松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

一歩、一歩の拗歩かな

2008-06-26 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
先生への質問内容が
少し変わってきたかもしれない。

たとえば動作要領に対する質問も
意識の状態や
その働かせ方といった内容だったりで、
どうも内面的な状態が気になっているみたい。

たとえば球体意識と主次の意識とか
拡張意識と開合の意識との兼ね合いなど。
ひとつひとつは小さな疑問だけれど
これに対する先生の解説は多岐に及ぶ。
実はまだ理解しきれていない。
先生にはたいへん申し訳ないのだけれど
しばらくの間、似たような質問をくり返しそうな予感。


楽しんでますか

2008-06-18 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
自分が好きで始めたことでも
続けているうちにいろいろと変化がでてきます。

このところずっと探究心ばかりが強くなって
こころが楽しがっているというか
体全体で楽しいと感じることが
少なくなっていたような気がします。

ほぼ同時期に複数の方から
そのあたりのことを指摘されたのです。
言い方はそれぞれ違ったのですが
私には同じことを言われているように思えました。


練習は体と心の折り合いのつけ方を習得するためのもの。
それは自然界と自分の折り合い方にもつながっていきます。

探究するにも放松を忘れない。いつでも放松。
メインテーマですね。



学をなせば日々に益し -老子(道徳経)より-

2008-06-11 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
数年前から「老子(道徳経)」なるものを読み続けています。
ご存知の方も多いとは思いますが、
「老子」はその内容から大きく2つの章に分けられます。
前半は道(dao4)について、後半は徳(de2)について
語られていることから、道徳経と呼ばれています。

一応は通読しましたが、
読み終える頃には、はじめの方の内容は忘れており、
なんだかな~といった感じで…。
そこでまずは老子に親しむ方が先だろうということで
その日に無作為に開いたページの一節だけを読んでいこうと。
ほとんど遊び感覚ですね。

やり始めてほどなく気づきましたが
どうも開きやすい箇所というのがありますね。
最初の方とか最後の方は、なかなか読む機会に恵まれません。
で、今回のタイトルにあげた一節は
比較的開きやすい箇所にあるものです。


 為学日益、為道日損。損之又損、以至於無為。
 無為而無不為。
 取天下、常以無事。及其有事、不足以取天下。


 学問を修めていると知識は一日一日とふえてくるが
 道を修めていると一日一日とその知識は減ってゆく。
 減らした上にまた減らし、どんどん減らしていって
 ついにはことさらな“しわざ”のない「無為」の立場にゆきつくと
 そのしわざのない「無為」のままにいて、
 それですべてのことを立派になしとげるようになる。
 世界を制覇するのは必ず格別な仕事をしないで、
 あるがままにまかせていくことによってである。
 もし格別な仕事を少しでもしようものなら、世界を制覇することはできない。
             (「老子」無知無欲のすすめ 訳:金谷 治)



最近、先生から言われていることをつらつら思い返しながら読むと
なんというか…「聴く耳を持てよ」と言われているような気もしてきたり。

まったく気づかなかったことに気づき出すと
それに意識が傾きがちなんですが、
それはまたある意味で新たな枠をつくりかねないものでもあり、
しかも自ら仕掛けていく、いわゆる作為的な“しわざ”にも
繋がっていくような気もしてくるわけで。

例えば自分の場合は
生来の考え過ぎの性格ゆえに気の消耗を招きやすく、
さらには気の巡りもよろしくないわけですから
養生的にみてもコントロールできた方がよいわけで。

だからといって悲観しているわけでもないのです。
枠ができたらできたでいいじゃないかと。
できちゃった枠を壊していければいいってことだから。

いままでは枠を増やさないようにしたいとか
枠を減らすにはどうしたらいいのかと
腐心していたように思います。
この腐心が無用な消耗になるんですよね。

枠を壊すというのは捨てることにも通ずるんだろうなと
思い始めています。
枠とは境界線のようなものかもしれません。
何かしら限定するようなもの。
そこには経験や既成概念なども含まれるかもしれません。
枠を壊すとは、価値観や考え方も含めて
一度は身につけたものを潔く捨てることでもあるのかな。
もしかしたら発想の転換(のようなもの)なのかも。

納得できれば捨てられるかもと言いそうな自分。
納得する主体が自分だとすれば、
そもそも自分という枠がすでに存在しているわけで。
また自分とは何をもって存在するのか、
そもそも何なんだということにもなるわけで。
肉体としては存在するけれども
意識というか考えを巡らしている主体は
脳なのか肉体なのか。
人をコントロールするもの、主司とはいったい何なのか。
このあたりの問答をいま先生と展開中です。

その内容ですか? それはまだヒミツです。
なかなか理解するまで至りませんです。


最近の練習メモから

2008-06-01 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
最近また立ち方が変わってきた。
立とうとしないで支えるような感覚でいられると
いい感じみたいな気がする。
足が根っこみたいな感じというか…。
大地を圧しているのではなく
でも大地に乗っているというのとも違い
吸いついているというのともちょっと違う。
地中にちょっと埋まってるような。

とりあえずこんな感覚でいると
足首や膝、股関節がサスペンションのような
緩衝材のような働きをしているなぁと実感。
重心と重心を支えるように働いているある種の力と、
どちらも感じることができる。
これが両方の間におこっている陰陽虚実の変動を
体感しているということかと。
何てことはない。
自然にあるがままの状態に近づくことなのか。

とはいうものの、いざ動き始めると
その状態を維持するのはなかなかに難しく
気づけば踏ん張っていたり蹴り出していたりする。
背中側は意識の働き方が希薄になりがち。
全身をつかっていないから
一部に負荷がかかりすぎている。

うまくつかえていない部位はどこなのか?
それを把握できていなのは
意識の働き方にムラがあるということかと。
おそらく意識が届かないでいる所に
気血の流れの渋滞があると考えてもいいんだろうなぁ。
流れの悪い所を少しでも改善することが
冷えの解消にもつながる。

一般的に肩関節と股関節は緊張しやすい部位だけれど
それだけに自覚もしやすい。
だから自分なりの解き方をくふうできると思う。
たとえば肩関節の緊張は両手首をブラブラ揺らしてから
両肩を上下にトントンと揺すると解けることが多いみたい。
なんでだろう?
手首を揺らすには肘と肩に力が入っていると
うまく揺れないからだろうなぁ。

股関節も足首が固まっていると緊張する。
足首は膝をゆるめようとする(≒曲げる)と
自然にゆるむ(≒曲がる)みたい。
というか、足首を曲げないと膝は曲がらない。
そして足首が曲がる時は
自然に股関節も動いている(曲折している)

骨盤が垂れる(沈む)ようにならないと
股関節は動きにくいみたい。
そして後背部、腰周辺部が緊張していると
骨盤は下垂しないようだ。
などなど…

はじめから備わっている自然の連動システムを
ズタズタにしてしまったのは
後天的な意識(自意識?)がつくり出したシステムのせい?
つまり簡便、ラクを求めようとする気持ち?


ほんの少しずつだけれど
内面的意識的な変化をくり返しているような。
単なる錯覚かもしれないけれど、
それでも意識の働かせ方とでもいうようなものが
少しずつわかってきてるみたいな気がして
何だか嬉しかったりする。