父の一周忌法要を執り行ったのですが
お寺さんの都合もあって
祥月命日の二日後の3月11日となりました。
3月は、父の命日、母方の祖母の命日、
東京大空襲、東日本大震災の追悼と、
いつも以上に生死(しょうじ)を思う
ひと月になっています。
父の一周忌法要の際も導師さまから
お話をしていただきました。
亡くなるということには
物質的な死と精神的な死があるのだそうです。
一度目の死は生命活動を終えること。
そして二度目の死とは
故人の思い出が忘れられてしまったとき。
お話を聞いた後で自身を振り返ってみました。
私の場合は両親を亡くした今の方が
ずっと身近に感じているような気がします。
それはたぶん私にとって都合の好い両親像を
思い描いているからではないのかなと。
だから生前にはなかなか口にできなかった
感謝や謝罪のことばも
今なら素直に言えたりするわけです。
それでも、もう二度と喜んだり笑ったり
叱ってくれたりすることもないんだなぁと。
それはそれで寂しく思ったりするんです。
ほんと、好き勝手なもんです。
いつも心のどこかで
母だったらどうするだろうか
父はどう考えるだろうか
と、思い巡らせているところがあります。
だからもうしばらくは
心の中で生き続けてもらわないと困るんです。
お寺さんの都合もあって
祥月命日の二日後の3月11日となりました。
3月は、父の命日、母方の祖母の命日、
東京大空襲、東日本大震災の追悼と、
いつも以上に生死(しょうじ)を思う
ひと月になっています。
父の一周忌法要の際も導師さまから
お話をしていただきました。
亡くなるということには
物質的な死と精神的な死があるのだそうです。
一度目の死は生命活動を終えること。
そして二度目の死とは
故人の思い出が忘れられてしまったとき。
お話を聞いた後で自身を振り返ってみました。
私の場合は両親を亡くした今の方が
ずっと身近に感じているような気がします。
それはたぶん私にとって都合の好い両親像を
思い描いているからではないのかなと。
だから生前にはなかなか口にできなかった
感謝や謝罪のことばも
今なら素直に言えたりするわけです。
それでも、もう二度と喜んだり笑ったり
叱ってくれたりすることもないんだなぁと。
それはそれで寂しく思ったりするんです。
ほんと、好き勝手なもんです。
いつも心のどこかで
母だったらどうするだろうか
父はどう考えるだろうか
と、思い巡らせているところがあります。
だからもうしばらくは
心の中で生き続けてもらわないと困るんです。