松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

基本をいま一度 -3回目の復習を前に-

2005-11-28 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
今週は3回目の復習がある。
これまで習った動作(30動作くらい)を
一人ずつ復習していくのだ。
いま改めて動作のひとつひとつを見直しているのだが、
予想以上の泥沼化(笑)。
とんでもなく基本的なことの意識が
足りなかったことを痛感してしまったからだ。

静止状態でとれる基本姿勢も、
動作中はどうしても意識が甘くなる。
ましてや動きに気を取られる分だけ、
ついつい動きを総体的に意識することができなくなって
一部分で動こうとしてしまう。

ひとつずつ丁寧に動けば
連動していることがわかるのだけれど、
ゆっくり動くことがどれほどたいへんなことか。
呼吸に動作をあわせる以上、
呼吸がゆっくりしてくれないことにはどうにもならない。
たまたま風邪ぎみのせいもあるのだが、
呼吸が不安定になると動きにくいことがわかる。

だいたいにおいて、うまくいかないと感じる動きは
全体のバランスが悪い。
より丁寧に動いてみることで何か気づきがあると思う。
ゆっくり動くことを
単に見かけの現象だけとしてとらえていると
見落とすものがあるかもしれない。

冒頭でも触れたように、基本的なところで
いまだに納得のいかないところがいくつもある。
もともと身についていることしかできないものなのだ。
だから緊張するわけがないはずなんだけども(笑)。
だからこそ自分の内にあるものを見つめていくことなんだと思う。

新たな思い

2005-11-25 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
キャンペーンも終了、気がつけば
今年も12月がやってくる。

現在練習中の陳式38式は、以前練習した
初めての陳式太極拳(18式)套路のときとは
比較にならない程、深く細かく教わっている。
導引理論への理解が
少しずつ深まった分だけ意識が変わり、
それによって体の使い方まで変わってきていることがわかる。

いずれは体力的にも今までのような練習量は
できなくなるだろうし、
だからこそ練習の質を向上させるためにも
意識でコントロールすることに集中していきたいなと思う。
できるときにやっておく。焦りはしないけれども、
時間は常に流れ過ぎていくことを忘れずに
留めておきたいと思う。

 
導引は本来個人で行うものであり、
個人のリズムを基準に行うもの。その意味では、
教室での練習は動作要領などを覚え、
確認することであったり、
仲間との交流などが目的だったりするのかもしれない。

今回のキャンペーンでも感じたことだが、
すでに教室の練習時間だけでは満たせないほど、
要求が深い段階にきているような気がする。
つまり個人で導引できる段階に
否応無く到達しつつあるのだと思う。
そのために必要な基本は教えてもらっているということだろう。
教えてもらったことは実際にいかしてみなければ
発展性、向上性にはつながらない。
次の段階は実習を重ねることなのではないかと
個人的には思っている。
自分で動いてみて初めてわかること、
あるいは改めて気づくこと、疑問などがある。
専科クラスのメンバーは
その段階にそろそろ到達しているような気がしている。

 
その意味でも、自分からいろいろな状況に
身をおいてみることも
新たな導引練習になるような気がしているこの頃。

キャンペーン終了

2005-11-24 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
早いもので2ヶ月限定キャンペーンも終了です。
この期間に体験参加された方達が
何人かいらっしゃったのですが、どうだったのかしらん。

現行会員にとっては充実した2ヶ月間となりました。
導引理論を改めて整理して学べましたし、
頭で理解したことを直ちに動作で確認できたことは
何ものにも代え難いことでした。
これは通常教室の時間内ではできなかったことです。
最近では通常時間内ですら
意識導引や呼吸導引のような静功に費やす時間が
とれない状況にあり、
その点でも導引教室としては
より密度の濃い内容になったように思います。
より詳しい感想などはまたの機会に譲ることとして…。

今回のキャンペーンで得たことが
今後、導引に対する理解をどれほど深めてくれることか。
このような機会を与えてくださったことを
心から感謝しています。
そしてできることならば、“次回”があることを
期待しています。ありがとうございました。

求めなければ得られないが、求めれば得られず…

2005-11-18 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
最近はあまり物を買わなくなりました。
それは“入”が減った分、“出”も減った
ともいえるわけで(苦笑)ごく自然なことでもあります。
というか、あまり欲しいと思わないのです。
必要な物だけを手に入れているだけ。
つまり欲しい物がない分
買わなくなったともいえるわけですね。

ということで、今回は最近ネットで見つけた
あることばを紹介します。
中国のサイトで気功における基本要求として
紹介されていたのですが、何となく思うところがありまして…


 「不求不得  求則不得  不求而得」
   求めなければ得られない
   が、求めれば得られず
   よって求めずに得られるようにならねばならない
   (ということかな?)

これは教室で、いつも先生が話されていることと
同じだと思いました。
無理をしないで自分のペースで継続していけば
自然に身につくのだと、先生は繰り返し話されます。
そこには「弱い部分を強くしたい」とか
「悪いところを良くしたい」とか
「より早く、よりうまく身につけたい」といった
諸々の気持ちをなくす(捨てる)という要求があります。

しかし、そのことには早くから気づいてはいたのですが、
捨てる、なくすということがなかなかできないのです。
つまり気持ちのコントロールはできても、
まだ意識下に根強く残っているものがあるのです。
これが執着というものなのでしょうか。

どうもこれは頭の中(脳)のどこかに
妄執の小部屋みたいなものがあるのではないかと。
ここが開放されないと、心が緊張して精神が緊張する。
それが筋肉に伝わって肉体的な緊張へと発展し、
リラックスができなくなる(足りなくなる)のではないかと
思うのです。

こうして考えてくると、前向きな意思表示として
肯定的に受け入れられているはずの「目標」でさえも、
ときによっては邪魔になることもあるのではないかと。
つまり目標は「求める」ことに他ならないのではないか
ということです。
目標の持ち方にも注意を払うべきなのかもしれません。
何でもかんでも目標を掲げて
それに向かって進むことばかりが道ではない。
あえて目標を掲げなくても自然に得られる道もあるのだと。
それはまた「無為自然」という思想にも
つながることなのかもしれません。

そういえば、昔は“理屈抜き”ということが
よくありました。
当時は頭を使って判断するよりも
身体感覚で判断することがまかり通る状況が
残っていたのでしょうか。その意味では
バランス感覚にもゆとりのある時代だったのかも。
昭和30年代が注目を集めているのも、
単なる風物詩的な懐かしさだけではなく、
時代が持っていたバランス感覚に反応しているのかも
しれませんね。

ああ実感…

2005-11-17 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
このところの小さな気づきの積み重ねで
感覚が少し変わってきているのが
何となくわかる。

実は指先の痺れの感覚が
微妙に変わるがわかるようになってきている。
これまでは練習中も
まったく意識していなかったのだが、
最近は手首の角度で
微妙に痺れの感覚が変化していることに
気づくようになった。
これは手首が柔軟に動いているからか。
つまり関節の緊張が少なくなったのかも?
と、なるべく良い方に解釈したくなる。

感覚の微妙な変化がわかるといっても、
別にその感覚に
気を取られているわけではない。
情報のひとつとして入ってくるというだけで、
感じてはいるが
意識はもっと他のところに行っている。
こういうことが体のあちこちで
起きているような気がする。

今までの運動中の状態とは
確かに違ってきているように感じる。
例えば、自分の身体的状態を
より感じ取ることができるようになってきた。
あるいは間違った動きをした場合に
注意されたり指摘された箇所が
自分でも認識できることが増えてきたりとか、
どこを間違ったのか
原因を自分なりに推察できるようになってきた。

それと同時に自分の思い通りに
体を動かそうという意識が強くなってきたみたい。
つまり思うように動けない原因を探りだし、
自分なりにあれこれと試みることが
多くなっている。
それだけ気づきも増えているし、
考えつくことも増えてきたらしい。

導引理論を通して求めるべき正しい動作とは
どういう状態を満たすことなのか、
そういうこともまた考えるようになってきている。
いくら時間があっても足りないくらいなのだが、
それだけ大事なことを教わっているのだ
との自覚もある。

今までだったら意欲満々で
練習するところなのだけれど、
こういうときこそ
自然であることだけに集中するくらいの方が
いいのだろうなと思っていたりする自分がいる。

こういう(気持ちの)変化がうれしい。
たぶん今までの自分に足りなかったことだと思うから。
あとは実践だけだよ、自分。

ささやかな発見

2005-11-13 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
寒くなってきた。
昨日は東京は木枯らし1号だったらしい。
それでなくても女性に冷えは大敵。
練習時間や防寒対策も
無頓着でいるよりは考慮した方がいいだろうし、
もちろん食事や睡眠も大切。
そういうことまで配慮できるようになると、
より導引効果も期待できる
ということなんだと思ってはいるのだが、
現実はなかなか…すいません、先生(汗)。

教室で集中的に行っている
導引理論と実践練習が少しずつ効いてきたらしい。
小さな気づきや発見がぽつぽつ出てきている。
いつものことながら、
気づいてしまえば“ああ、そうだったのか”
というようなことばかりなのだが…。
それでもあるのとないのとでは大違い。
自分の中では目の前に
新世界が広がるかのような感動だ。

今回もまた、ほんとに些細なことなのだ。
肩関節を伸ばす意識が
具体的に体のどこにどういう働きかけを
しているのか、ちょっとわかったかもしれない。
要はこれも円みにつながってくるのだけれど、
同時に張りとゆるみのある“まるみ”の感覚に近い。

この感覚を常に維持しようと思うと
今度はボールを使う感じ。風船の次はボール(笑)。
気になる関節に合わせて
大小さまざまなボールを挟むようなイメージ。
関節を曲げすぎないように、
でもボールは落とさないようにキープする感じ。

これも脱・緊張感対策のひとつ。
緊張感を表すような体の使い方のクセに
気がついたわけだ。いや~長かった。
ずっとうまく行かなかった型があって、
動くたびに気になって(=緊張して)
仕方なかったのだけれど、
ようやく突破口を見つけたみたい。

もしこれがうまくいくと、
他の動作も大きな動きに変わってくるのかな。
そうすれば緊張感にも
もっと気づきやすくなるのではないか。
でも、これが正解かどうかはまだわからない。
今よりはマシと思えるから
取り組んでみているだけのこと。

一時はほんとに緊張という言葉を
見聞きすることすらウンザリしていたのだけれど、
今はまた負担にならずに
向き合っていけそうな感じでいる。
今度の波には乗れそうかな。

規則性とリズムと縄文人

2005-11-12 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
立冬も過ぎていよいよ冬がやってきました。
冬眠はしないものの防寒対策で
脂肪を蓄えたらしく、
ちょっと体が重くなった気がします。
これも自然現象だと思うことに(笑)。

そういえば最近になって
「規則正しい生活」に対する考え方が
少し変わってきました。
これまでは通年で何時に起きて何時に寝る的な
一定のリズムを保つことが
規則正しい生活だと思っていたのですが、
陰陽理論を理解しはじめるにつれて
ちょっと待てよと思い始めたのが
そもそものきっかけです。

例えば、夏は昼が長く夜が短くなります。
つまり活動時間が長い陽的な季節です。
反対に冬は昼が短く夜が長くなります。
じっとして活動を控える、休んでいる時間が
長い陰的な季節です。
一年を通じてこれだけの変化があるのに、
時計が刻む時間にだけに合わせることが
規則性なのでしょうか?
もしかしたら四季に合わせて
起きる時間や寝る時間が変わることも
規則性があることにはならないのでしょうか。
日の出とともに起き、日の入りとともに眠るとか
晴耕雨読といわれるような営みは
規則正しい生活とはいえないのでしょうか。

他にも旬の食材をいただくことも
規則性ではないのかとか、さまざまなところで
自然と不自然とが入り交じります。
その度に一元的に思い込んでいたことが、
実はこういう見方もできるんだなあと
思ったりしています。

どうも人間は、ある時から効率に見合う規則性を
第一義としてきたのかもしれませんね。
私が半ば憧れにも似た思いを抱いている縄文人は
欲がなかったらしいのです。
蓄えることよりは分け合うことを大切にした人達です。
あえて米を作らず、
自然を相手に植物や動物たちと共存する道を
選んだらしいです。
少々ひもじい思いをしても、
美しいものを作り音楽や踊りなどを楽しむ時間を
大切にしたらしいです。
そんな彼らの生活もまた
規則性のあるものだったといえるのではないかと、
私には思えるのです。
現代でいえば、高くを望まず
自分が自分であることに重きをおくような…
浮世離れした人といわれそうな人。
でも…好きかも、こういうの。

イメージで遊ぶ

2005-11-11 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
2ヶ月限定のキャンペーンもそろそろ終盤。
今週に入ってからは
呼吸の際のイメージが更に複雑というか
深くなってきた。
毎週のように新たなイメージが加わり、
ちょっと消化不良ぎみか?

太極導引は太極拳の套路練習を利用した運動。
したがって本来の太極拳とは違うけれど、
動きのもととなる型は太極拳だから
動きから要求されるものは
かなり酷似してくると思われる。
太極導引では生死をかけた究極の動きにまで
極めることはしていないけれども、
そこに到達するまでに通るであろう道のりとは、
割合に近いところを通っているのかな
とも思ったりしている。
実際のところ導引練習でも
もう少し明確に動作を意識したいと思えば
武術的考察は欠かせなくなってくるし、
先生の説明にも徐々に武術的な意味あいが
加わるようになってきている。
少しずつより本質に迫っているような感触。

こうして段階が進むにつれて、
戸惑うことにも出会うようになってきた。
ある段階まで来た時に、
いままで慣れ親しんだ練習法が
通用しなくなるというか、
いままで教わってきたことに
あたかも反すると思われるようなことを
要求されたりするのだ。
今回の「呼吸と動作を同調させる」というテーマも
その一例といえるだろう。

いままでは動き方に慣れる、
動作を覚えることが第一義だったから、
呼吸と動作を合わせる要求度も
基本中の基本レベル。
動いている時には呼吸を止めない。
細く長く等しく呼吸を行うというもの。
それが動作練習とともに行われた
「吸って」「吐いて」の号令であり、
そこには動きと呼吸の同調から生まれる
“リズム”に慣れる目的があったのかと思われる。

今また新たな段階として、
導引における呼吸の役割や目的を理解した上で
呼吸を動作にあわせること、
そのためには呼吸による(後天の)気の取り込みを
より効果的にする動きと同調させる必要が
でてくるのだ。
つまり呼吸は生命活動の維持のために
気を取り込む大事な運動であり、
それをより効率よくする動きの組み合わせがある
ということだ。
呼気には呼気に適した、吸気には吸気に適した動きがある。
それを知った上で改めていままでの動きを
検証してみると、
そのほとんどが同調していなかったかも…?
それでちょっと混乱が起きて
消化不良ぎみになっているというわけ。

最初から教えてくれていれば
混乱しなくてもすんだのにとも言えるけれど、
それは今の段階に到達した時点から
振り返っているから言えることで、
おそらく麓にいた当時の自分たちには
“この動きは吸う、この動きは吐く”なんて
ひとつひとつ解析しながら動作練習していたら
どうだっただろう。
はたして導引を続けられていただろうか?

習得というシステムはスパイラル軌道を描くように思う。
何回も同じところに戻ってくるのだけれど、
その度にまわりの景色の見え方感じ方が変わっている。
そしてまた新しいイメージを描きながら進んでいく。

この先の進路を示す新しい海図(イメージ)は
いったいどこへと導いてくれるのだろう。
たまには少しぐらいの消化不良もいいんじゃないかな。

呼吸で遊ぶ

2005-11-09 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
つい最近のことだが
導引練習や站トウ功をしていたときに、
ふと呼吸に対する意識を変えてみたところ
おもしろい感覚に出会ってしまった。

普段の呼吸は自発呼吸というか自主呼吸。
呼吸に対する意識も「吸う」「吐く」である。
それを「吹き込まれる」「吸い取られる」
というふうにイメージしてみたのだ。
つまり自分の意志で
息を吸ったり吐いたりするのではなくて、
誰かが私の肺の中に息(空気)を吹き込んだり
肺から息を吸い出しているように
想像してみたのだ。

これはちょっと不思議な感じがして
おもしろかった。
自分が風船になったような感じ。
主体的に行っていたはずの呼吸が
受け身の呼吸に変わってしまった感覚。
たとえば人工呼吸などは
受け手が意識不明で呼吸停止しているときに
行うものだから、
本人には自覚はないのかもしれないけれど、
もしかしたらこんな感じなのかなあ
という気がした。

外見上の呼吸状態に
変化があるわけではないのだけれど、
感覚的には何かに身を任せる的な
ラクな感じに似たものはあったみたいな気がする。
そのあと、通常の自然な主体的呼吸に
意識をもどして行ってみたら、
自分で息を吸って吐いている意識が少し弱まって、
内部の動きがリアルに感じられるようになった。
見たことのない横隔膜が上下に動いていたり
お腹が膨らんだり戻ったりするのを
体内部から見ているような感じとでもいうのかな。

呼吸導引は呼吸を意識的に
コントロールしているのだけれど、
もしかするとそのコントロールを厳密に
遂行しようとするあまり、
意識が働きすぎてお腹や横隔膜の自然な動きまで
制御してたかもしれない。あぁなんてマジメなんだろう。
でも、その方向がほんのちょっとズレたために
自然であることから遠ざかっていたのかも。

もう少しいい加減でもいいのかもしれないよ、自分…
とつぶやいてみた。

管(カン)をイメージする -その2-

2005-11-06 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
実はこの管のイメージ、
これまでの風船や立方体のイメージに
共通するものがあるのではないかと思っている。

最初の風船のイメージは、站トウのように
じっとした静止状態で体感することから始まった。
動かない状態で自分の姿勢の状態を
意識すること。
正しい姿勢がとれているかどうかの確認が第一。
次に風船のような状態を感じられるかどうか、
なるべく感じられるようにと意識で調整を行う。
最終的に自分の体が
程よい弾力感のある風船のように感じられたら成功。
そうなるためには前後左右上下というように、
対になるいくつかの方向ごとにバランスよく
意識でふくらませていかなければ
ならないことがわかってくる。

次に立方体のイメージ。
これは移動の際のイメージになる。
冷蔵庫のような立方体のものを
運んだり移動させるときに
なるべく力を使わずに省力化したいときの
移動方法を応用して
動作移動の意識を確認しようというもの。

まず立方体を傾けて重心を一点の角に
集中してのせる。
そうすると残りの角が地から浮くので、
今度は立方体の向きを変えるようにして
立方体の面を回す(回転、旋回)。
そうすると重心も一緒に移動し始め、
新たな角がその重心を受けとめる。
こうして立方体は重心とともに移動することになる。

これを動作移動に応用してみると、
移動するときには先ず重心(体重)を
片足にのせることで体もそちらへやや傾く。
するともう片足が浮くようになり
移動させたいところへ運ぶことが可能になる。

運び終えた足に重心(体重)を移動させることで
最初に重心(体重)をのせた足の移動が可能になる。
足を動かしているだけに見えるが、
足を移動させたり重心(体重)を移動させるときには
体の向きも微妙に変化している。
つまり体を回しているということだ。

導引運動や太極拳の歩法は
斜め方向に足と体の向きを移動しながら
前進したり後退したりするが、
これも立方体の移動原理に当てはまる
効率の良い移動の仕方といえるのかもしれない。

ただし、ここで立方体と人体との違いがある。
それは人体には関節があるということだ。
関節を曲げて重心を下げることで
上体を傾けることなく移動させることが可能になる。
正しい姿勢を維持するためには
股関節や膝関節に代表される関節の使い方も
大切になってくる。
逆に考えれば、姿勢が崩れるときは
重心移動がうまくいっていないことが多い。
これは関節の状態が姿勢に見合った
十分な可動域を満たしていないからとも
いえるのではないか。

さらに管のイメージ。
体の中にイメージした管を回転させる。
回転軸の中心となる丹田を意識しながら
回転イメージで動くことは、
姿勢が傾くことを防いだり
管の回転による遠心力の原理で
気の流れを体の隅々にまで
行き届かせることが可能になる。

このように、上下左右前後のような
対になる意識は、風船にも立方体にも管にも
共通するように思う。
風船の程よい弾力を生む膨張感のようなものは
管の遠心力に似たものにも思える。
管の旋回は立方体の移動の原理にも
通ずるものがあるように思える。
そしてその先には、またもや陰陽バランスが
みえてくるような気がしている。
陰陽理論は欠かせないということかと思う。