教室の夏休み明けとなる練習では、
一路の護心拳までの套路を
ひとりずつ皆の前で行うことになった。
夏バテで調子を崩しほとんど動けなかっただけに
不安を感じるところだが、
なぜかこの日はそういういつもの思考回路はとらなかった。
自分の体調を気遣う仲間の
「調子はどう?」の言葉にも、
「うん、まだちょっとよくないね~」と淡々と答えていた。
いつもならば相手の気遣いに感謝しつつ心配をかけないようにと
「うん、なんとか」というようなニュアンスで
無難に答えていたりするのだが、
なぜだかその時は感じたまま口にしていたような気がする。
どうも何だかいつもと違う言動をしている自分。
これが伏線だったのかどうかはわからない。
いま思い返してみると、
とにかく周囲への気遣いはいつもより希薄な印象。
それでいて自分のことばかりに集中していたわけでもない。
何というかホントに意識的なことをしていなかった。
何も考えていなかった。
目の前で仲間が套路を演じているのをじっと見ていただけ。
いつもならば順番を待つ間に
頭の中で套路を確認したり自信のない動作を復習したりするのに、
そういうことも一切せず、ただ仲間の演じる姿を見ていた。
失敗しようが動作が止まろうが、
本人が動揺していようがいまいが、
目の前で展開されている光景をただ見つめていただけ。
ひとりひとりの個性を改めて感じたし、
まじめに真剣に取り組んでいるのがひしひしと伝わってきた。
だけど…どこかで窮屈そうな感じもした。
「窮屈そうな感じ」
これはいままで感じたことがなかったこと。
自分にとっては新しい視点かもしれない。
おそらくは自分も窮屈そうな感じでいるのかもしれない。
だからこそ他者の表演に投影していたのかも。
ノビノビすることを願ってきた自分。
いまようやくその入り口に立とうとしているのかもしれない。
窮屈な感じを意識し出したというのは、
実はすでに窮屈に感じない状態を
体験していたりするからではないのかな?
未知なるものではなくて既知なるもの。
だけど改めて意識し出したということなのかな。
自分にとって今回の大きな発見は、
順番待ちの間の心理状態の変化。
いままで自分が事前に套路の確認や復習をしていたのは、
できれば失敗したくない、正しくやりたいと
願う(欲する)心理が働いていたからだと改めて認識。
これが先生の言われる余計なことを考えるということなのだろう。
(ちなみに動作ごとの手足などの位置確認など
といった細かなチェックは個人練習で行い、
表演形式練習の場合では
動作の正確さよりも流れることを、
より主眼にした方がよいような気がして
個人的に実践してみているのだけど…)
こうしたさまざまな欲心が
知らず知らずのうちに(自然であるべき)
立ち位置にブレをもたらすのかも。
無はそれだけでは存在を示せない。
雑念や欲心といった余計なものがあるからこそ
空が生まれる。
自分の中に余計なものがあることに気づけたら、
次に見えてくるものがあるということなんだろうなぁ。
窮屈そうな感じというのも同じだと思う。
次が見えてくる…
一路の護心拳までの套路を
ひとりずつ皆の前で行うことになった。
夏バテで調子を崩しほとんど動けなかっただけに
不安を感じるところだが、
なぜかこの日はそういういつもの思考回路はとらなかった。
自分の体調を気遣う仲間の
「調子はどう?」の言葉にも、
「うん、まだちょっとよくないね~」と淡々と答えていた。
いつもならば相手の気遣いに感謝しつつ心配をかけないようにと
「うん、なんとか」というようなニュアンスで
無難に答えていたりするのだが、
なぜだかその時は感じたまま口にしていたような気がする。
どうも何だかいつもと違う言動をしている自分。
これが伏線だったのかどうかはわからない。
いま思い返してみると、
とにかく周囲への気遣いはいつもより希薄な印象。
それでいて自分のことばかりに集中していたわけでもない。
何というかホントに意識的なことをしていなかった。
何も考えていなかった。
目の前で仲間が套路を演じているのをじっと見ていただけ。
いつもならば順番を待つ間に
頭の中で套路を確認したり自信のない動作を復習したりするのに、
そういうことも一切せず、ただ仲間の演じる姿を見ていた。
失敗しようが動作が止まろうが、
本人が動揺していようがいまいが、
目の前で展開されている光景をただ見つめていただけ。
ひとりひとりの個性を改めて感じたし、
まじめに真剣に取り組んでいるのがひしひしと伝わってきた。
だけど…どこかで窮屈そうな感じもした。
「窮屈そうな感じ」
これはいままで感じたことがなかったこと。
自分にとっては新しい視点かもしれない。
おそらくは自分も窮屈そうな感じでいるのかもしれない。
だからこそ他者の表演に投影していたのかも。
ノビノビすることを願ってきた自分。
いまようやくその入り口に立とうとしているのかもしれない。
窮屈な感じを意識し出したというのは、
実はすでに窮屈に感じない状態を
体験していたりするからではないのかな?
未知なるものではなくて既知なるもの。
だけど改めて意識し出したということなのかな。
自分にとって今回の大きな発見は、
順番待ちの間の心理状態の変化。
いままで自分が事前に套路の確認や復習をしていたのは、
できれば失敗したくない、正しくやりたいと
願う(欲する)心理が働いていたからだと改めて認識。
これが先生の言われる余計なことを考えるということなのだろう。
(ちなみに動作ごとの手足などの位置確認など
といった細かなチェックは個人練習で行い、
表演形式練習の場合では
動作の正確さよりも流れることを、
より主眼にした方がよいような気がして
個人的に実践してみているのだけど…)
こうしたさまざまな欲心が
知らず知らずのうちに(自然であるべき)
立ち位置にブレをもたらすのかも。
無はそれだけでは存在を示せない。
雑念や欲心といった余計なものがあるからこそ
空が生まれる。
自分の中に余計なものがあることに気づけたら、
次に見えてくるものがあるということなんだろうなぁ。
窮屈そうな感じというのも同じだと思う。
次が見えてくる…