松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

指の感覚からみえてきたものー整体・基本手技練習にてー

2011-05-17 | からだの風景-みる・さわる・かんじる-
昨年、てあて整体スクールを卒業したわけですが、
その後もリピート受講をしています。

卒業生としてリピート受講してみると
スクール生の頃とは違った印象です。
認定試験に合格することは
ひとつの通過儀礼にすぎないとは思うものの
合格するまでには
それなりに鍛えられるわけですから
うっすらと一皮むけたってことでしょうか。

3月以降ちょっとお休みしていたので
久々ということになりますが、
このところの手技練習では
受け手の身体の状態が指で感じられます。
というか受け手の身体が
教えてくれているような感覚に近い印象です。
この感覚、深さのあんばいや
引きのタイミングなどに影響してきそう。
何となくわかるようになってきました。

ようやく落ち着いてきたのかな。

私はどうもいろんな情報を
身体を通じて拾いやすい質のようなのですが、
これが裏目に出るとちょっと厄介なことに。
情報に翻弄されて頭ばかりが先行し
身動きがとれなくなる。
その点を師匠から指摘されていたのでした。

自分の身体は自分の思うように動く訳ではない。
多くの情報に踊らされ小手先に走るくらいなら
自分にとって無理のない姿勢、整体をしやすい体勢を
もっともっと追求せよと。

この教えは、太極拳導引の要求にも通ずるものを
含んでいるように思います。
身体の緊張状態からの解放と情緒の落ち着いた状態は
相互に影響し合います。
そこから内外の統一感や平衡状態が導かれます。
整体においても、相手に働きかける以前に
まずは自分の体勢をととのえることから。

それが実際の施術ではどんな感じなのかが
何となくわかって(想像できて)きたら
心理的身体的な力みが減ったような気がします。
まだまだ余計なものがある、捨てられるなぁ。

これまで師匠に指導され続けてきた
姿勢の取り方、指の置き方、引きのタイミングなどなど
改めて確かにそうだわと思うことしきり。
こうした気づきがあると
さらに自ら学び、理解を深め、磨くことが楽しく思えます。


理論講座 備忘録ー松(鬆)と静ー

2011-05-15 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
太極拳導引の運動理論は太極拳の基本要求に基づいてます。
要求内容への理解の深まりと内なる変化は
相互に影響しあいながら
やがて内外が協調し合う統一性を感じるようになります。
今回の理論講座は中級との位置づけで
意なるものがテーマとなっています。



■はじめに

求めるべきものは「バランス(平衡)」
平衡とは一方に偏ることなく
ある安定した状態を保っていること

空間的バランス
 →前後、左右、上下間における構造的バランス

時間的バランス
 →安定した運動(移動、変化など)のタイミング



【進化には段階がある】

初級段階は、外見、目で見てわかるもの(形・型)を
学ぶ(真似る)ところからのスタート。
正しい形・型への要求は外なる範囲にとどまる。

初級が外中心であったのに対し、中級以上は内中心に。
内は視認できないのでイメージ(意念)を用いることになる。
中級段階では、意なるものへの理解を深める(『用意不用力』の理解)
意は意念(イメージ)であり、
内なるイメージを表現として外へ表しているものの素

上級段階は神(jin)を目指す。
意をもって内外を調整し統一体観を満たす。




【松(鬆)と静】


松(鬆)→身体的要求

 筋肉をゆるめる…肉、筋、関節がゆるむ

 膨らむ(イメージ)
     …骨と骨、筋と筋、肉と内臓の間にすきまをつくる

 溶解する(イメージ)
     …形がなくなり密度だけになる、空気にとけ込む、境界がなくなる
       (体が軽くなるような感覚)


静→心的要求

 情緒を制御する(コントロール)
     …欲や焦りを生じない心理状態が目標

 集中する…音のない世界(真空)徒に動揺しない



太極拳と太極拳導引との位置づけ

2011-05-11 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
師が提唱し実践している太極拳導引は
太極拳が持っている幾つかの要素のうちの
とくに養生的要素を第一義に追求する養生運動法です。
しかし養生運動とはいっても
太極拳導引の要求内容は太極拳のそれと
ほとんど変わりはないように思えます。

では、なぜ太極拳とはいわず
わざわざ太極拳導引といっているのでしょうか。

太極拳には武術のみならず、
健身(医)、表現(芸)、哲理など
古来から引き継がれてきたさまざまな要素を
取り入れた伝統文化の精華ともいえる存在です。
師はおそらく太極拳をそのように考えており
太極拳に対して敬意を払われているようにも思います。

したがって太極拳を
太極拳導引的に行うことはあり得ますが、
太極拳導引をもって
これが太極拳であるということはできない。
そういう位置づけなんだと私は理解しています。