松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

季節の練習套路を楽しむ

2014-01-28 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
太極拳を愛好する人達は
それぞれの楽しみ方を
されているのだろうと思います。

朋昌会(ほうしょうかい)では
季節にあわせて練習套路を変えます。
といってもこれは専科クラスの話ですが。
練習は個人練習なのですが
全員で同じ套路を練習する時間が
設けてあるのです。
その套路が季節によって変わるのです。

たとえば、春から夏は陳式。
冬の間に縮こまっていた心身を
すみずみまで伸ばし動かすことで活性化、
開放を促します。
夏から秋は楊式。
心気を落ち着かせることで
体力気力の無駄な消耗を遠ざけます。
秋から冬は孫式。
コンパクトな動きを通して
内面からじっくりと協調を意識し
心身を養います。

こうして季節ごとの練習套路を
推奨しているのは
師ならではの指導スタイルなのかもしれません。
なぜ季節ごとに套路を変えるのか。
これはあくまで個人的な見解ですが、
季節感を実感させるためでもあるのかなと
推察しています。
現代人は季節の推移を暦で判断します。
気温や湿度、気圧の変化も体感や実感に基づく
主観的情報に頼るのではなく
テレビやネットの気象情報を介して
数値などの客観的情報(データ)として得ます。
養生の基本は万象の変化を感じる、
気づくことではないかと私は考えていますので、
師のこうした練習方法にも
いたく感心してしまうわけなのです。

伝統的な養生思考を現代に活かす。
古人の智恵を知識として伝えることは
書物やネット情報や学校でも可能ですが、
それを理解し伝えるには
現代の環境に合わせた手段、方法を
工夫する必要があります。
そして知識を智恵に変換させるには
暮らし(生活)に活かせるようなスタイルを
自ら編み出す必要があります。
私がライフワークにしたいと思っているのも
そこなのです。

五感が活き活きする環境として
温暖で四季のある暮らしが
どれほど恵まれていることか。
それが最近は春秋がどんどん短くなり
寒暖の差が大きく二極化してきています。
自然の変動に応じて
生き物が変化するのは自然の理。
平均化、均一化というのは
安定した状態に近づくともいえますが
一方で、ある方向に進み始めると
なかなか方向を変えず、
変化しにくく固まっていくともいえます。

空調の完備した人工的な気流のなかで
季節感のない食事をとり
長時間同じ姿勢で労働する私達。
心身をまんべんなく使わず
部分的に酷使する偏った運動思考回路が
不眠を招き休養ベタな人達が増えています。

そんな現代生活という土壌に
養生を根づかせるためのくふうの一環として
季節ごとに套路を変えてみる試み。
太極拳の楽しみ方として
ひとつのスタイルではないかと思います。
いわゆる健康志向の運動をしたい人、
太極拳を楽しみたい人には
太極拳導引は最適だろうなと私は思います。


そして誤解のないようにお断りしておきますが、
太極拳をもっと理解したい人には
師はひとつの流派を専修することを推奨しています。
養生という一面からのアプローチで
太極拳をすべて理解したことにはなりません。
そういうことも説明されています。


練習メモ(集体)

2014-01-22 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
大会に向けた練習も
そろそろ折り返しを迎える頃。
練習会場の状況もあって
楽曲に合わせる練習はほとんどしていない。
次回あたりに楽曲に合わせて
現状確認をするのではないかと思う。


集体練習の場合
動きをそろえたいので
視覚からの情報がメインになる。
そのため心理的には
見ようとしてしまいがち。
すると自然と目に力が入ることになり
眼球を動かす筋肉の動きが鈍る。
だから顔を動かすことになる。
いわゆるチラ見ができなくなってしまう。

視界とは案外広いものなので
意識的に見ようとしなくても
そこそこの範囲が見えているものだ。
そんなことを認識するだけでも
目の周辺の筋肉の緊張が解けたりする。
身体はほんとに些細なことに
いちいち反応しているものなのだ。

視線にとって現在進行中の動きは従で
メインは次なる動きをみているのだと思う。
つまり意識が表に出やすい部(パーツ)のひとつかと。
集体では全体の意が現れるのはどこだろう。
やはり動きなんだろうな。

表現される内容は多様であり
これといった規格はないのかもしれない。
ただ、集体とはこういうものだという
暗黙のイメージがあったりするのかもしれない。
たとえば集体を観賞していて
整然とした動きに美を感じたならば
あんなふうにできたらいいなと思うだろう。
だけど集体を演じてる当事者は
動きながら美を感じてはいないだろう。

整然とした動きの美しさを目標とすれば
整然と動くことを目指すことになる。
動きを揃えたいと思うのは
複数人で動作を揃えるのは難しいという
経験則が根底にある。
つまり本来動き方には固有のリズムがある
という前提があってのこととなる。
要は整然とした動きに見えていればいいのだ。
統一感も同様。
統一してるように感じられる見えればいいのだ。

いま練習していることは
細かな確認をして積み上げているのだけれど
たぶんある段階に達すると
それを捨てたみたいな段階に入るだろう。
自然ななりゆきだと思う。

個体差、個性を確認しあい
おとしどころ(中庸)をさぐりあい
これなら無理なく流れそうだぞという動きで
まとめあげたなら、たぶんいけるよね。

練習メモ(集体)

2014-01-12 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
11日は年明け最初の練習会。
休み明けの集体練習は
前回に引き続き方向や動きの確認。
そして今月の課題は「連続」。
これもまた理解を深めるチャンスになりそう。

連続させるものは勢。
勢は意識の向かう方向性で
主にあたるもの。
連続というからには
それはつながりを意味しており
主となる部が
次々と切り替わって行くことを意味する。
意識の向け先を切り替え続けて行くことで
連続した状態がうまれる。
意識と動きのバランス、協調。

集体練習では、イメージ上の個に対して
ひとつの意識を持たせて
勢を感じさせるような動きをどうやってつくるか
試行している段階。
これまで個人で練習してきたことをもとに
動きごとにそれぞれの見解を出し合う。
同じ方向性でも動き方や表現の仕方に個性がでる。

そうやって確認しあう中で
それぞれの物差しの使い方にも
微妙な違いがあるらしいことに気づいた。
物差しとは師から指導されたものだから
同じものを持っているのだろうけど
その使い方は少しずつ違ってくるものなのかな。

普段の個人練習では
師はその人の段階にあわせて
基準として伝えた物差しの使い方を
アレンジしているというか
その人に適った使い方を
指導してるような気がする。
それはその人の状態だったり理解の程度によって
変わっているんだろうなと。
またはその人に伝わりやすい
表現の仕方も変えているのだろうし。
そういう微妙な違いが
確認作業を通して見えてきたというか
感じられたというか。

ここはとくに誤解されやすい部分でもあるが、
その違いが明らかになった場合に
それが正しいか間違いかというような
観点にすり替わらないように
注意しないといけないんじゃないかな。
現況での違いというのは
むしろ選択肢が増えたと考えられるのではないかな。
(もちろん本来の師の指導を変容させていれば
それは誤りに他ならないのだけれど)
動き方をなるべく同じにしようとするときに
その選択肢が増えることは
どれに変えるか(変えないのか)、
どれを変えるのか(変えないのか)、
その都度選ぶことになる。

選ぶ過程でみえてくるもの。
たとえば体格、体力、生来的な柔軟度など
どうにもならない個体差はあるものだから
その人なりの動き方というものを
抑えすぎては無理につながるだろう。
そこから許容範囲という
一定の空間思考がみえてくる。
その許容範囲の妥当性を支えるものが
勢の共有になるのではないか。
目的を見失わないためにも
このステップがあるのは好いんじゃないかな。

無理のある動きは鬆、静、を損なう。
太極拳導引の集体表演のめざすところは
マスゲームのようなものではない。
勢(主)がととのっていれば
微調整などの個体ごとの動きの揺れ(従)は
隠れてしまうのではなかろうか。

さて、次回はどうなるのだろう。


練習メモ(集体)

2014-01-07 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
恒例の2月の大会に向けた練習が
年末から始まっています。
朋昌会としては初参加ですが
練習自体はとくに変わったことはありません。
ある意味いちばん変わったのは
意識面かもしれないですね。
誰の為でもなく自分の為、
自分達の為にやろうという気持ち。
いままでとはまたひと味違うような気が
個人的にはしています。



太極拳導引の鍛錬は
健身、養生をめざす手段、方法であるから
本来は各自で行うもの。
自分の一生を愉快に楽しく
できるだけ満足して過ごすためにも
心身の健やかな状態を手に入れて
維持する必要がある。
その実現のための健身養生の術を学び
身につけるために練習している。
したがって表演練習については
通常練習内容とは少し異なり
表演に要求されることが優先されることもある。

通常練習では
各々の内なる協調を求めて
各自で練習を重ねている。
一方の集体は個の集まりであるから
それぞれが部となった上で
一体感のある動きで
一様な世界観のようなものを
表現するものかと。
それは他者の存在を意識せずには
できないことだろう。
そこに自他との関係性がうまれ
自己内外の協調と調和をめざすことになる。


これまでの集体練習では
外形が揃って見えることを目指して
練習し表演してきたのだけれど、
今回はもう少し掘り下げて(複雑にして?)
みようとしている。
結果的に一体感のある表演を目指すことは
変わらないのだけれど、
動作を揃えるまでの過程に目を向けているのだ。
内面の意識を共有させる過程で
これまで練習してきた要求のひとつひとつを
皆で確認しあいながら応用できないかと考えている。

表面的な動きを真似て揃える段階から
内なる意識を共有することで
動きの一体感はどうなるのだろうか。
個人練習では感じ得ない何かを
味わうことはあるのだろうか。
そんなひと手間を加えることに
チャレンジしようとしている。
たとえば、主・従が入れ替わる現象ひとつにしても
意識の切り替えや自他との関わりのなかで
主と従の関係性の理解が深まるのかとか。
ちょっと欲張ってみたりしている。

動作構成を決め流れを確認する。
動作の流れと体の向きを決める足の運び。
それぞれ微妙に違ったりするのもおもしろい。
本人さえ気づかないクセが見つかったり
無意識だったことが
改めて意識し直されて行く。
太極拳導引的な考え方に立てば
評価はせずに味わうことに尽きるのだが。
強いて正しさの基準があるとすれば
おそらくは松、静、自然の状態に近いかどうか
ということかと。
そのためには時々刻々と変化する心身の状態を
感じたり気づくことが大切なのではないかな。

部となる個人それぞれが
その状態を満たせるような動き方が
今回チャレンジしている集体表演なのかもしれない。
それを探る検証が始まったところかな。
もしかしたら収拾がつかなくなることも
あるかもしれない。
でもまあ、そのときはそのときで。
集体経験者ばかりだから
そのあたりはいかようにもなるし。
練習再開が楽しみ。

2014年を迎えました

2014-01-02 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
新年です。おめでとうございます。

新暦では新しい年を迎えましたが
自然のリズム時間の流れでは
たぶん昨日の続きであり
とくに変わったことはないのでしょう。
人間だけがおめでとうと言い合っているのかも。


父が入院しているため
母と二人でおせちと雑煮を食べました。
静かなお正月です。

昨年は助けられた一年でした。
訪問介護のスタッフの方達がいてくださったから
父の異変に気づくことができました。
ありがたいことです。
脳梗塞による高次機能障害はあるものの
健康状態は安定し会話もできます。
めんどくさがりでものぐさな父はそのまま。

入院先の病院では
ソーシャルワーカーの方や看護師の方達から
老いや介護に対する考え方や視点の持ち方など
現場ならではのアドバイスを
いただくことができました。
さまざまな老いと向き合い接してこられた方達の
客観的な視点は学ぶことが多いです。
それは両親に対することでもあるけれど
じつは私自身の老いを受けいれる心のあり方
自分で満足できるような老い方を考える
そしてその先の
満足して逝く為の心と身体のととのえ方を
見据えるきっかけになったと思います。


太極拳導引を続けるために設立した朋昌会。
なんとか2年目につなげることはできたようです。
1年目は夢中で過ぎるもの。
朋昌会が根づくのかどうかを試されるのは
これからです。
今年は根づくためのはたらきかけを
さらにくふうしたいなと思っています。
そして個人的には、ようやく近づきはじめた
太極拳導引の神髄を
さらに確かなものへと理解を深めつつ
それにとらわれることなく
師の目指すところを見失うことなく
精進を楽しみます。


整体師認定試験に合格して既に4年がたちました。
家の事情とか環境とかもあって
なかなか腰を据えて計画を進められずにいましたが
自分が動けるであろう時間を考えると
そうそうのんびりと構えるわけにもいかないし。
当初考えていた方向性とは
ちょっと変わってきている感じもするこの頃。
仕切り直しからのリスタートです。