陳氏太極拳の講習会、久しぶりに参加してきました。
このところ教室では伝統楊式をやってますので
自分で練習するとき以外は
陳式をやる機会が少なくなっていました。
久々に陳式を意識した身体の使い方を
したからでしょうか、筋肉痛が出ました。
見直す所があちこちと見つかりました。
いつもとは違う状況での練習、楽しかったです。
理屈だけでは上達はしないけれど
理屈を知ることによって
自分の現状を客観視できる機会を
つくれるようになるともいえそうな気がします。
知り得た理論をどのようにして
いかしていくのか。
数ある楽しみのひとつとして
じゅうぶん“あり”ではないかと思います。
別に理論に基づいて
自分を合わせよう(実証・検証)として
練習しているわけではないです。
この手のものは、ことさらに意識したり
わかろうとする必要のない、
時期が来れば自然と納得できてしまうような
そんな性質のものではないかと。
自然の仕組みから導き出された考え方は
自然現象を観察し続けた結果です。
自然の仕組みには理論で解明できないような
未知なる要素が含まれています。
ですから“絶対ということはない”との前提のもとに
導き出されているような気がします。
正しさ、正確さだけでははかれないもの、
適合性、整合性といった
あらかじめ許容を認めるような感覚の方が
自然により近い感性と言えるのかもしれません。
そのような心境へと
しだいに導かれてきたような感じがします。
まだそこそこの余裕しかありませんが
いままでの視点と違うところから
自分を眺めている感触はありますね。
いまの状態をせいいっぱい感じているんですが
そこには一生懸命さも必死さもなく、
そよそよとした感じというか。
たとえば『風になりたい』っていうときの
風の感じってこんな感じ?と思うことも
少なくないです。
もしいま解放感や自由さを感じるとしたら
それ以前は(いま感じている以上の)
閉塞感、不自由さの中にいたんだなと思うわけで。
それに気づくか、気づかないかは
取るに足らないというか、意味はなくて。
それよりもいま感じている解放感、自由さにある
自分の状態を感じていたいなぁ。
このところ教室では伝統楊式をやってますので
自分で練習するとき以外は
陳式をやる機会が少なくなっていました。
久々に陳式を意識した身体の使い方を
したからでしょうか、筋肉痛が出ました。
見直す所があちこちと見つかりました。
いつもとは違う状況での練習、楽しかったです。
理屈だけでは上達はしないけれど
理屈を知ることによって
自分の現状を客観視できる機会を
つくれるようになるともいえそうな気がします。
知り得た理論をどのようにして
いかしていくのか。
数ある楽しみのひとつとして
じゅうぶん“あり”ではないかと思います。
別に理論に基づいて
自分を合わせよう(実証・検証)として
練習しているわけではないです。
この手のものは、ことさらに意識したり
わかろうとする必要のない、
時期が来れば自然と納得できてしまうような
そんな性質のものではないかと。
自然の仕組みから導き出された考え方は
自然現象を観察し続けた結果です。
自然の仕組みには理論で解明できないような
未知なる要素が含まれています。
ですから“絶対ということはない”との前提のもとに
導き出されているような気がします。
正しさ、正確さだけでははかれないもの、
適合性、整合性といった
あらかじめ許容を認めるような感覚の方が
自然により近い感性と言えるのかもしれません。
そのような心境へと
しだいに導かれてきたような感じがします。
まだそこそこの余裕しかありませんが
いままでの視点と違うところから
自分を眺めている感触はありますね。
いまの状態をせいいっぱい感じているんですが
そこには一生懸命さも必死さもなく、
そよそよとした感じというか。
たとえば『風になりたい』っていうときの
風の感じってこんな感じ?と思うことも
少なくないです。
もしいま解放感や自由さを感じるとしたら
それ以前は(いま感じている以上の)
閉塞感、不自由さの中にいたんだなと思うわけで。
それに気づくか、気づかないかは
取るに足らないというか、意味はなくて。
それよりもいま感じている解放感、自由さにある
自分の状態を感じていたいなぁ。