をわかってるのは
体自身だと思います。
徐脈は体のリズムのひとつであり
体調の持ち味と(私は)考えています。
私はこの体で生きてきたのだし、
これからも生きていくのだから
体の変化についていくことも
私の生き方の一面でもあるわけで。

この世のものには対になる対象があって
その両者間のバランスの移ろいが
さまざまな様相をうみだしているとする
考え方があります。

易という文字は日と月からできていると
聞いたことがあります。
日と月も対の間柄であり
陰陽の理に基づくつりあいの変化の妙を
みせてくれます。

徐脈は拍動リズムのひとつの状態です。
それ自体が自然の理から
外れているわけではありません。
徐脈という環境のもとで
私の体はそれなりのバランスを
とっていられるのだからOKなのです。

体に無理させる必要はないと思いつつも
心の手綱捌きには手を焼いてます。
やりすぎたり不足したりと失敗続きです。
これもまた自分と向き合う練習ですね。



最後に最近チェックした野口晴哉氏のことばを
記しておきます。

《異常を除いて正常であろうと考えている
養生人は多いが、 問題は異常ではない。
問題は異常の中に正常を保っている
体のはたらきである。
それがどのように働いているのか、
それを確かめることに養生の道がある。》


体調異変でみえてきたもの

2014-08-06 | からだの風景-みる・さわる・かんじる-
要は親から引き継いだ体質の影響と思いますが
徐脈(脈が遅い・1分間の心拍数が60以下)が
顕著になってきて、それにともなう血圧の低下、
動悸などがちょこっと出ています。

徐脈については2年前の健診で指摘されており
要経過観察に。
徐脈に該当する人は比較的多いらしく
スポーツ心臓の持ち主なども該当するとか。
したがって徐脈でも直ちに病気というわけではなく、
たとえば1分間の心拍数がつねに50を切るようになると
病気とみなされ、ペースメーカーを埋め込むような
処置を行うようです。

小学生の頃までは平均的な心拍数(70~72くらい)
だったのだと思いますが
いつ頃から徐脈傾向が出てきたのか
よくわかりません。


じつはこれによく似た感じを
過去に経験しているような気がします。
そっくりではないけれど
過呼吸症候群で体調を崩していた頃に
似ているように感じるのです。
医師から呼吸が浅くなると
過呼吸の発作がおきやすくなるから
なるべくゆっくりと深い呼吸をするようにと
アドバイスされたことが
呼吸を意識するきっかけになったのは事実です。

当時の私は体が成熟しようとして
大きく変動する最中でした。
今度は老齢期へとシフトする時期を
迎えていることなのでしょう。
もしかしたらこれまでのやり方では
ちょっと難しくなってきたのかな
と思ったりしてます。

からだはつねに変化している。
私のからだが私をつくり
私が私のからだをつくっているのだと
改めて思いました。

過呼吸の頃にお世話になった鍼灸の先生は
残念ながらすでに他界されていますし
太極拳導引をライフワークと感じたのには
それなりの根拠があったともいえます。
さらに整体師としての視点も加えて
かねてよりなじみのあった
漢方や中医学的な視点や考え方、古典哲学なども
少しずつ学び続けてきました。
こうして学んできたことを頼りに
自身で方を決めて取り組むことになります。
ちょっとわくわくするようなところも
なくはないです。

いま改めて挫折感絶望感で過ごした
不安な日々を思い起こしつつ
あの頃よりは数段落ち着いている自分を感じます。
生きてきた年数の分の満足感も
それなりにありますし、ゴールについても
より確実に身近に感じています。
こうした心理面にみられる変化も
自然が備えているバランスの妙なのかもしれません。

案ずるより産むが易し
心配事のほとんどは事なきに終わるような。
不安の大部分はあたまの妄想なのかも。
からだはより現実的実践的に反応するのかも。
あたまとからだのつりあいを
なるべく冷静に客観的にみられるように
日々ととのえることが課題となりそうです。




いのちは衰えない・益寿延年不老春(NHK-SP「人体ミクロの大冒険」を視聴して-4-)

2014-06-24 | からだの風景-みる・さわる・かんじる-
今回のシリーズを視聴して
印象に残ったことや感想などをぽつぽつと。


老いの正体が解明されつつある現代。
アンチエイジングという考え方も
時代によりあるいは個々により
さまざまであるように思います。

究極のアンチエイジングは
不老不死といえるのでしょうが、
それはつまるところいきものとしての使命
(いのちを次代につなげること)を
否定することになるのではないかと
私には思えてきます。

たしかに体(細胞)は
加齢とともに衰えていくけれども
いのちは最後まで衰えていないのではないか。

このシリーズを通して
私はそのような思いを持ったように思います。

目に見える物質である体は
60兆個の細胞からできています。
細胞の衰えが肉体や精神の衰えとして
現れるのだけれど
いのちはエネルギーというかパワーのようなものだから
次代に引き継ぐ(死を乗り越えていく)ことが
エネルギーの本質であると思えるのです。

私は科学者ではないので
論理的には破綻してるかと思いますが、
直観的な考察というか思いを述べてみます。

いのちは根源だと思っています。
細胞が活動できるのは
いのちのパワーがあるからだと思います。
したがって細胞を若返らせたり
蘇生したり再生したりしてみても
もともとのいのちのパワーが衰弱していれば
一時的のものとなるのだろうと思います。

いのちのパワーは
親から受け継いだ先天的なパワーの他に
呼吸や食を介して自然界から
後天的なパワーとして補填していると
考えられます。
いのちのパワーは消耗と補填のバランスで
循環しているようなものです。

たとえば、いのちのパワーという表現が
なにがしかの胡散臭さを招くとするならば
「からだのエネルギーは呼吸と食事からつくられている」という
表現でもいいのかもしれません。
(たぶん科学的にもこれは間違いではないのかなと思います)


長寿ですこやかに生活している人達は
よく笑い穏やかな表情をして
ものごとを楽観的に考える余裕があるようです。
余裕とはすなわち無欲に通じるような。
「こんなに長生きするとは思っても見なかった」と
笑いながら話すかれらだって
平坦な人生を歩んできたわけではないでしょう。
もうダメかもと思うような出来事にも
何度も遭遇してきたのだと思います。
それでもなんとか生き延びてこられた。

頑張る細胞を支援し貢献している
ホルモンの存在も忘れることはできません。
成長ホルモンなどは体をつくりあげるために
幸せホルモンや癒しホルモンは脳神経系に作用し
安らぎと豊かな情感を醸し出してくれる。

老人は顔や体はしわくちゃでシミも多いです。
髪や歯もなかったりします。
外見や動作には年齢なりの衰えがみてとれます。
ですが瞳の輝きや話す内容や口調には
チャーミングなほどに何ともいえない活力を
みる者に感じさせていたように思います。
これがたぶんいのちのパワーなんでしょうね。


私が愛好している太極拳導引では
健康は生きる目的ではなく手段と考えます。
健康でいたい、健康になりたいのは
その先に実現させたい希望や目標があるからです。

自分の夢や目標を実現するためには
まずは心身の健康があってこそ。
健やかなときもそうでない状況に陥っても
いつも目標を見失うことなく意識し続けて
そのときどきに相応しいやれること、できることを
見つけ出しくふうしてみることが大事。
いってみれば、いのちの使い方を
学んでいるんだなと改めて思っています。

それがたぶん「益寿延年不老春」という
伝統養生の考え方なのかもしれません。
最先端の科学紹介番組が
じつは伝統的養生の説く世界の
再発見になったような気がします。



ということで、このシリーズのアップも
今回で完結かなと思っています。