太極拳導引ではその鍛錬内容である
調身・調心・調息の3つを称して
導引三調と呼んでいます。
観察ツールとしての調息
導引三調(調身・調息・調心)の調を
どのようにとらえるか。
それはどのようなみかたかといえば
「ととのえる」とみるのか
「ととのう」とみるのか、とでもいうような。
微妙といえば微妙な違いだが
主体のありか、意識の方向の違いがみてとれる。
個人的な見解ではあるけれど、
呼吸法の研究は自然呼吸の観察から始まったのではないか。
呼吸が変化する要因を探るうちに
身体面や情緒・心理面の動きや変化とのつながりに
気づいたのかなと。
そこから呼吸を意図的にととのえることで
身体動作や情緒面心理面にも変化がうまれるのではないか
そのような仮説をたてて研究検証が続けられ
発展してきたのではないのかなと。
そのように考えると自然呼吸で行う太極拳導引における
調息の調はととのうなのかな。
本来的には息がととのっている状態であることなのかも。
したがって練習中の息の状態を意識する(観察する)ことが
調息の基本なのかも。
意識的に呼吸をおさめようとするのではなく
身体の使い方(動かし方)や情緒・心理面の状態の結果が
呼吸の状態に反映されるとするスタンス。
呼吸導引で練習している自然呼吸のあり方が
太極拳導引が目指す呼吸の状態で
その呼吸の状態に近づいたときの身体感覚や心理状態を
呼吸導引練習で養っているのではないか。
呼吸導引でいま現在の自分に適した呼吸状態をつかみ
次に太極拳の動作練習に入る。
身体動作や情緒・心理状態は時々刻々と変動する。
そのなかで呼吸はどのように変化しているかを観察する。
いま現在の自分に適した身体の動きができていて(調身)
情緒・心理面も落ち着いていれば(調心)
呼吸も穏やかな自然呼吸となっている(調息)のではないか。
もし呼吸に乱れや硬さ、
息づかいの様子などが違ってきたら
身体の使い方や動き、情緒や心理面への意識濃度を
少し上げてみる。
そうして呼吸が自然呼吸に戻るまで
できるだけ焦らず落ち着いて身体的調整を繰り返す。
もちろん身体や情緒の状態を
目安としても構わないと思うのだが、
状態の変化のわかりやすさという点では
呼吸なのかなと感じたので
自分はそっちからのアプローチが多いのかもしれない。
意識的に呼吸をととのえるというのは
意外と難しかったりする。
呼吸導引練習でもそうなのだが
意識すればするほど身体がかたくなったり
できないことがプレッシャーとなって
心理的にも負担が増すのは茶飯事。
呼吸導引は苦手と感じる人もいると思う。
私もそうだった、と過去形にしていいのか?とも
思うほど苦手なのだ。
一つには疾病履歴も影響するが
とにかく呼吸にまつわるトラウマがあったのも事実。
二つには、何かにつけ委ねることが下手で苦手なこと。
ついつい自分でしないと納得できないタチだから
呼吸も制御したくなる。委ねベタの緊張しい。
そんな自分の資質を受けとめてつきあうにしても
調息からのアプローチが有効なのかなと思い始めたり。
たかが呼吸、されど呼吸。
呼吸運動は生きていることの証でもあるが、
呼吸しているから生きているとみるのは体外からの視点で
生きているから呼吸するとみるのは体内からの視点。
こうした双方からの視点を持ち合わせる習慣をつくれるのも
太極拳導引鍛錬の成果のひとつかもしれない。
調身・調心・調息の3つを称して
導引三調と呼んでいます。
観察ツールとしての調息
導引三調(調身・調息・調心)の調を
どのようにとらえるか。
それはどのようなみかたかといえば
「ととのえる」とみるのか
「ととのう」とみるのか、とでもいうような。
微妙といえば微妙な違いだが
主体のありか、意識の方向の違いがみてとれる。
個人的な見解ではあるけれど、
呼吸法の研究は自然呼吸の観察から始まったのではないか。
呼吸が変化する要因を探るうちに
身体面や情緒・心理面の動きや変化とのつながりに
気づいたのかなと。
そこから呼吸を意図的にととのえることで
身体動作や情緒面心理面にも変化がうまれるのではないか
そのような仮説をたてて研究検証が続けられ
発展してきたのではないのかなと。
そのように考えると自然呼吸で行う太極拳導引における
調息の調はととのうなのかな。
本来的には息がととのっている状態であることなのかも。
したがって練習中の息の状態を意識する(観察する)ことが
調息の基本なのかも。
意識的に呼吸をおさめようとするのではなく
身体の使い方(動かし方)や情緒・心理面の状態の結果が
呼吸の状態に反映されるとするスタンス。
呼吸導引で練習している自然呼吸のあり方が
太極拳導引が目指す呼吸の状態で
その呼吸の状態に近づいたときの身体感覚や心理状態を
呼吸導引練習で養っているのではないか。
呼吸導引でいま現在の自分に適した呼吸状態をつかみ
次に太極拳の動作練習に入る。
身体動作や情緒・心理状態は時々刻々と変動する。
そのなかで呼吸はどのように変化しているかを観察する。
いま現在の自分に適した身体の動きができていて(調身)
情緒・心理面も落ち着いていれば(調心)
呼吸も穏やかな自然呼吸となっている(調息)のではないか。
もし呼吸に乱れや硬さ、
息づかいの様子などが違ってきたら
身体の使い方や動き、情緒や心理面への意識濃度を
少し上げてみる。
そうして呼吸が自然呼吸に戻るまで
できるだけ焦らず落ち着いて身体的調整を繰り返す。
もちろん身体や情緒の状態を
目安としても構わないと思うのだが、
状態の変化のわかりやすさという点では
呼吸なのかなと感じたので
自分はそっちからのアプローチが多いのかもしれない。
意識的に呼吸をととのえるというのは
意外と難しかったりする。
呼吸導引練習でもそうなのだが
意識すればするほど身体がかたくなったり
できないことがプレッシャーとなって
心理的にも負担が増すのは茶飯事。
呼吸導引は苦手と感じる人もいると思う。
私もそうだった、と過去形にしていいのか?とも
思うほど苦手なのだ。
一つには疾病履歴も影響するが
とにかく呼吸にまつわるトラウマがあったのも事実。
二つには、何かにつけ委ねることが下手で苦手なこと。
ついつい自分でしないと納得できないタチだから
呼吸も制御したくなる。委ねベタの緊張しい。
そんな自分の資質を受けとめてつきあうにしても
調息からのアプローチが有効なのかなと思い始めたり。
たかが呼吸、されど呼吸。
呼吸運動は生きていることの証でもあるが、
呼吸しているから生きているとみるのは体外からの視点で
生きているから呼吸するとみるのは体内からの視点。
こうした双方からの視点を持ち合わせる習慣をつくれるのも
太極拳導引鍛錬の成果のひとつかもしれない。