松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

放松なくして導引にあらず?

2006-11-21 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
つくづくと自分は導引をしているのだろうかと思う。
まぁこれでも導引といえば導引かもしれないけれど、
導引としての質を考えると…大いに疑問。
どこか危なっかしいところがある。

太極導引は太極拳套路を利用した運動。
運動は運び動かすこと、つまり何かしら移動をともなう。
位置や方向の移動であり時間移動である。

太極導引が敢えて動作の正確さよりも
放松を第一に求めるということは、
言い換えれば放松できる範囲で動けということかと。
その上で呼吸と動作を一致させ(協調させ)
行雲流水のごとく安定して動けたら言うこと無し。
おそらくその段階までに到達する頃には
動作も自然と正確にならざるを得ないのだろう。
なぜならば正確な動作とは
陰陽の理にかなった動作のことだろうと思うから。

だから心身の緊張を意識的に解けないうちは、
一応運動にはなっているけれど
導引としてみれば初歩的段階なのだろう。
でもだからといって
自分の段階を気にすることは緊張を招くだけ。
こういう傾向のことはなるべく気にしない、
考えないようにすることが大切。
リラックスがヘタだと感じる人ほど
余計なこと、要らないことを考え過ぎているものだ。
これは自分自身がそうだからよーくわかる。

余計なことを考えるなというのは
自分の内面に集中する、
自分の身体状態を理解せよということかなと
今は思っている。
言葉で表現するのは難しいけれど
自分の状態がどうなっているかを知るための
分析と理解と実行と確認かな。


いかに効率よく移動するかというくふうは重要だが、
運動の巧みさは熟練することで培うもの。
技を覚えようとする前に
身体の扱い方を覚えることが必要かも。
技巧に先走ることは見かけだけを追いかけやすい。
つまり見る眼がない段階でいくら技を覚えようとしても
本質の理解はできないということ。
段取りというか手順というか、そういうものがあるということ。

そして何よりも運動する時間を積み重ねること。
現状はあまりにも時間が少ない。
これが何よりもいちばんの問題。
まとめて取れない時間はやりくりするしかない。
コマメにくり返すことも
実生活においては立派なくふうになるのでは?

ある出来事

2006-11-09 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
太極導引教室では現在、
基本科と専科のクラスがあるのですが、
練習の中身は太極拳の套路練習で変わりはありません。
つまりそれぞれの段階ごとに要求されるものが
少しずつ増えてくる仕組みになっています。

ところが初心者は基本科は簡単、専科は難しいと
考えているようです。
それはある意味では正しいのかもしれませんが、
難易をはかる基準が何によるのかによって
違ってくるとも思うのです。

一般的に浸透している太極拳の動きのイメージと
年齢体力を問わず誰でもできるという謳い文句につられて
“太極拳ならはじめてでもできそう”と
自分の中で想い描いていた幻想と
実際にやってみて味わう現実とのギャップの大きさに
たいていの人は大なり小なりの“ショック”を受けるものです。

こんなはずではなかったと思ったり
予想以上に難しく感じたりすることは、
ごくごく普通のことであり自然なことなのです。
だってそういうものなんですもの。

そういう自然なことがいっぱいあるのですが、
そういうことに気づけないでいるのが
初心者だと思うのです。
でも、それはダメなことですか?
恥ずかしいことですか?


一、二回練習した人が
「他の皆さんは上手ですね(=私はうまくない)」と
言っているのを聞くことがあります。
ご本人にとってはとても正直な感想であり
他意がないことも承知の上ですが、
三ヵ月、半年、一年、二年…それ以上と続けてきた人達を
前にしての発言としては、
ちょっとおかしくないですか?
こんな言い方をしては気の毒すぎるとは思うのですが、
一、二回でみんなと同じようにできるほどには
簡単ではないと思いますよ。

足手まといになるからとか、迷惑をかけるから、
自分よりもうまい人達と一緒だからとか。
そういうことが
はたして本人が続けられないことの理由になるのでしょうか。
ほんとの気持ちを見つめてみませんか?

思うようにならない自分に対して
ダメ出ししているのは誰ですか?
自分自身ではないですか?
要は好きか嫌いか、自分に合っていると思うか思わないか、
普通はそういうことで決めませんか?

自分がもう続けられないと思ったら
それだけで十分でしょう。
その他に理由をつけるときは
言い訳しなくちゃならないからでしょう。
その時点で既に自分のためのものではなくなっているのでは?
そうやって自分もしくは自分以外の周囲に
言い訳しなければならない状況が
ストレスになっているのではないですか?
そういう自分の傾向に気づいて、
少しずつ改善をはかっていくのも練習ではないかと
私は感じています。

ここで行っている練習は、みんなと同じになることよりも
自身の変化に気づくことが中心になっているような気がします。
体力や体型といった目に見える変化の他に、
個の意識がどんどん強くなっていくような、
自分についての理解が深まっていくようなところもあるからです。

自分自身のことで手一杯で
他人と比べて一喜一憂しているような余裕はないですね。
というか、そういうことには神経を使わなくなるみたいです。
集中力が出てくるということでもあるのかもしれません。

初心者の問い合わせに応える立場の方々にも、
そういう大切な基幹的な部分を
かれらにもっと説明してあげてほしいです。

一回の練習時間内に先生が伝えられることはごくわずかです。
また、かれらは不慣れな環境で練習しますので、
緊張もしているし先生の言葉を聞いているようでも
耳には届いていないこともあります。
そういう心理面のフォローは大切になってくるのではないかと思います
(たとえば、先生の連載コラムを参考資料として
案内書に添付するだけでも違ってくるのではないかと思います。
その場では理解できなくとも
後で振り返ることで理解することもありますから)。

基本は土台になるべきものですから大切です。
だからこそ基本科の要求は簡潔でありながら
実現させることは容易ではないのです。
でも難しい練習はしていないのです。
一見矛盾するようなことを体験する、身をもって知ることが
「入り口」の前に立つことなのだろうと思います。
それを面白いと思うか、興味を持つかは個人の意向です。
これより中に入るか入らないかは本人しだい。
そして時間をかけてじっくり学びたい人もいれば、
何度となく立ち返っては学び直す必要を感じる人もいる
ということだと思います。

生意気であることは重々承知、
風通しのよいコミュニケーションは簡潔さではないかと思います。
なお、今回は厳しい内容になってしまいましたが
特定の個人に向けたものではありませんので。
以前からずっと感じてきていたことです。




痛みについて

2006-11-05 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
痛みには良い痛みと悪い痛みがあるそうです。
中医学ではそのように考えるようです。
西洋医学では痛みがある場合、
一般的には痛みを抑えたり
安静を第一に考えたつき合い方をしますが、
中医学では少し違うようなのです。

もちろん痛みの原因を調べることは同じですが、
原因に対する考え方も少し異なるようです。
中医では痛みの原因は
気血の流れが滞ることで起きると考えます。
本来流れるべきものが
何らかの事情で渋滞、停滞してしまうことによって
痛みというひとつの症状が現れると考えるようです。

そして当然のことながら
体は何とかこの状態を改善しようと働きかけます。
つまり流れが悪くなった状態から
少しずつ本来の流れに戻そうとするわけです。
実はこのときにも痛みを伴うことがあります。
これは言うなれば良い痛み、良くなるために伴う痛みです。

たとえば長時間同じ姿勢を続けたために
筋肉がこったりするのも同じ状態といえるでしょう。
コリもひどくなれば痛みのようになります。
四十肩や五十肩も
気血の流れが滞った状態ともいえるのかもしれません。
これをなるべく良い痛みへと導き改善させていくために、
安静にするばかりではなく、通常生活の中で
患部をゆっくりとできるだけ動かすことを勧めているのが
中医学的な痛みとのつきあい方らしいです。

この考え方は一般的な病気やケガでも変わらないようです。
たとえば筒状のものに何かが途中で引っかかってしまったとき、
たいていは揺すってみたり振ってみたりして
引っかかっているものを何とか動かそうとしますね。
それと同じような理屈といえるかもしれません。
もし、この状態をじっとしていることで解消しようとすれば、
何か道具を使って引っ張り出したり筒を切開するとか、
引っかかっているもの自体を
小さくするような方法(溶かしたり砕いたり?)を
考えるかもしれません。

しかしこのような考え方は
何も安静を否定しているわけでもなく
西洋医学的な考え方を否定しているのでもないと思います。
痛みを一括して抑える、もしくは痛みが癒えるまで安静にする。
その後から機能回復をはかるリバビリ運動を行うのも
ひとつの方法でしょう。

そしてまた、痛みを悪い痛みと良い痛みとしてとらえ、
痛みの性質から変えながら回復をめざすとでもいうような方法、
できるだけ通常の規則的な生活の中で
患部を意識しながら痛みを感じながら癒して行く方法もある
ということですね。


一般的に機能回復のためのリハビリも
それなりに辛いものらしいとのことなので、
いずれにしろそれなりの痛みは
避けられないものなのかもしれません。
どのみち痛みが避けられないだとすれば、
ものは考えようということで、
いっそ痛みを感じること自体が
生きていることの証くらいに考えてみるのも
ひとつの方法かもしれませんね。


痛みを、ただやみくもに嫌がっていいものなのかどうなのか…
なるべくなら痛みはない方がいいですが、
もう少し好意的?に向き合ってみてもいいのかもしれないと
思ったりしているこの頃です。
こんなことを言い出しているのも、
実はまた肩や腰周辺に違和感を感じているからなのですが(^^;