松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

やった分だけ

2005-06-27 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
体は正直なもので、
動かせば動かした分だけ変化する。

腰周辺の筋肉を活性化させて
正しい姿勢を保持できるように
基本練習を続けている。
とくに腰を捻る動作を中心に
行うようにしている。

整形外科などでは
腹筋や背筋の強化を目的とした
腰痛体操を紹介し指導するけれど、
個人的には全身の姿勢やバランスを
意識させてくれる基本練習の方が好き。
腰痛体操は単純動作の繰り返しのためか、
しだいに意識の集中が曖昧になってきたり、
いつの間にか首の付け根などに
不要な力が入っていたりする。
どうも自分には合わないみたい。
その点基本練習では
ちょっと腰への意識を丁寧にするくらいで
特別のことをしているわけではない。
いつも通りの練習と変わらない。
練習をした分だけの結果が
自然についてくるということかしらん。

日常のさまざまな展開の中で
求められるさまざまな要求に対して
自然に反応できるような
心身の状態を持ち合わせていられるようになりたい。
これが私の願いなのかも。
今はまだまだ器も小さく
基礎づくりの準備段階でしかないけれど、
いずれは…と思っている今日この頃。

最近、思っていること

2005-06-26 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
この2カ月くらいの間、
いろいろ考えることが多かった。
それは身体的なことや
心のあり方のようなものなど、
さまざまな角度から
自身の現在地点を
再確認したようなものかもしれない。

身体の仕組み的なことでいえば
「骨を知る」ことによって
骨で動く感覚を意識し出したこと。
時として筋肉が意思に反して
動きの邪魔をすることがあることを知ったのは収穫。
自分の思い通りに動けるようになるには、
動きの邪魔になりそうな状態を
なるべく排除する必要がある。

骨を動かすのは筋肉だけれど、
主体は骨で筋肉は補助的なもの。
骨がうまく動くためには
関節を上手に使いこなすことも必要。
関節をゆるめの状態に保つのはそのためでもある。
骨と骨との接点であり、
動きの方向や質を変換する役目も果たす。

例えば上体を回すにしても、
骨を意識しなければ
筋肉に力を入れて捻る動きとなるが、
骨から回そうとすると、
まず筋肉を一端ゆるめないと
背骨を意識できないことに気づく。

背骨に意識を集めたら
ゆっくり背骨を回してみると、
意外なほど軽く回ることに驚く
(私の場合はある関節の存在を知ったことで
さらに強く感じるようになった)。
だったら今までの上体を回す動きは何だったのか? 
こんな感じで、今までの動作が
いかに力任せに動いていたのかを確認していった。

心のあり方でいえば、
これまでずっと事あるごとに
先生が言われてきた言葉が
徐々に身にしみてきたことかなと思う。

我々は健康のために運動している。
別に選手になるためや大会で好成績をとるために
練習しているわけではないし、
道を極めるための練習をしているわけでもない。
年に一回参加している交流大会にしても、
たとえ採点種目であっても
ことさらに採点を気にするような要求はされない。
どちらかといえば、“もっともっと”と
頑張ろうとする我々を、
先生がコントロールしておさえているようなものだ。

自分なりにいろいろな立場で
太極拳をはじめ
さまざまな武術にかかわっている方達の考えに
触れる機会を得て、
自分の立っている位置が
どういう所であるのかをようやく理解したところ。
健康のための運動には
それなりに適した程があるということだ。

例えば足を高くあげられなければ
健康ではないのだろうか。
自分の上がる範囲で十分ではないのか。
より高くという目標設定が
腰や膝に負担をかけることになれば、
不健康というリスクが増してくる。
本来の健康のための運動が
不健康を招くかもしれないのだ。
向上をもたらすものは
正しい理解と方法があればこそのもの。

最近、先生が動作の意味を
丁寧に説明してくださるのも、
正しく理解することが故障を防ぎ、
健康づくりにつながると
考えているからではなかろうか。

この頃の、やや武術的興味に
傾きつつある教室の雰囲気を察してか、
先生の教育的指導も多様化してきている模様。

確かに高く伸びた足や
低い姿勢で表演する姿は美しく感じる。
でも美しいばかりで
何となく物足りないものも少なくない。
周りに左右されることなく、
自分が何を望みどうありたいと思っているのか。
今も問いかけ続けているところ。

課題は復習時間の確保

2005-06-25 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
とうとう孫式97式の全套路が出揃った。
今まで練習してきた中でも
最も長い套路で
時間もかけたこともあり、
ひとしおの感がある。

初めての套路が24式だった。
とにかく目標の24動作を覚えようと
夢中だった。
24動作が出揃ったときの教室では
自然に拍手がわき起こった。
ただただ目標に到達したこと、
達成の喜びに酔っていた。

ほぼ4年をかけて練習してきた套路は、
24式の他に陳氏18式、42式、16式剣、
そして今回の孫氏97式となる。
太極導引教室は、
さまざまな套路を練習することで
心身のバランスを整えることに
主眼をおいているので、
一般的な太極拳教室とは
考え方も練習方法も少々異なっているようだ。

こうして練習してきたものなのに、
42式などは個人的にも復習する機会が少なかったために、
今ではかなり心許なくなってしまった。
もはや套路にはなっていないかも。
せっかく教えていただいた
先生に対してはもちろんたいへん失礼なことだし、
自身にとっても納得のいかないことだ。

でも、だからといってムキになっていないところが
また矛盾しているようにも思えてくるのだが。

実のところ「(習った套路は)覚えているのに
越したことはないけれど、忘れたっていいじゃない」
という気持ちの方が、
納得のいかない悔しさよりも、
やや優ってきているのだ。
過度の感情の波を持ち越さないようにという、
先生の指導効果が
こんな形で顔を出してしまったのかしらん。
いいのかなあ…。

先生からお聞きしたところ、
孫式を導引練習すれば1回につき3、40分を
要するそうだ。
来月からしばらくは専科教室の練習時間枠を
孫式の復習にあてることになっているが、
これでは1回通すのがやっととなる見当だ。
個人練習時間の確保は必須となる。
こうなると、何か試されているような
気にもなってくるなあ(笑

おそらく「やった分だけできるようになるし、
やれば楽しいから」これが基本かな。
柔軟な対応をしつつ探っていきたいと思う。

臆病は病なのかな -こころの問題デス-

2005-06-23 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
最近になって自分の性格的傾向に
改めて気がつきました。

坐骨神経痛の症状が出てきて
かれこれ半年以上のつき合いになるのですが、
一向に慣れません。
痺れや左足に走る痛みの感覚は常に気になっています。
太極導引をすると一時的に改善されるのですが、
正直、運動中はラクとは言えません。
ストレッチでも左足にピリッ、ピリッと走る度に
筋肉が緊張します。でも、練習が終われば
ちょっとの間は痺れも軽くなって、
体内に流れを感じることができるんです。

痛みや痺れている状態にはだんだん慣れてくるというか
感覚が麻痺してくるというのか。
違いますね、痛みや痺れがない状態が
どんな感じだったか思い出せなくなるんですね。
忘れてしまう。
これが日常化、習慣化(慢性化?)というものなのでしょう。

実は、先日整体を受けていて
胸椎の一、二番あたりがズレていると言われました。
ストレッチをしたりするだけでも
改善できる程度のものだと言われているのに、
心情的には“今度はこっちかいな”といった
追い打ち的な状況としか考えられなくなってくるのです。
ですから口から出る言葉も
「(ズレている状態は)あまり良いことではないですよね」とか
「危ないですね」といった悲観的なものばかりです。

痛みや痺れと付き合うことにくたびれてきたというか、
こういう種類のものを受け容れるだけの
精神的余裕はなくなってきてますね。
臆病になってます。

臆病というのも心理的には縮こまった状態ですね。
こういう精神的な萎縮も一種の緊張状態なのかしらん。
もしそうだとすると、これまでの人生において
緊張状態は恒常的なものかと思われます。
思い当たることが多々あるんですね。
これは一生の問題かもしれない。
大小取り混ぜた失敗の数々のうちで、
懲りずに繰り返している類のものがあると思われるのですが、
これが…カギなのかな?

いうなれば自分を信用していないのです。
裏切られて痛い思いをしたことを
心のどこかで許さないでいる自分がいるらしいです。
自分に対して過度の期待をかけた自分が悪いのに、です。
思いこみの尺度で現実の自分を測っているだけなのに。
物差しが間違っているのに。

何に対して誰に対して萎縮しているのでしょうか。
何だか自分でもよくわからなくなってきました。
うーん、どうしてこんなめんどうくさい生き方を
するのでしょう、したいのでしょう。
バランス的にもどうかと思いますよね。
やっぱり臆病は“病”なのかしらん。

太極導引は難しくはない

2005-06-21 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
知らず知らずのうちに小智恵がつき出して、
いろいろと考え始めるようになってしまいましたが、
もともと太極導引はもっとシンプルに
楽しめるものなんだと思います。

いろんな感覚に目覚めはじめた頃から
徐々に脇道にそれ始めたようです。
この感じは何なんだろうとか、
やたら知りたくなってきたのです。
先生に質問しても「そうですか。そんな感じがありましたか」
というような答えが返ってきたような気がします。
そのうちに自分でいろいろと読みあさったりして、
どんどん頭で吸収するものが増え、
知識と心身の発達状態に少しずつズレが生じていきました。
その当時は知りたいという欲求を
どうしても止められなかったんですね。

最近になって、ようやくそのアンバランスな状態が
少しずつ変わり始めてきたような気がします。
やっと均衡に近づいてきたのかな?

いまはただ、練習中は動くことだけを考えるということ。
意識を内面に集中させて体の内部の変動を感じ、
呼吸に合わせるということです。
自分にどれだけ集中することができるかが
カギなのかなという気がしています。

自分が求めていたのは、おそらく意味だと思います。
それは導引する上では直接的には
必要のないものと言えるかもしれません。
いうなれば些末なものです。
あの当時、先生がサラッと返事をされていたのも
「今やらなくてもいいことはやらなくていい」という
考えがあったからではないでしょうか。

松静自然が難しく思えるのも、そこに意味を求めるからです。
導引自体が松静自然であると考えれば、
意味を求める必要がはたしてあるのかどうなのか。
少なくとも導引中は何も考えず
意識を集中させて動くことに徹するだけでしょう。
考察は導引を終えた後でも十分できます。

ものごとは難しく考えれば
どんどん難しくなるようにできているのかもしれませんね。
そろそろ道草にも飽きてきたのかも。
最近、新鮮な気持ちで練習できるんですよね。

太極導引は確かに難しくはありませんが、
易しいということではありません。
見方によっていくらでも解釈は変わってきますから。
これで了解し合える仲間とは
同じような蓄積があるということなのでしょう。
そう、仲間の存在も大きいです。欠かせませんね。

楽しい稽古をしましょう

2005-06-20 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
18日付けでアップしたブログ(「無理すれば道理で苦しい」)に、
わしさんからコメントをいただいているのですが、
ちょうど彼のブログ『まゆつば日記』でも
柔術の稽古について
アップされているので紹介します。

わしさんは柔術の稽古、私は太極導引の練習です。
柔術の稽古は相手と組みながらの稽古のようですが、
太極導引ではもっぱらひとりで
内面に意識を集中させながら練習しています。
こうした外見上の違いはありますが、
練習を通して追求しているものが
何となく似ているような気がしています。
わしさんと私がたまたま似たような志向を
持っているだけなのかもしれませんが、
柔術でいうところの技に求められているものと
太極導引の要求(松静自然)には、
どうも共通するものがあるように思えるのです。
そのため、わしさんが感じたり考えたりしていることには、
ついついうなずいてしまうことが多いのです。

柔術というからには術(テクニック)を
極めるのでしょうが、
術は技の仕組みを理解することから
始まるのでしょうか。
動作的な仕組みはいずれわかってくる
ものなのだろうと思います。
しかしもうひとつの仕組み、
技を繰り出す肉体と精神の仕組み(かかわり、状態など)も
研究する必要があるのだろうと思うのです。
これらは単に想像でしかないのですが、
何となくこのあたりが個人的には
似てくるような気がしているところです。

わしさんのいう“稽古を楽しみましょう”
という心のあり方というかスタンスには同感です。
何をもって楽しいと感じるかは
人それぞれですし、ニュアンスも異なるもの。
それでも最大公約数的な感覚はあると思います。
個人でも仲間と一緒に練習していても
原則は変わらないのかもしれません。
だいいち楽しくなかったら…続かないですよね。

公園で練習

2005-06-19 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
この時期の練習は天候に左右されます。
久しぶりに天候が回復すると、
なるべく公園に行って
ノビノビと練習するようにしています。
やはり気持ちがいいです。
ほんとは朝が良いのに決まっているのですが
諸般の事情があって。
無理すればできないことはないのかもしれませんが、
おそらく続かないと思うので(苦笑)。
すみません、ヘタレです。

近所の公園は時間帯によってギャラリーが変わります。
午前中はおもに幼児が中心です。
この時間帯にいらっしゃるご老人達は
ウォーキングや体操などといった目的で公園に来ているので、
それぞれの目的に集中しています。
一方の子供達はにぎやかです。
保育園児ともなると好奇心旺盛ですから
集団の強みで物怖じもせずに近寄ってきます。
保育士というんですか?引率の先生がいくら注意しても
一向にきく気配がありません。

 「おばちゃん、何してるんですか?」
  (おばちゃんだよ、確かに)
 「運動。ケガするとあぶないから近くに来ないでね」
  (つとめて静かにわかりやすく)
 「ふーん。でも見たことなーい。へんな体操!」
  (じゃかやしいのぅ。あっち行け!)

これが午後になると、母子連れのパターンと
ご老人が中心となります。
さすがに母子のケースは
知らない人には近づいてきません。よい子たちです(笑)。
この時間帯のご老人は
ひとりでベンチにすわっているだけですから
完全なギャラリーと化しますね。
見てないようでじーっと見つめていらっしゃる。
最初は気になりましたが、すぐに慣れました。
練習するなら午後の方が集中できますね。

そういえば以前、剣を練習していたら
警察官に職務質問らしきものを
受けたことがありましたっけ。
近所の住人から、公園で刀を振り回している
との通報があったらしいです。
が、私の剣は折り畳み式のものですから
彼にはオモチャ程度にしか見えなかったようで
苦笑いしてました。
それにしてもチャリのお巡りさんで良かったデス。
通報の仕方によっては
大騒ぎになることだってありそうなので、
以後、剣の練習はしていません。

最近は少子化の影響なのか公園が減ってきています。
体育館もあることにはあるのですが、
個人利用者への開放日や時間は
限られる上に利用料が必要となります。
練習場所は普段から探すようにはしているのですが、
自宅から離れるほどに、
自分の意思を試されているような気がしてくるのは
単なる思い過ごしかしらん…。

無理すれば道理で苦しい

2005-06-18 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
最近、練習についてよく考える。
個人練習にしろ教室での練習にしろ、
体を動かしているのは自身でありながら
自己責任を感じているのだろうかと。

先生が常に「無理をしないでください」というのは、
無理が無用な力となって
緊張を生むばかりではなく、
運動そのものが故障や命にかかわるような
(極端な場合だけど)危険性を常に秘めていることを
承知しているからではなかろうか。

一方で練習生は
こういうリスクには案外と無頓着なものだ。
たとえどんなに先生が注意を払って指導していても、
体を動かしているのは先生ではなくて自分だ。
違和感や危険性を真っ先に感じるのは
自分でありそうでいながら
実際は危険ゾーンの手前で
先生が予め指摘してくださっているのが現実。
その注意を喚起する呼びかけが
「無理をしないでください」であるのかもしれない。

これは初心者よりも
自分でいろいろわかり始めてきた頃からの方が
かえって危なくなる気がする。
自分もそうだからだ。
練習を手加減することとは違うのに、
何らかの充足感がないと
気がおさまらない“手応えの誘惑”に
ついつい負けてしまう。
なぜなら覚える喜びや動ける感動があり、
動きそのものに変化があって
楽しいから。
自分なりに“おいしさ”を味わい、
その魅力を知ってしまったら
もっと味わいたくなるのが人情だ。
満腹中枢が働かない→肥満への道と、
どこか似ているカモ。

太極導引は誰でも無理なくできる健康運動
というのは事実。
でもそれは正しく運用した場合に限るのだ。
やり方を間違えれば
故障もする可能性がないというわけではない。
運動とは本来がそういうものなのだ。
必ずしも「健康運動=安全な運動」
ということではないのに、
一般的にこの点の認識が甘くなるのはどうしてだろう。
健康を損なうことは簡単だけれど、
健康を保持し増進するには
それなりの努力が必要なのだ。
ラクして手に入れられるものなど
一切ないということか。
だからこそ“まずはできるところから”なのだろう。

自分の身は自分で守るのが鉄則だ。
無理のある状態は
不測の事態に対応できない脆さがある。
まさに「無理すればどうり(道理)で苦しい」
ということなのかもしれない。
そのためにも
自分の体の状態が今どうなっているのかを
知ろうとする意識感覚は
大事なのではないかなと思う。
それが紙一重の誘惑から身を守る
手だてにもなるのかな。

考えないということ

2005-06-17 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
昨日のブログで“うーん、歯がゆい…”なんて
ボヤいていたら、
さっそくアドバイスをいただきました。
その指摘はすこぶる簡単なことでした。

それは考えないこと。
そっか、そうですよねえ。言われてしまえば
そうなんだけれども、
考えること自体は自然なことともいえる
と思うんですよね。
ただし、これまで導引を通じて学習してきたことは
「自然な行為ほど意識でコントロールする必要がある」という、
いわば“無意識の意識化”ということ。
この法則に従えば、考える行為もあてはまることになります。
こうすることで俗にいう“腹八分目”
という節度があらゆる行為に働くことになるようです。

節制とは暴飲暴食や生活習慣の乱れを
戒めることとも違うようです。
生命力も含めてセーブモードに保つこと、
余裕を持つことのようです。
疲れる前に休息する。余力を残すことです。
精も根も使い果たしてしまったら明日はありません。
それは最期を迎えるときだけでいいと思います。

考えるべきことと考えなくてもいいことは
確かにあると思います。
考えることがないと無理やり考え事を見つけてくる
みたいなところもあるのかもしれません。
何でそんなにしてまで考えていたいのでしょうか。
ひょっとして何もしないでいることが
怖いのかも?

見直し

2005-06-16 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
このところ精神的に
ちょっと不安定になっている。
何事にも集中がやや足りないことに
自分でも気がついている。

昨年来より徐々に仕事や家庭などの環境変化で
練習時間が思うように取れなくなってきていること。
その一方で自覚症状をともなう
弱点を体に抱えたことや
導引練習による
基礎体力増進にともなう運動量不足
(保健という面から見た場合)。
環境と休養と運動とのバランスが
うまくとれていない。
何とかしたいと思っているけど
何ともいたしがたしの状態がずっと続いている。
そんな影響が心にも及んでいるのかも。

練習を今一度見直す時期なのかなと思っている。
諸事情から定時かつ定期的な練習を確保するのが
難しくなったことは仕方のないことなので、
あとは内容や質を見直す
ということなのかもしれない。
正直な話、今ものすごく練習したくてしかたがない。
何というか練習に飢えてる?
(まさかとは思うのだけれど)という感じ。
それも教室のような場ではなくて
ひとりで黙々と…といった感じ。
もしかすると、コレがあの陳沛山さんが話されていた
自分の時間と空間を持つという欲求なのかも。

集中ができなくなっているほど
気が衰えていると感じている。
だから教室では
いまひとつ集中もできず体も動きが悪い。
自身に集中できないでいるから。
こういう練習は無駄なのかなと思う。
それでも自覚に基づいて
調整につとめはするのだけれど、
練習が終わる頃になって
ようやくといった感じかなあ。

太極導引は健康目的のための運動だけれど、
“健康=気持ちよい”という観点からすれば、
最近はペケ続きだ。
不快ではないが快適というわけでもない。
体の状態は練習前よりも改善されているのだけれど、
心の部分ではまだ残る。
自身に対する不満みたいな気もしている。
焦るとか過度の期待とかは全くないのだけれど、
何だか歯がゆい。
何だか自分がわからないんだなあ…と、
そんなこと言っているヒマがあれば
体を動かせっていうことなんだろうねぇ。