松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

練習メモ 方向04

2012-05-31 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
26日は最後の基本科クラスでした。
最終日の参加者は2名。
しかも一人が早退してしまったために
残りの時間は
先生に推手をしていただきました。



推手のときの空間意識を観察してみる。
先生の空間と自分のそれとは
だいぶ違うみたい。
先生の中心までは自分のよりも
距離がある(奥行きがある?)
ような感じがする。
深くて(遠くて?)
つかみ所がないような印象。
自分では中心に向かっている
つもりなのだが、
ほんとに向かっているのかどうか
だんだん怪しくなってくる。
自分の感覚の曖昧さに耐えられなくなり
思わず先生に訊いてしまった。


中心の大きさって変わるものですか?



変わりますよ



・・・!?

そうだった、そうだった。
最初の解説で中心を意識するときには
体幹でも丹田でもよいといわれたんだっけ。

それは段階で変わるということだと
勝手に思い込んでいた。
確かにあの時の話の流れでは
そう理解しても間違いではなかったんだけど、
内容的にはもう一歩踏み込んで
考えることもできたのかな。

どうやら状況によっても変わるものらしい。
推手の場合だったら相手によって
自分の中心の大きさが変わる。
大きさはあくまでイメージだから。

先生と組んだとき
たしかに中心が肥大してたな。
中心から表層までの空間が浅かった。
そういうことなのかな。


練習メモ 方向03

2012-05-27 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
方(空間)の中心を自分の中心と重なるように
イメージしているのだけれど、
上方に感じる広がりぐあいと下方のそれとは
感覚的にどうも差があるような。
イメージしてる立体は球体のようなものだが
体感からイメージされる球体は
たとえてみれば下方が潰れてるような感じ?
うーむ、これって?


足がイメージの広がりの邪魔をしてるのかな。
地に足が接している具体的な感触がある分
つい現実的空間(?)を意識してしまう。
だが、体幹が中心であって下肢は関係ない。
だからその意識は不要なんだよな。
余計なものを拾っていたんだな。

意識の仕方にも加減があり
集中しすぎれば緊張につながる。
余計なものは放っておく。


球体にこだわらずに
イメージしてみるのはどうだろう。
たとえば水のように。
水は固有の形をもたないから
状況に応じて変わることができる。
空間の空は空っぽの空。
何となく水に似た要素もあるような気がする。
ただそのイメージを
体感するというのはどういうことなのか。
どうとらえればいいものなのか。

ああ、また考えすぎの迷路に入り込んじゃったかも



一期一会・邱永漢さん

2012-05-26 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
16日に邱永漢さんが亡くなられました。


私が太極拳導引を始めるきっかけとなったのが
当時「ほぼ日刊イトイ新聞」に連載中だった
邱さんのコラムでした。
なにしろ経済もお金に関しても疎い方の私、
邱さんの本も読んでいる方ではありませんでした。
ほぼ日のコラムを読むようになって
邱さんのものの見方、考え方に
日々触れるようになり、いろいろ教えていただいたと
いってもよいくらいかと思っています。


そういえば教室が開講して
半年くらい過ぎた頃だったでしょうか。
邱さんが教室に立ち寄られたことがありました。
そのとき私達は24式套路を練習していたところでした。

攬雀尾を終えて単鞭へと転身したところで
邱さんがいらっしゃることに気づきました。
みんなと目が合っちゃったんですね。
そうしたら邱さん、見よう見まねな感じで
単鞭をされたんですよね。
で、そのまま収勢まで一緒にやりました。

套路が終わって拍手しながら「こんにちは!」と
皆でごあいさつすると
ちょっと照れくさそうに「むずかしいね」と
笑顔でこたえてくださいました。
たぶん次の予定があったのでしょう。
秘書の方に促されるようにして
慌ただしく出て行かれました。



思えば邱さんご本人にお会いしたのは
それが最初で最後となりました。
ですから私の記憶のなかの邱さんは
太極拳導引をしている邱さんなのです。


心よりご冥福をお祈り申し上げます


練習メモ 方向02

2012-05-23 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
方向の「方(空間意識)」について、しつこくやってます。


空間を意識するときに
どうしても視覚に惑わされるところがある。
現実の空間にはいろいろな物体などが存在していて
それが意識空間に影響を与える。

視線の先は遥か遠くに…と思っていても
そこに遮る物があると
その先に空間を感じようとする別種の意識が働く。
それは遮蔽物がいささか気になっている
ということに他ならない。

「みえてもみない、きこえてもきかない」
周囲は無視する(無外)はずの「静」が
脅かされている。
静かな水面にさざ波がたっている。


練習する場の環境は、段階によって変わる。
なるほど道場や練習場のような空間には
殺風景なくらいに物を置かない。
ちゃんと意味があるんだな。

自然環境下での練習は
確かに気持ちがよいけれど、
真の練習目的は別にある。
そしてうちの教室が
年に1回某大会に参加する目的も
最終的にはそこにつながる。


意識空間と現実空間
これも重なり合っている、
というか両方あってこそのバランス。


練習メモ 方向01

2012-05-20 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
方向の方を意識するというのは
自分を中心に空間を
イメージできている状態です。


考えてみればごく当たり前のことでもある。
太極拳導引の練習はどれもこれも
新しい事象を発見するわけではなく
当たり前として見過ごしていたことを
改めて意識しなおしながら
おおーっと再認識してるにすぎない。

日常において自分の体が
立体であることすら忘れてるというか。
前に意識が向けば
後ろの気配を感じられずにいたり。
足下を気にしていれば
頭上のことはお留守になったり。
おそらくは特定の部位に
意識を集中させすぎてるのだろうなあ。
意識の巡らせ方のバランス。
たとえば薄いベールのように
意識が全身を覆っているような感じに
巡っているというイメージはどうなんだろう。


空間にあることを再認識するだけで
バランスの仕組みを感じやすくなった気がする。
(バランスが)ちょっとズレたり崩れかかっても
「あわてない、あわてない。
いまこそが鬆(松)だよ、静だよ」とでも
ささやくような感じかな。


落ち着いた状態でイメージする空間は
そこそこ広いような気もするのだけれど、
体調がイマイチだったり落ち着かない状態だと
ほんとに狭い空間しかイメージできていない。
(下手すれば空間の意識すら飛んでたことも
過去にはあるな)
そんなときに、より広いイメージを
持とうとすれば、
力づくな空間になるであろうことも
いまなら想像できる。
そのときの空間で
バランスのとれた動き方をめざすのが
大切なんだろうな。


今月の課題 「鬆(松)と静」「方向」

2012-05-13 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
5月は共通課題の「鬆(松)と静」、そして「方向」です。
方向には「方」と「向」というそれぞれの概念があります。



■鬆(松)と静

「鬆」は体のメイン意識。その意識の段階は3つ。

 1.力鬆…筋力をゆるめる。動きに必要な最低限の筋力にとどめる

 2.体鬆…体の密度が変わる。膨らむ。
        固まっている状態から拡散する、太くなるような感じ。

 3.形鬆…とける、溶解。空気と渾然一体となった感じ。



「静」は内部に対する要求、意識。段階は3つ。

 1.無外…周辺は無視して練習する
        視而不見、聴而不聞。
        (みえてもみない、きこえてもきかない)

 2.無欲…欲を持たずに練習する
        事例:成敗(うまくいくか、いかないか)        
           得失(得られるか、失うか)
           美丑(うつくしいか、そうでないか)

 3.無情…感情を用いない、持ち込まずに練習する



鬆(松)と静は同時進行。
(両者は相互に影響し合う関係ということかなと理解)



■方向の「方」

空間(立体、球体)のイメージ


自分の体が空間の中心にあるようにイメージする。
それは中心からあらゆる方位に
自由に動けることを意味するイメージでもある。

そして空間の中心に重なるのが体(体幹)の中心、重心
動きのスタートはいつも中心からといわれる所以か。
ということは、バランスが崩れるときは
重心と空間の中心を重ねられなくなったとき
ということになるのかな。



■方向の「向」

向かおうとする意、「勢」(勢い)


「向」は動きをともなうイメージで
そのときの勢が目指している方位が「方」。
つまり「方」が先に決まらなければ
「向」は始まらないということか。
「方」が曖昧であれば「向」もまた曖昧になる。
明確な動きにはならない。

また、「向」は動き、即ち移動をともなうことで
時間という概念も含まれるようになる。
「向」はただいま現在であり、
「方」は未来とも言い換えられるのではないか。
現在(向)の行く手には未来(方)がある。

人の一生も同じかも。
「前向き」なんて言葉は
まさに方と向そのものではないのかな。


過呼吸の陰がチラリ

2012-05-03 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
じつは先月後半あたりから
過呼吸症候群の気配がちらついてました。
発作は起こしてませんが
あの、いや~な感じが
何となく忍び寄ってきているような
ひっそりと張り付いてるような…
もう随分長いこと
発作のことは忘れてたのですが、
この感じ、発作の前兆に似た感じを
久しぶりに思い出しました。
記憶とか体感って、
いずれは消えてしまうものかと思ってましたが
そうとは限らないものみたい。



緊張にもいろいろなタイプがあって
その解き方もいろいろなのだろうと思います。
たとえば過呼吸の発作などは
体自身による自動調整法みたいなもので、
緊張の限界にまでいって
一気に解放するようなやり方です。
ただこの自動調整法もできることならば、
なるべく穏やかにと願いたい。
緊張から解放への振り幅は
小さいに越したことはないと思います。

若い頃ならいざ知らず、中年以上の場合は
エネルギーの産生量が減少する上に
消耗しやすく回復に時間がかかります。
発作を起こすにも回復するのにも
それなりの体力気力が必要なんですから。
だから過呼吸の発作は
若い人が起こしやすいのですが、
中高年以降から起こす人もいるのだそうです。
思春期も更年期も
心身ともに大きく変動する時期、
バランスを崩しやすい時期であることには
相違ありません。

正直いまでも発作は怖いです。
あの極限の緊張感と発作の苦しさと
その後の虚脱感。
死にいたらない発作とはいっても
死にそうなくらいの思いはしたりもするわけで。
そういう爆弾抱えているとの自覚が
つい身構えるというか、
これが緊張の素になっているのでしょう。
緊張しやすいことは仕方ないと認めた上で
なるべく負担をかけない緊張の解き方を
探っているわけです。