松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

体調異変でみえてきたもの

2014-08-06 | からだの風景-みる・さわる・かんじる-
要は親から引き継いだ体質の影響と思いますが
徐脈(脈が遅い・1分間の心拍数が60以下)が
顕著になってきて、それにともなう血圧の低下、
動悸などがちょこっと出ています。

徐脈については2年前の健診で指摘されており
要経過観察に。
徐脈に該当する人は比較的多いらしく
スポーツ心臓の持ち主なども該当するとか。
したがって徐脈でも直ちに病気というわけではなく、
たとえば1分間の心拍数がつねに50を切るようになると
病気とみなされ、ペースメーカーを埋め込むような
処置を行うようです。

小学生の頃までは平均的な心拍数(70~72くらい)
だったのだと思いますが
いつ頃から徐脈傾向が出てきたのか
よくわかりません。


じつはこれによく似た感じを
過去に経験しているような気がします。
そっくりではないけれど
過呼吸症候群で体調を崩していた頃に
似ているように感じるのです。
医師から呼吸が浅くなると
過呼吸の発作がおきやすくなるから
なるべくゆっくりと深い呼吸をするようにと
アドバイスされたことが
呼吸を意識するきっかけになったのは事実です。

当時の私は体が成熟しようとして
大きく変動する最中でした。
今度は老齢期へとシフトする時期を
迎えていることなのでしょう。
もしかしたらこれまでのやり方では
ちょっと難しくなってきたのかな
と思ったりしてます。

からだはつねに変化している。
私のからだが私をつくり
私が私のからだをつくっているのだと
改めて思いました。

過呼吸の頃にお世話になった鍼灸の先生は
残念ながらすでに他界されていますし
太極拳導引をライフワークと感じたのには
それなりの根拠があったともいえます。
さらに整体師としての視点も加えて
かねてよりなじみのあった
漢方や中医学的な視点や考え方、古典哲学なども
少しずつ学び続けてきました。
こうして学んできたことを頼りに
自身で方を決めて取り組むことになります。
ちょっとわくわくするようなところも
なくはないです。

いま改めて挫折感絶望感で過ごした
不安な日々を思い起こしつつ
あの頃よりは数段落ち着いている自分を感じます。
生きてきた年数の分の満足感も
それなりにありますし、ゴールについても
より確実に身近に感じています。
こうした心理面にみられる変化も
自然が備えているバランスの妙なのかもしれません。

案ずるより産むが易し
心配事のほとんどは事なきに終わるような。
不安の大部分はあたまの妄想なのかも。
からだはより現実的実践的に反応するのかも。
あたまとからだのつりあいを
なるべく冷静に客観的にみられるように
日々ととのえることが課題となりそうです。




練習メモ(周流02)

2014-08-04 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
周流は連続の概念がベースとなっている。

たとえば起勢と収勢が同じ型であるとか
準備姿勢と終了姿勢が変わらないとか。
終わりと始まりが重なるようになっている。
あるいは終わりが更なる始まりを
導き出すかのような状態。
連続、周回。
連続してくり返されることが
流れとしてみえてくる(周流)。


例によってまずは解字から。
「周」は会意文字。
用と口をあわせた字。
口をよく用いてことばをつくすことから
こまかいこと、ひろくゆきわたることを表す。

意味は
1.めぐる、めぐらせる
2.めぐり、まわり
3.あまねく、広くゆきわたる
4.広くゆきわたらせる
5.救う
6.いたる、至極
7.ゆきとどく
8.まこと、忠信
9.私心なく人と親しむ
10.曲がった所
など

「流」は会意文字。
さんずいは水を、
つくりは子を逆さにした形と川(羊水の意)から
子がうまれる(出産)形。
水が急に流れ出ること
また、なめらかに
いくすじにも分かれて流れることを表す。

意味は
1.ながれる
2.ながす
3.さすらう
4.もとめる。えらびとる
5.広める、ゆきわたらせる
6.たしかでない、根拠がない
7.たぐい、なかま
8.階級
9.学術芸能などの流儀
など


あらためて調べてみると
明確な円みという概念はなさそうだ。
かろうじて「周」の“めぐり、まわり”あたりが
それに近いニュアンスを含みそうな感じ。
ちなみに円み・輪といった形状の意味を
明確に表すものには「環」がある。
循環・環状などの使い方には
ある種の連続性を感じるともいえるが
周流と比べると限定されいる感は否めない。

環はより形を意識していそうな感じ。
輪を象っている要素は均質に思える。
たとえばリング、ドーナツなど
輪を作っている部分とそれ以外とでは
互いに異質であり明確に分かれている。
混じり合うことはない。
互いを二分する境界線が存在している。
周はこの境界線が曖昧に思えるのだ。

もしかしたら周と環の違いは
鬆の習得段階にも通じるものかも。
環は内外の境界が意識されてる段階であり
周は内外が融合しあった状態。

そして連続・周流のもとである動き。
動きは変動、変化だ。
古人は変化を易と称して
その道筋や流れから法則を読み解いた。
それが周易のちの易経。
周流を意識することは変化を味わうこと。
太極拳の原理、哲理とふれあうことでもあると思う。
ようやくここに至ったかという感じ。