松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

練習メモ(用意不用力04)

2014-09-30 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
不用力については
筋力を用いない、重心移動で動くなど
その時々で某かの説明はされてきている。

日常生活動作には
他者との関係性から引き出される動作が
少なくない。
しかし太極拳導引における主要な鍛錬では
我が身を主体として考える。
他者との関係性を考えない環境で
内なる取り組みに集中し鍛錬する。
そうすれば、そこで修養した感覚、体験によって
日常生活動作を自ら見直せるようになる
ということらしい。

不用力も、用いる用いない以前のテーマとして
力について改めて観察してみよう
ということなのかもしれない。
まずは内なる取り組みを鍛錬することで
意と体との促通、
バランスのとれるようなつながり方を
思い出すことなのかな。
そうすれば無意識で使ってしまっている
(入ってしまっている)力に気づくかもしれない。
それがきっかけとなって
不用力の理解へ近づけるかもしれない。

筋力を使わない力というか
筋力に頼らなくても力は出せるものなのか。
もし、この問いにイエスが出せるとしたら
自分はどういう力を使うのか。
力の型(スタイル)を選択する機会が
うまれるような気がする。
コントロールの内容に
バリエーションがでてくる。
選択の余地があるのとないのとでは
意のはたらき方も違ってくるのかもしれない。
そこをコントロールできるのも
意の技量にかかわってくるのだろうか。


練習メモ(用意不用力03)

2014-09-19 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
用意(意の使い方)について

意を使うとはどういうことか、
どのようにして使われているのか。
師はその具体例として
計画、実行、確認、修正をあげている。

課題を自分で決めること
課題内容のイメージを描くこと
具体的な体の使い方を考えることなど
実行直前までの意のはたらきが計画。
計画に基づいて
実際に体を使って動こうとする
意志のはたらきを実行。
実行するなかで気づいたり
体で感じること(体感)などから
修正点の有無をチェックする
意のはたらきを確認。
もし修正点があれば
修正の方向を確認(再計画?)して
再度実行し確認をする。

つまり主体的に動くことなのかな。
主体的であるためには
実行したことについて
自ら説明できる状況にある必要がある。
考えるとはこういうことなのか。

こうした意の使い方の練習を通して
意と体とのつながり方を促す鍛錬。
意の内容(質?)、体の運動の質、感覚の質を
少しずつ修養していくのかな。
それができてくると、力を使わないことの意味も
わかってくるんじゃないかな。

練習メモ(用意不用力02)

2014-09-12 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
用意不用力。

日本で用意といえば
準備に似た意味合いで使われることが
少なくない。
そこには備える、したくをするような
意味があるような気がする。
事がうまくいくように(失敗しないように)
ととのえる。
そのために欠かせなくなるのが
計画になるのかな。
「計画は力を用いず」もありかも。
力づくの計画では想定外な事態に
柔軟に応ずる用意は
限られてしまうだろうなあ。


用意不用力に基づいた課題の取り組み方として
師からは、計画ー実行ー確認(修正)という
一連の手順を提示されている。
これを連続した動作、運動の流れを
停滞させずに実行していく。
運動しながらというのがポイント。
実行(連続運動)なきところに
確認修正の対象は存在しない。
動作の流れが止まれば
不用力も止まるってこと。


この取り組み方は
たぶん日常的にやっていることにも通ずる。
たとえば転ばずに歩けたり走れるのも
物をつかんだり、手や脚を難なく組めるのも
運動的にみれば繊細な確認修正を
繰り返してうまれる動作なのだろうが
それらを意識してやってるわけではない。

日常生活動作は、できるようになるまで
何度となく繰り返した試行錯誤が経験となり、
自分なりの型(スタイル)や方法を
習得してきたものだと思う。
無意識にやってる動作とは
そうやって身につけたものかと。
それを改めて意識的にやってみる。
試行錯誤は意識的行為だ。

不用力に関わると思われる解説は
これまでにもいくつか
師の指導とともにきく機会があった。
それらも思い出しながら
改めて向き合ってみている。


日々これ易なり

2014-09-04 | からだの風景-みる・さわる・かんじる-
徐脈の傾向はあいかわらずのようですが
少し落ち着いてきたようです。

徐脈の程度は要経過観察とはいえ
いますぐ医療対処が必要ということではありません。
それにしても…です。
徐脈はあまり気持ちのよいものではないです。

血圧が低く脈拍数も60あればよい方なので
血の巡り方もゆっくりで
心臓から押し出す圧力も弱いために
全身を巡る血流も弱く滞りやすくなる傾向に。
そこで筋肉を緊張させ血管に圧をかけて
巡り力を何とか補おうとしてるのかもしれません。

これまで課題としてきた緊張についても
少し見直してみることにしました。
緊張感は体の反応と心の反応があります。
おもにコントロールできるのは
心、感情の動きですね。
コントロールというのも
観察に近いニュアンスかもしれません。
感情のコントロールといいながら
つい力づくで導いてしまいそうになります。
意識的に高揚させたり
抑制させてしまうこともありがちです。

それとは違ったやり方、
たとえば感情の流れを利用しつつ
意のままに仕向けていくというか…。
そこらへんを目指してます。
感情の流れぐあいを観察した上で
目標と流れとのつりあいどころを
探りつつ辿っていくみたいな。


体の通常な状態をわかってるのは
体自身だと思います。
徐脈は体のリズムのひとつであり
体調の持ち味と(私は)考えています。
私はこの体で生きてきたのだし、
これからも生きていくのだから
体の変化についていくことも
私の生き方の一面でもあるわけで。

この世のものには対になる対象があって
その両者間のバランスの移ろいが
さまざまな様相をうみだしているとする
考え方があります。

易という文字は日と月からできていると
聞いたことがあります。
日と月も対の間柄であり
陰陽の理に基づくつりあいの変化の妙を
みせてくれます。

徐脈は拍動リズムのひとつの状態です。
それ自体が自然の理から
外れているわけではありません。
徐脈という環境のもとで
私の体はそれなりのバランスを
とっていられるのだからOKなのです。

体に無理させる必要はないと思いつつも
心の手綱捌きには手を焼いてます。
やりすぎたり不足したりと失敗続きです。
これもまた自分と向き合う練習ですね。



最後に最近チェックした野口晴哉氏のことばを
記しておきます。

《異常を除いて正常であろうと考えている
養生人は多いが、 問題は異常ではない。
問題は異常の中に正常を保っている
体のはたらきである。
それがどのように働いているのか、
それを確かめることに養生の道がある。》