松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

四十肩、五十肩の兆し

2006-08-27 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
更年期とおぼしき変調はいくつかありますが、
最近になって出てきた違和感は肩です。
とはいえ、まだ気配みたいな
ごく弱い症状がちらちらしている段階です。
痛みといっても軽いし、
腕が上がらない、回せないといった障害は
まだ出ていません。

整形外科的に考えれば、
四十肩・五十肩は
おそらく炎症を起こしている部分を
安静にするようにと
指導する場合が多いのでしょうが、
中医的な考え方では
少しずつでもとにかく患部を動かすことを
すすめるようです。
もちろん状態を見ながらの話ですが。
それにしても同じ病状を前にして
この違いはおもしろいなぁと思います。


太極導引を始めてから
理論的な部分で繰り返し耳にしているのは、
常にとどまらず、流れている、動いていることが
基本であり原則という考え方です。
練習でも体を動かすことはもちろんですが、
動作的にはじっとしていても
内面の意識を絶えず動かすなど、
どこかで必ず何かが動いている状態、
流れている状態を
意識的に働きかけたり
感じるような練習をしています。

考えてみれば、
寝ても覚めても心臓は鼓動し続け
それによって血流やリンパ液などが
全身を流れているのですから、
ひとときも休まず動いていることには
違いありません。
これは自然なことであり、
この流れが体に働きかけているのが
いわゆる新陳代謝ということになるらしいです。

さて、私の右肩の場合ですが、
診断では上腕二頭筋の腱の肩側の部分に
軽い炎症が起こっているそうで、
ここは症状の出やすい部位でもあるそうです。
原因はホルモンの変調によって
体内で免疫機能が混乱をきたしてしまい
免疫機能(抗体)が過剰に働いているために
痛みの現象が出ているのだそうです。

ちなみに、これとは反対に
免疫機能が低下した状態になると、
風邪をひきやすくなったり
風邪のような症状が
長引いたりするらしいです。

当然のことながら
新陳代謝にもその影響は出てくるわけでして。
何となく全身的な不調感があったり
違和感を感じる部位や症状が
日替わりで変動するのも頷けます。

こうした状態を厄介なことだなぁ
と感じてしまうのも
当然のことかもしれませんが、
意識でコントロールする術を
学んでいるのですから、
ここはもう少し別の視点をもって
症状ともつきあってみようかと思ってみています。

ま、今のところは状態が穏やかですので
余裕のあり…というところですね。

更年期宣言

2006-08-24 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
やっぱりこれは更年期だと思います。
このところの一連の何かいつもと違う感じとか、
体のあちこちに感じる違和感。
痛みだったり痺れに似た感じだったり
腫れぼったいような感じだったり。
毎日感じ方も感じる場所も違うし…

これまでには感じたことのない未知との遭遇ですね。
これから障害に発展するのかどうかは
まったくわかりませんけれど、
とりあえず、来たな~って感じです。
よってここに更年期宣言をしてみることにします。

柳に風…力の質に合わせた用い方があるのかも

2006-08-18 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
専科ではからだの中心から動く意識をもって
動作するように指導されている。
「松軽円活」にいたるひとつの過程だと思う。

軽さ、柔らかさ、しなやかさのイメージとして
たとえたのが柳の枝。
いちばん連想しやすいのは手の動きかと思うが、
おそらく動き全体のイメージだろうと思っている。
柳の枝を拾ってきてはいじったりしていた。
実物の枝の感触は
頭に浮かべていたイメージとは少し違った。
拾ってきた枝の質にもよるかもしれないけれど、
枝もとは思ったよりも硬くて強く、
枝先はもっと柔らかかった。

柳の枝が風に揺れる様子を見ていると、
風になびく感じは吹き流しにも通じるものがあり、
先端のハネ方に目が行く。
それは波のうねりが最後に大きく割れて
砕けるのにも似て
エネルギーの拡張、発散のようなものを感じる。
しかしまた同時に柳の枝には
元のあるべき姿に戻ろうとする
復元力のようなものもあるように見える。
幹や根に支えられているからこそ
枝は変幻自在の風を受け流すことができる。
そこには重力の影響もあるけれど、
復元力のようなものの存在を否定するのは
難しいのではないかと思う。
なぜならば折れてしまった枝の場合、
風に揺れたり元の位置に戻ったりもするにはするけれど、
その動きに弾力性やしなやかさを感じることはないように思う。

からだの中心から動くというのは
たぶん自然な生命体活動の表現でもあるのだろう。
現段階の練習は「不用力」の一環として柳の枝に例えて、
四肢を動かすのは
からだの中心がまず動き出してから
四肢への動きが生まれてくる感覚を課題としているのだろう。
どうやら力には質の違いがあり、
それに合わせた用い方があるのかもしれない。

放松は技(わざ)のようなもの?

2006-08-07 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
放松は難しいと思う。
でも先生に言わせれば「簡単ですよ」となる。
しかもニッコリ笑顔つきで…。そういうものなのかなぁ。

放松のイメージは拡張のイメージでもあると
理論講座では習った。
最近わかってきたことは、拡張するためには
表層が柔軟に広がるイメージを持つこと。
力を抜くときは表層に近い部分を
より意識するように変えてみたりしている。
骨を支えるのは深層筋の仕事。
つい力が入ってしまうような部分は
ほとんどが表層筋だ。
深層筋はイメージもしにくいし
コントロールは難しいので、
たいていの運動は
表層筋に頼って動いてしまっているものらしい。

なるほどね。筋肉もバランス良く使おうということなのかな。
おそらく深層筋がイメージしにくいのも、
部位的な理由ばかりではなく
表層に近い筋肉に頼り過ぎている体使いにも原因ありかも。
この状態からの放松でもあるのかもしれない。
そういえば、ゆるめるときには筋肉だけではなくて
関節もポイントになるみたい。
関節を意識するようになってからの方が
状態がよくなった気がする。

放松は意識によるコントロールが生み出すもの。
意識の働かせ方は
技能(わざ)と同じようなものかもしれない
という気がしてきている。
これがもし技能であるとするならば、
修練すれば誰でも習得可能ではあるということなのかな。
特別な素質や才能はいらない。
しかも技能訓練は
段階を経ながら習得することを目的としている。
やればできる、やらなければできない。
簡単という言葉の背景には
まだまだいろいろな意味がありそう。

見直すことの功罪

2006-08-01 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
このところの不調で
いろいろと見直す機会が多いのですが、
この見直すという行為、
実は意外な落とし穴でもあるような気がします。

見直しというとのは見て直すことですから、
事前チェックとでもいうような意味あいなのかも
しれません。
ところが日常的には反省する際に行うもの
という感覚の方が強そうな気もします。
これは個人的な印象なのかもしれませんが、
いわゆる反省と同義的な扱いになっているのかもしれません。

反省や見直しというのは
ダメ出し感覚に陥りやすい気もしています。
そうすると過去に気持ちを残してしまう、
留めてしまう可能性もあります。
それが“次回は失敗しないように(うまく)やろう、やりたい”
という気持ちを生むこともあるような気がするのです。

反省は気持ちの整理法のひとつだと思うのです。
波立ち揺らいでいる状態を
静めるような効果を狙っているのではないかと。
もしかしたら反省をいかせるかどうかは
それほど気にしなくてもいいのかもしれません。
気持ちの切り替えができればいい。
そうして当面の問題に対する解決策や次善策を考えたり、
刻々と変わっていく状況に取り組むことの方が
前向きであり、主体的な行為なのかもしれません。

見直すことに力を入れ過ぎれば
今度は失敗できないというような不要なプレッシャーも
感じてしまうこともあるでしょうし、
前へ向かっていこうとする力も弱くなりそうです。
生き物である以上は生きている瞬間を
いつも新しい気持ちで迎えるくらいの意識で
ちょうどいいのかもしれませんね。

ついつい見直したくなるときは、
どこかで気持ちを切り替えたいだけなのかもしれません。
そのくらいのスタンスでも良かったりするのかもしれないと
思い始めたこの頃です。