松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

無為(何もしない)ということ -その2-

2006-05-29 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
動きの最中は何もしないようにしてみると、
今まで以上にいろんなものが巡っている感じがしてきた。
ひたすらに動くことで開かれていくと感じたり、
確かに今までと違う心地よさがあるような気がする。
あれほど気になっていた緊張感のことも、
意識の程度をもっと抑えても
状態が把握できるような感じがしてきて
心理的負担が軽くなっている。
ああ、ようやくゼロ地点が見えてきたのかも…


いま自分が感じている変化を
忠実に表現することはたぶんできないと思う。
敢えていうなら開かれた感じがするということになるのかも。
では、いままでは閉じていたのかといえば
たぶんそうなんだろうなと思う。

要するに意識の仕方、働かせ方がわかっていなかった。
コントロールの意味がわかっていなかった
ということかもしれない。
思いつきのままに意識が巡っているだけで
統括できていなかったから
あちこちでねじれてしまっていたのかも。
ところが今回の一件で
いままでのシステムを解除しまったら
妙にスッキリしてしまったということかな?

意識の扱いにはそれなりのコツがあるのだろう。
チラッと思っただけでも意識は働いており
身体には反応が起こる。
意識はエネルギーでもあるから、
改めて意識でどうにかしようと思ったりすれば、
おそらく予想以上のエネルギー運動が起こるのでは
ないのかしらん。
いわゆる“やりすぎ”みたいなことになってしまうとか。

だからこそ要らない力は入れないようにしないと、
大量のエネルギーを無駄に消費することになってしまうのでは?
おそらく意識のコントロールというのは
制することが中心であり、
助長することは滅多にないのかもしれない。


ということで、いまは何もしないことが
もたらしてくれるものを
ただありがたく頂戴しているだけ。
不思議なことに
いちばん自分の体を身近に感じている気もしている。
歩み寄るって、こういう状態にも使えるのかな。
どのように動きたがっているか、
次に何をしたくなっているか、
といったことが伝わってくるような感じ。
体の声をきくには、いまが聴き時なのかも?

無為(何もしない)ということ -その1-

2006-05-22 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
別に老子の『無為自然』というわけではないのだけれど、
つくづくと何もしないで「事を為す」ことの
難しさを感じているこの頃。
理屈で動いているわけではないけれど、
太極拳套路を練習しているとある考え方に触れるというか、
啓発されるような部分も少なくない。

太極拳が中国伝統文化の精華といわれるのも
素直に納得できてしまう。
と同時にはたして日本人にどれだけ理解できるのか
という気もする。
もちろん日本伝統文化の精華にも同じくらいに、
いやそれ以上に親しむ必要があるのでは?
という意見だってあるだろう。
それらはまた次の機会に譲ることとして、
今回のテーマは『無為』ということ。


動きの際に何もしないとは、
一般的には作為的な動きをしないことだろうと思う。
そして作為的な動きには意識的に行うものと
クセのように無意識のうちに行ってしまうものが
あるような気がする。

練習での動きはすべて意識的に行うもの。
それは意識を働かせることではあるけれど、
単純に意識を反映させることとは少し違うようにも思う。
うまく表現できないのだけれど、
たぶん段階を経ることで
意識の質や意識の表れ方が違ってくるのではないか
というような気がしている。
つまり意識の質や伝わり方の質の違いが
動きの質を変えていくのではないのかなと思ったりしている。

自分の現段階では単純な意識であり、
従って過剰だったり不足だったりバラツキが目立つ。
無駄、ムラ、隙だらけ。
たとえば最近言われ続けている
身体の中心から回転する意識についても同様で、
自然の理にそうことよりも、
ついつい自己都合に傾きがちになってしまう。

自己都合とは
たとえば動きの手順を間違えないようにしたいとか、
なんとか正しく動きたいとか、スムースに動きたいとか…
これらは目標を意識しているのであって
動作を行ってみた後に初めてわかることであり、要するに結果だ。
では、動作中に結果を意識する必要はあるのだろうか?

今このときに集中しなくて
どうして良い結果が期待できるだろうか。
先生が言う「うまくやろうと思わない」ということの意味が、
自分には理解できていなかったのではないか。

要求は要求として満たせるようになることが必要。
しかし一度動き出したら、
そこには陰と陽の太極しかない。
それはあきらかなことであり、
それについては迷うことも考える必要もないはず。
今はただ、それでいいじゃないかということなのかな。

ひねりとねじれ

2006-05-20 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
最近の練習では体の回転を意識して動くことを
指導されている。
手足を単独で動かすのではなく
体の中心から動かすようにするのだけれど、
頭ではその意図はわかるのだけれど、
全体の協調性が崩れてしまう。
それは意識が全身を巡っていないからだ。

体の回転は骨盤の可動域に合わせて
上体を一体化させて動いている必要がある。
そして骨盤の可動域は股関節の状態で決まる。
股関節や骨盤、つまり下腹部あたりを意識していると
回転の限界がわかりやすいのだが、
動作中は手の動きに気を取られ、
どうしても胸部あたりが
手の動きに引っ張られるようにして動いてしまい、
骨盤の動きよりも先走ってしまうことが多い。
その結果、上体が面にならずに
ねじれた状態になってしまう。
ひねることとねじれることは違うんだと
ようやく気づく。
ねじれることで股関節が窮屈になり
骨盤周辺も緊張してしまう。
ねじれは緊張状態を生むのだなあ。

ねじらずひねるために
両肩と骨盤を結んだ面がひしゃげないように
注意深く回転してみることをくり返し試みている。
股関節、膝など下肢が
回転の調整を担っていることを改めて感じる。
結局、大地が支えてくれているようなもの。
足裏が大地と協調しているような感じ。
こういう感じを覚えておけるといいなあと思う。


香の十徳

2006-05-07 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
子どもの頃から嗅覚はいい方でした。
匂いには敏感でしたから
何でもクンクンやってました。
車の排気ガスまで深呼吸して味わっていましたから、
今思えばとんでもないことです。
しかしその後、花粉症を患うこととなり
私の香り三昧の人生にも陰りが…。
最近でこそ花粉症もラクになってきて
余裕も出てきましたが、
鼻がきかなくなる時期を
苦痛に思うことには変わりません。

香りを楽しむといっても
実はお香が中心です。
香水のような系統も持ってはいますけども、
基本的にはあまり利用しません。
そのほとんどがいただき物です。
このあたりも“匂い好き”という情報は
伝わっているんでしょうね。

好きなのは自然の香り、
例えば野菜の匂いも好きです。
古くなったお香を利用して匂い袋を作ったりもします。
匂いのきつめのものや煙が多く出るものは、
コーンタイプなどは
水にサッとくぐらせてから点火すると香りがやわらぎ
煙も少なくなりますが、
線香のようなものはちょっと不向きです。
この場合は、水を入れた器をそばに置いて
焚くだけでも少し違ってくるような気がします。
湿度と関係しているのかしらん?

私の利用するお香は天然の香材が多かったのですが、
大好きな白檀などは木そのものが希少と言われるほど
取り尽くしていますので、
純正を求めることが難しくなってきました。

実は香材となる天然素材は
漢方薬の薬材としても利用されることが少なくありません。
医食同源と同じく医香同源という表現も
なきにしもあらず?といったところでしょう。

そういえばお茶も
もともとは薬として珍重されたものです。
お茶を飲んで一休みすることを一服すると言うのも
このためです。
一服するといったら必ずお茶が出てきます。
それがお約束なんですね。

お香も嗜好品ですから
好きな人もいればそうでない人もいます。
空気中を漂って流れていくものですから
上手につき合いたいですね。

某サイトでみつけた『香の十徳』。はじめて知りました。



   一 感格鬼神      香は 感覚を研ぎ澄ます
   ニ 清浄心身      香は 心身を清浄にする
   三 能払汚穢      香は よく穢れを取り除く
   四 能覚睡眠      香は よく眠りを覚ます
   五 静中成友      香は 静けさの中に安らぎを得る
   六 塵裡偸閑      香は 多忙時にも心を和ます
   七 多而不厭      香は 多くとも邪魔にならない
   八 寡而為足      香は 少量でも十分に足りる
   九 久蔵不朽      香は 年月を経ても朽ちない
   十 常用無障      香は 常用しても障りない