『導気令和 引体令柔』とは
導引という呼び名の語源となった文言であり
当然ながら導引のめざすものも表現されています。
導気令和は「気を導いて和せしめる」
気を巡らせて和みの状態にすることです。
導気は道士の修養でもあり
具体的には吐納法を主とする静功により
精神を静めゆったりと落ち着かせて(調心)
呼吸をととのえ(調息)
気を巡らせ和みにすることのようです。
引体令柔は「体を引いて柔せしめる」
筋や肉を伸ばして関節をゆるめ
柔らかな状態にすることです。
引体の起源は「舞」と考えられています。
屈伸旋回動作をもって
体のすみずみまで動かして
強ばったり萎縮している筋肉に働きかけることで
全身を柔らかな状態にととのえます(調身)。
導気を静功とすれば、引体は動功ですね。
以上のように、
導引は導気の「導」と引体の「引」を
組み合わせた言葉ですから
その両方の性質(目的)をあわせもつことになります。
じつのところ太極拳は、
はじめからこの「導」と「引」の要素を満たしているのです。
そればかりか導引をさらに豊かなものにするような
繊細で多様な動きや姿勢(型)の他に
それらを可能にする考え方や意識の用い方などといった要素も
兼ね備えているのです。
こうしてみると、太極拳導引というのも
とくに珍しいというわけでもなさそうですね。
但し太極拳の技は格闘護身技であり武術です。
これは揺るぎないことです。
その上で導引要素に特化した太極拳鍛錬を行うのが
太極拳導引です。
これが今の私が理解している(と思っている)太極拳導引観です。
導引という呼び名の語源となった文言であり
当然ながら導引のめざすものも表現されています。
導気令和は「気を導いて和せしめる」
気を巡らせて和みの状態にすることです。
導気は道士の修養でもあり
具体的には吐納法を主とする静功により
精神を静めゆったりと落ち着かせて(調心)
呼吸をととのえ(調息)
気を巡らせ和みにすることのようです。
引体令柔は「体を引いて柔せしめる」
筋や肉を伸ばして関節をゆるめ
柔らかな状態にすることです。
引体の起源は「舞」と考えられています。
屈伸旋回動作をもって
体のすみずみまで動かして
強ばったり萎縮している筋肉に働きかけることで
全身を柔らかな状態にととのえます(調身)。
導気を静功とすれば、引体は動功ですね。
以上のように、
導引は導気の「導」と引体の「引」を
組み合わせた言葉ですから
その両方の性質(目的)をあわせもつことになります。
じつのところ太極拳は、
はじめからこの「導」と「引」の要素を満たしているのです。
そればかりか導引をさらに豊かなものにするような
繊細で多様な動きや姿勢(型)の他に
それらを可能にする考え方や意識の用い方などといった要素も
兼ね備えているのです。
こうしてみると、太極拳導引というのも
とくに珍しいというわけでもなさそうですね。
但し太極拳の技は格闘護身技であり武術です。
これは揺るぎないことです。
その上で導引要素に特化した太極拳鍛錬を行うのが
太極拳導引です。
これが今の私が理解している(と思っている)太極拳導引観です。
コメントいただきありがとうございました。
導気令和に含まれている「令和」と
現元号の「令和」との間に何か関連があるのかと思われたのでしょうか。
これを書いた当時は平成でしたから、何やら予言めいた感じ(?)に受け取られたのかもしれませんね。
「導気令和 引体令柔」の出どころを紹介しますと、
『荘子』刻意篇の中に
「導引(原文は道引と記されている)する者は…」
という一節があリまして、
この導引というのは何か?ということで
晋の李頤が解説したのがこの文言なのです。
ですから今回teteさんからご指摘いただいて、改めて確認してみてなるほどと思いました。
漢文の令和の書き下しは
和みとせしむ=和みとするということなので、
令和の世も和みの世に向かうといいですね。