松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

変動期における自然とは

2007-09-26 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
変動期を迎えたらしいと
再三のように言ってきましたが、
どうやら入り口の扉を開けて
中に入ってみたらしく
本格的にスタートしたみたいですね。
はじめての更年期です。

太極導引の先生は中医師でもあるので、
このあたりについての中医的な解釈などを
お聞きする機会も少なくないです。

変動期は自然の流れからみれば必定のものです。
あるのが当たり前ということですね。
そんなことはわかってると
誰もが思うことですが、
わかっているのと受けいれるというのとは
少しばかり違う
んですよね。

私も実際に直面してみて
はじめてわかることがあります。
実感をともなう自覚というやつですね。
いまのところ想像していた以上に
不安感みたいなものの存在
やっかいそうな印象。

ほんとに突然、降って湧いたように
じわじわ~んと広がってくるんですね。
なんだろう、この重苦しい感じの緊張感は…。
不安の原因が
なかなか思い当たらないこともあるんです。
これはちょっと想定外の感じだったかも。
こういうのもおもしろいといえば
おもしろい心理面の変化です。

まさに不安定なことが変動そのもの
ということなんですが、
なにしろ変化の様子ときたら
初めて経験することばかりです。
どうもいままでとは違うみたいと
自覚する場合、
いままでとは違うこと=異常なこと
と感じているわけです。
それはいままでの状態を基準にして
考えているからです。
もし「常」ということを
いつものこととして考えるならば、
変化している時期の
常なる状態とは変動ということになるのでは?

つまり日替わり状態にあることが
いつものこと(常態)になるわけです。
極端な表現をすれば、
変動期には変わったこと(異常)が
起きて当たり前(正常)、
むしろ自然なことである

とも言えるのではないかと。

必ずしも異常=悪ではないということですね。
でも、ほとんどの人が
異常=悪と考えてしまうのではないかと。
そのために異常を何とかして抑えたい
という心理が働いてしまいます。

抑圧、抑制は対抗となります。
いうなれば負の力。
抑圧すれば
必ずそれに対抗する力が生まれます。
抑制されたものが、
その状況からの開放を求めて
抵抗をするのは自然のなりゆきです。

したがって症状と呼ばれる現象も
抑圧と開放とのせめぎ合い現象ではないか
と考えているのですが。
症状に対しては
できるだけ抑えたりせずに、
何らかの形で開放できそうな方法を
見つけ出す方向で向き合うようにしています。

これまで学んできた導引的な考え方を
拙いながらも実践応用してみることを通して
自分なりに解釈したりしてみています。

いままで体験してきたこと(過去)は陰。
まだ体験したことのないこと(未来)も陰。
そして、いま現在が陽。
陰と陽は常に変化をくり返しながら
綿々と続きます。
抑制は陰であり開放は陽。
陰があるから陽があるのです。
自然とは陰と陽とのバランスのいとなみで
存在しています。
あるがままの状態を受けいれることが、
より自然な状態に近づくことに
なるのかもしれません。

たとえば樹木は
どんな状況に見舞われても
その場を離れることはできません。
その状況をただ無抵抗に受けいれているだけ
のようにも見えますが、
その一方で、その寿命を比べてみれば
人間の一生よりも
はるかに長く強い生命力を持っています。

養生について考えるときにも、
この視点はありかなと考えています。

タイムカプセル

2007-09-20 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
先日、部屋の整理をしていたら小さなノートが出てきました。
これはたぶん心に響いたことばを
メモしていたシリーズのものだと思います。
私は基本的に本に線をひいたり
書き込んだりするのが好きではないので、
付箋をつけておいては後でノートに書き写していたんです。
そのノートの一部を見つけたわけです。
内容を見てみると、
どうやら過呼吸の発作で苦しんでいた頃みたいですね。
しばしタイムスリップしたような気分を味わいました。


たとえばこんなようなことが書き記されていました。
和敬清寂 
 自分自身をしっかり持ち、身の回りを清潔にし、相手を大切にし、
 調和を忘れずに相手と意見や心の中を交換することこそ
 最高のもてなしであり、人づきあいである

☆巧みなことばより、思いやりにあふれた表情を
 自然の表情を見せられるようにするためには
 心と体が健康である必要がある

☆マナーとは自分を出そうとする積極性と周りとの調和を考える
 一歩下がった控えめな態度を使い分けること
 押すだけでもダメ、引くだけでもダメ、強弱をつける
 柔軟な姿勢をもとう
 さまざまな人間関係の中で
 自分の心をコントロールすることを覚えよう

☆生きることの基本は呼吸にある
 吸うとは生きるためのエネルギーを頂戴すること
  →獲ること、貪ること
 吐くとは与えるという行為を意味する
  →やさしいことば、笑顔、思いやり

☆反省とは、正しい間違い、○か×かを決めることではなく、
 気持ちを整理すること
 大事なことは少しでも早く
 穏やかな自分の気持ちを取り戻すこと

 自分を責めたり、他人との比較や優劣、
 勝ち負けを決めることではない
 自分の気持ちをみじめにする場ではなく、
 ただ自分の心の中を冷静に見つめ直すだけのこと
 その日の悩みはその日のうちに心の中で整理する。
 上手に反省しよう

☆自分を変えるのは自分の判断であり、
 勇気であり、自分の実行力でしかない

☆心を柔らかくしなやかに生きよう
 その場でできることを自分の能力に応じて精一杯やってみよう
 気取らず淡々と生き
 チャンスがあれば気楽に挑戦してみよう
 そうした無理のない生き方、自然な生き方こそが
 柔軟に生きるということ


当時の自分なりの切実な思いが甦ってきます。
行間や文字の流れなどを見ていても、
ちょっと窮屈で余裕がないような印象ですね。
これじゃ発作も起きるわけですよ。
でも、最後の一節などをみると、
いま自分が学んでいる
太極導引で目指していることにも通じるみたいです。
単なる偶然かもしれませんが、
改めて感じ入ることもなくはないひとときでした。

続・きれいだからダメなんです ー他人の評価が気になるー

2007-09-06 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
自分の中に美しさへの欲求が全くない
とは言わないですが、
自分の中の意識ポイントとしては低いです。
いわゆる美しさや優雅さのような
見た目に関するものは
動きの本質が現れてこそのものかと
思っています。
ですから、まずは本質ありきだろうと。
美しいかどうかは、二の次、三の次というのが
いまの自分の正直な気持ちです。
(それなのにいまだに指摘されている自分って…)

最初から綺麗に美しく見えることを狙って行う
動作が理にかなっているとは思えません。
それは我欲から発せられたものでは?
濁った意識によってコントロールされた
作為的な動作でしかないのかも。
おそらく心も技術も未熟であるうちは
どうしても濁ってしまうものなのではないかと
思ってしまいます。

自分に対する評が聞きたくなったり、
何かにつけて気になるようなときは要注意です。
迷いや不安があったり、体調を崩す前兆だったりと、
何かしら落ち着けないでいることが多いからです。

仮に教室での練習中にそんな状況に陥ったときには
自分のことにかまけすぎないようにしつつ、
他人の動きを注視するようにしています。
これは何も他人と自分とを比べているのではなくて、
自身との間に適度な距離を取り戻すためです
(何となく自分に近づき過ぎているような
気がするから…)。
そして自分が信じる人の声だけに
耳を傾ける
ようにつとめます。


きれいだからダメなんです

2007-09-04 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
はい、その通りです。
もうすっかり耳ダコになっているくらいに
言われ続けております。
太極導引の套路練習の動作が
きれい(なだけ)なのはダメなんです。

体験参加に来られる方達の感想は
なぜか一様に
「みなさんお上手なんですね」
「動きがきれいですね」
「長く通われているんですか」となるみたいですね。
おもしろいですね。

おそらく体験する前は
「自分にもそこそこ(うまく)できるんじゃないか」
という思いがあったんだけど、
いざやってみたら意外なくらいに動けなかったから
出てくる感想なんでしょうね。

でもわかりますよ、その気持ち。

確かに思うようにはいきません。
見るのとやるのとは大違いです。
もともとそういうものなんですから、
どうぞ気にしないでくださいね。

ところでこのきれいだからダメということ。
異論のある人もいるのかもしれません。
表演は美しくあるべき
と考える人も少なくないです。
見せるのだから
より美しくあることは大切だと。
確かにそうかもしれません。

ですが導引は
日常行う調整を目的とした運動法です。
ですから美しく見せるための練習はしません。
不要です。
というか、何をもって美しいというのか、
美しさの本質をどこに求めるのか
といった
視点の違いがあるのかもしれません。

誤解を恐れずに言えば、
誰が見ても美しいと感じる美しさには
玉石混淆の場合もあるのかも。
つまり見せかけだけの美しさも
混じっている可能性があるということです。

きれいだからダメなんです
と言われている段階の美しさは
間違いなく“石ころ”です。
見せかけだけの美しさです。
小手先だけの“調和もどき”であって
内面の充実から醸し出される美しさ
とは違います。

目利きということばがあるように、
本物を見抜く眼は
鍛えてこそのものなのです。
いまにみてろよー
と密かに言ってみる…なんちゃって。
(ったく、わかっちゃいないヤツですorz)

ほどよい加減 さじ加減

2007-09-01 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
このところの不調続きで
段々とわかってきたことのひとつに、
まだまだ自分に対する期待感が残っている
ということ。
気づくと無意識のうちに
期待していたりするんですね。

不調続きが長引いてくると、
さすがに愛想が尽いてくるのか、
自分に対する期待感もしぼんでくるようです。
皮肉なもので、
そうなってからの方が
動きがよくなってくるとなれば、
やはり過ぎた期待感が背景にある
としか思えないわけで。
なにも期待することが悪いわけではない
とは思います。
問題はその程度、ほどほどのよい加減が肝要かと。

不調であることを必要以上に気にやめば、
それはまた病因のひとつでもある
内因となります。
不調もまた自然現象のひとつです。
調子の波のひとつの現象であって、
そういう状態があること自体は自然なこと。
この点を受けいれることがまず一歩。

次に自然現象は変化の象であること。
だから「ととのえる(調整)」ということは
変化(の流れ)に順応することではないのかと。
もしかしたら変化に順応しきれない状態にある
現象のひとつとして対抗があるのかも。

不調になれば好転させたいと思うのは人情です。
ですが、その思いだけが強くなりすぎて
現状に順応できないでいる(対抗している)ことは、
かえって好転への変動に
ブレーキをかけることにもなりかねません。
不調のときは不調なりの過ごし方をするように
奨励されるのは
そういうことなのだと思います。

自分の体と心でさえ、
調整するのはひと苦労と感じてしまう自分、
まだまだ取り組み方も技術も未熟です。