松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

個人利用者に冷たくないですか?

2006-12-23 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
神経痛もちには冬場の野外練習がつらくなってきます。
そこで利用するのが公共施設。
ところが最近、個人利用枠が狭まっているような感じがします。

どうもバラツキのある個人利用者枠を確保するよりも
団体登録制を拡大することで
 施設運用が管理しやすい=常時利用されている状態をつくる
  =使用状況の効率化(利益増?)をはかっているらしいのです。
さらに施設の運営自体を第三セクターに委託するなど、
個人利用者には肩身の狭い状態になってきた?

近所の公園では剣などの練習はできません。
警察に通報されます(笑)。
朝方に練習すれば不審者としてまた通報…。
笑い話みたいですが、ほんとにあるんです。
近場の区立体育館は個人利用日が教室の練習日と重なっていて
時間帯の調整がつかず、ほとんど利用する機会が無い状態。
なんだかな~(^^;)。
手頃な練習場として利用していた広場が突然造成されて
住宅地になってしまったり、練習場探しも骨が折れます。
うーん、やはり自主学習会でも結成して
仲間を募ることになるのかなあ…。


枠をつくらない

2006-12-22 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
このところ先生からしきりに言われているのがこれ。
“ああ、また言われてしまった”と
思わない日はないくらい、練習の度に言われている。
言い換えれば、懲りもせずに枠を作ろうとし続ける
頑固な自分がいるわけで…クー(涙

枠は限定であり、限界を意味する。
自分で自分に限界をつくってしまう。
心理的にも物理的にも
枠組みに組するのは安定を意味する一方で、
それ以上の展開はなくなることをさすのかもしれない。
たしかに心理的安定は緊張を解き放つ。
しかし枠に組する事は、外側(形や型)からの安定であって
内側からの安定ではないような気もする。
たとえば鋳型でつくられたレプリカのようなものかな。
そういう手近な安定を求めていてはいけない
ということだろうなと思っている。

要求が徐々に深くなってきているような気がするなあ。
自分では見えていない、気づいていない枠があることに
まずは気づくことからだなと思う。
もしかしたら形や型に限らず
生き方や考え方だって一つの枠なのかもしれないし。
ひとつの型におさまらないことが
変化し続けようとする意識につながるのかも。
ひとところに留まらないこと、ひいては自在であるということ?

うー、そう簡単にわかってたまるかって感じ(^^;
時間はあるんだから、ゆっくりゆっくりと…


今回は“のだめ”流?

2006-12-18 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
原作も好きだがドラマもハマっている『のだめカンタービレ』。
ドラマはすでに佳境を迎えている。
先週(第9話)では、ピアノ・コンクールに向けて特訓中の
のだめから届いたメールに、千秋が返したメールは
「シューベルトは本当に気難しい人なのか?
自分の話ばかりしてないで、相手の話もちゃんと聴け!
楽譜と正面から向き合えよ」
というような内容だった(と思うのだけれど)。
彼女は譜面を一音ずつ丹念にチェックしていき
やがてそこから作品のイメージが見えてきた彼女は
更に弾き込んでいく…

今月から交流会に向けた練習が始まり、
個人表演に関しては動きのチェックを行っているところ。
ちょうど譜面と向き合っているのと同じ状態かもしれない。
自分は正面から向き合っているだろうか。

動きながら、中正は保てているか、胸は緩んでいるか。
腰が緊張してきているようだけど…と、
体のあちこちとコンタクトしながらの状態は
どうものだめよりはむしろ千秋なのかな?
個人表演はソリストなんだけれど、
気持ち的にはオケを指揮するスタンスに近いのかも?

仮にそういう視点からみれば、
最近のオケ(心身)の状態は萎縮傾向にあるのかもしれない。
先生から指摘されたことを整理してみると、
オケ(のメンバー)に与えている指示が
“○○したらいけない”的な発想を
かれらに押しつけてしまっているということらしい。
もしも「○○しない」と「もっと△△する」というのが
結果的に同じ状態へと導く指示だとしたら、
○○しないようにすることは
抑制、抑圧といった
どこか対抗が存在するイメージがあるような気がする。
反対に、もっと△△しようとすることは
拡大、拡張といった
開放的イメージに繋がっていくようにも思えてくる。

いままでの自分は
抑制、抑圧系統のルートに偏りがちだったような気がする。
そこで開放(広い意味での許容?)という
新ルートを開拓しているところ。
先生が示してくださった一例は
おそらく意識の向かうべき方向を転換させるのが目的だろうなぁ。
今まで見えてこなかった
新しい方向が見えてくることが大事なのかな。

姿勢と放松

2006-12-03 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
正しい姿勢は放松へ導いてくれるような気がする。
なぜなら正しい姿勢とは理にかなった姿勢のことだと思うから。

正しい姿勢とは
基本要求を満たした姿勢ということで、
見た目は体型と同じく
個人差が若干みられるのは当たり前だし、
同じ一人の人でも年齢を重ねるごとに
印象が変わってくるのも自然。
つまり外見はいかように変わろうとも
中身、要求を満たした姿勢を求め続けようと
心がけることであろうと思う。
姿勢と心構えはどこか通じるものがあると思うなぁ。

姿勢に対する意識の仕方が変わって来たようだ。
これまでのやり方だと
理を考慮したやり方とはいえなかったような感じ。
作用反作用の原理や遠心力なども
理論としては頭で理解したつもりではいても、
実際にそれを体感できているかといえば…よくわからない。

自分の状態を調整する場合のさじ加減は
この体感によることが多いような気がする。
この体感を感じ取るためには放松が欠かせないことも
体で感じ始めている。
だからこそ緊張感があれば手当り次第に放松を目指す
みたいなことになっていたのだが、
“ちょっと待て。正しい姿勢に集中してみることも
放松を手に入れることになるんじゃないのか?”

意識導引や呼吸導引のような
静功を考えればわかりやすいと思うが、
無理のある姿勢では
じっとして集中することが難しいのがよくわかる。
静功と動功という功法の違いはあるが、
姿勢に関しては同じことではないかと思う。

間違いのない動きの前に
正しい姿勢を維持する意識を優先する。
というか、先ずは正しい姿勢の維持があって
次に動作がくるということ。
これは姿勢の高さだけに限らず、
歩の出し方や体のひねり方にもあてはまる。
つまり無理をせずできる範囲で行うとは
単に手加減するということではなくて
実際に具体的なやり方や考え方があるということかと。
目標を達成するために
自分に適したやりくりの仕方を考えるということだ。

たとえば一般的な手順で実現が難しければ、
ひと工程を省く簡略ルートをとる方法もあるし、
逆にひと工程加えることで補える場合もある。
こうしたやり方を
間違った動作要領と指摘される可能性も
あるのかもしれないが、
今現在の自分の体の状態に適した
正しい姿勢の維持のために行っているという
明確な意識があれば、
他人がどう思おうと関係ないと言えるのかもしれない。
やや乱暴で過激な表現かも?とは思うけれど(笑

要はその人にとって
無理のない状態で体を動かし切る、
最適の運動が行えることが気血の巡りを促進させ
調整することになるという実を取る。
太極導引ではそういう考え方も
許されるような気もしたりするのだが、
邪道になるのかなあ。

無理をしないとは
怠けることでも甘やかすことでもない。
淡々と連綿と継続させるための
やりくりを考えることではないかと
思い始めているこの頃。