推手といってもまだまだ双手もおぼつかないような段階だが、
それなりに気づくこともあるわけで。
師(先生)によれば
推手を追求していけばおのずと武術寄りになり、
導引からは離れて行くことになるそうだ。なるほどなぁ。
太極導引と太極拳との違いは明確だ。
太極導引はいってみれば健康体操であり健康運動だから
自身の内部の陰陽バランスを調整することが目的である。
さまざまな導引法における共通点は
気血の巡りの調整を目指していることかな。
バランスが崩れるのは偏りが存在する、
すなわち中心中庸の“中”が何らかの原因で
(本来あるべき状況から)崩れたために起こるのだし、
偏った状態とは
本来循環すべきものを滞らせたり淀ませたりする条件が揃っている、
もしくはそのために偏った状態が生じているともいえるわけで。
万象の通りや流れが円滑にいかなくなる条件が揃うことは
陰と陽のそれぞれの性質を曖昧にさせることにもなる。
太極として表現される生態リズムが崩れてしまうことかと。
日頃の調整を行うために
より効率的で自然な姿勢や身体操作ばかりでなく
感情や考え方などといった
心理面をも含むコントロール力を身につけること。
それが太極導引の練習目的なんだろうなと思っている。
一方の太極拳は武術。
格闘技であるからには常に倒すべき相手がいるし
一手必殺の世界。
非常に厳しい状況に自身を追い込むのだから
相当のタフでなければ持ち堪えられない世界なんだろうと想像。
常に相手がいて、どんなに厳しい状況においても
不動の精神力と不断の身体操作を発揮する
陽的な太極拳に対して、
自身の内部の調整を第一義とし、
その上で外的環境との協調をめざす陰的な太極導引。
似て非なるものではあるけれど、
太極導引で行う套路鍛練は太極拳套路だし、
各動作の意味は武術的解説に基づいているように、
まったく繋がりがないわけでもない。
乱暴な言い方をすれば遠い親戚?といったニュアンスだろうか
(なんて言ったら太極拳を学ばれている人から
物言いがつくかもしれないけれど)。
当然のことながら推手もまた
太極導引的アプローチで行っている。
推手は相手と自分との間の陰陽バランス。
いわゆる攻防であり
勝敗というわかりやすい図式の陰陽関係でもある。
導引的には相手(外部)から受ける影響によって
自身の内部に起きる変動を感じながら
その都度対応していくことなのかな。
直接相手に対して
反応しようとする(攻防関係をメインに考える)のではなく、
まず自身の内部の陰陽バランスを感じることが
重視されているのかも。
あくまで自身の内なる状況を保つように考えるとでもいうのだろうか。
相手との関係において求めるものは勝利ではなく、
いかなる相手とも協調関係を保とうとする
柔軟な対応力なのかな。
少しずつだけれど
相手の状態を探ろうとする意識が働き出したみたい。
相手を探ろうとしていることを(相手に)察知されれば、
いいようにあしらわれている。
定歩の段階だから激しく振り回されることはないにしても、
軽重の変動に翻弄されることは多々あり。
それだけで自分の軸はぶれまくってしまう。
変化に対していまだ反射的に身構えてしまう自分。
わかっちゃいるけど…
力が入りまくりで軸を簡単にとらえられて崩されてしまう。
変化に対する処し方とはどういうものなのか、
まるでできてない=わかっちゃいない。
これもまた陰陽バランスなんだろうけどなぁ。
焦らずボチボチと
それなりに気づくこともあるわけで。
師(先生)によれば
推手を追求していけばおのずと武術寄りになり、
導引からは離れて行くことになるそうだ。なるほどなぁ。
太極導引と太極拳との違いは明確だ。
太極導引はいってみれば健康体操であり健康運動だから
自身の内部の陰陽バランスを調整することが目的である。
さまざまな導引法における共通点は
気血の巡りの調整を目指していることかな。
バランスが崩れるのは偏りが存在する、
すなわち中心中庸の“中”が何らかの原因で
(本来あるべき状況から)崩れたために起こるのだし、
偏った状態とは
本来循環すべきものを滞らせたり淀ませたりする条件が揃っている、
もしくはそのために偏った状態が生じているともいえるわけで。
万象の通りや流れが円滑にいかなくなる条件が揃うことは
陰と陽のそれぞれの性質を曖昧にさせることにもなる。
太極として表現される生態リズムが崩れてしまうことかと。
日頃の調整を行うために
より効率的で自然な姿勢や身体操作ばかりでなく
感情や考え方などといった
心理面をも含むコントロール力を身につけること。
それが太極導引の練習目的なんだろうなと思っている。
一方の太極拳は武術。
格闘技であるからには常に倒すべき相手がいるし
一手必殺の世界。
非常に厳しい状況に自身を追い込むのだから
相当のタフでなければ持ち堪えられない世界なんだろうと想像。
常に相手がいて、どんなに厳しい状況においても
不動の精神力と不断の身体操作を発揮する
陽的な太極拳に対して、
自身の内部の調整を第一義とし、
その上で外的環境との協調をめざす陰的な太極導引。
似て非なるものではあるけれど、
太極導引で行う套路鍛練は太極拳套路だし、
各動作の意味は武術的解説に基づいているように、
まったく繋がりがないわけでもない。
乱暴な言い方をすれば遠い親戚?といったニュアンスだろうか
(なんて言ったら太極拳を学ばれている人から
物言いがつくかもしれないけれど)。
当然のことながら推手もまた
太極導引的アプローチで行っている。
推手は相手と自分との間の陰陽バランス。
いわゆる攻防であり
勝敗というわかりやすい図式の陰陽関係でもある。
導引的には相手(外部)から受ける影響によって
自身の内部に起きる変動を感じながら
その都度対応していくことなのかな。
直接相手に対して
反応しようとする(攻防関係をメインに考える)のではなく、
まず自身の内部の陰陽バランスを感じることが
重視されているのかも。
あくまで自身の内なる状況を保つように考えるとでもいうのだろうか。
相手との関係において求めるものは勝利ではなく、
いかなる相手とも協調関係を保とうとする
柔軟な対応力なのかな。
少しずつだけれど
相手の状態を探ろうとする意識が働き出したみたい。
相手を探ろうとしていることを(相手に)察知されれば、
いいようにあしらわれている。
定歩の段階だから激しく振り回されることはないにしても、
軽重の変動に翻弄されることは多々あり。
それだけで自分の軸はぶれまくってしまう。
変化に対していまだ反射的に身構えてしまう自分。
わかっちゃいるけど…
力が入りまくりで軸を簡単にとらえられて崩されてしまう。
変化に対する処し方とはどういうものなのか、
まるでできてない=わかっちゃいない。
これもまた陰陽バランスなんだろうけどなぁ。
焦らずボチボチと