松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

練習メモ - 評価はいらない -

2015-01-27 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
前回の練習メモ(集体練習03)で触れた
動きの分割についての補足です。


動きの分割とは
アニメーションを何枚ものセル画に
分割して描くようにして
動きをコマ割りで体感してみることを
個人的にそのように呼んだもの。

例えばA地点からB地点への
動作の移ろいをコマ割りで描くとする。
移動時間は同じという条件で
コマ割り数が4つの場合と8つの場合とでは
どんな違いがあるのか。
コマ割りに描いたものを重ねて
パラパラとめくると
動いているように見える。
つまり同じ動作で同じ時間で動き終わる条件で
4コマと8コマのものがあるということ。

目につく違いは滑らかさの違いかな。

仮に一周する円運動を描いたとする。
これを4枚に分けて描くと
円周に4つの点ができる。
この点を結べば四角形になる。
同様にして8枚に分けて描く場合は
八角形になる。
どっちがより円に近く見えるか。
滑らかさとは
そういうことなんじゃないかなと思う。

たしかに滑らかな動きは美しくみえる。
円や球体には安定や調和も感じるだろう。

太極拳導引で求める協調性の象徴は
形すらない融合にみる調和だと思っている。
粗-滑、遅-速、硬-軟などは象であって
比較したりして優劣を問う必要はない。

各象にはそれぞれの象にかなった調和がある。
その調和を求めることが目指すべき方向だ。
一回の動きにその時にしかない調和を求める。
体勢と動きのバランス、
動きと速度のバランス、
心と体と動きのバランス…。

粗い象につりあうバランスがととのっていれば
滑らかさに匹敵するような美しさや安定が
備わっていると思う。
各自があわてず落ち着いて
それぞれのバランスでととのえていく。
たぶんわれわれが集体で目指す調和は
そういうことなんじゃないのかな。


前回の内容ではなんだか
粗い動きは良くないみたいな印象だけを
残して終わってるように感じたので
追記してみたしだい。


練習メモ(集体練習03)

2015-01-25 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
集体練習(孫式38式)は全体練習の前段階
個々で動作の確認をしている。

仲間の練習をみていると面白くなる。
一様にそれぞれの“らしさ”が
にじみ出ているから。
だからアドバイスを求められたときには
その人らしさに則った伝え方が
できることが理想なんだとは思うのだが
自分の体でつかんだものを
相手に伝わりやすい表現に変換するのは
なかなかうまくいかない。
自分の流儀で説明することで
精一杯の段階なのだろう。
相手には申し訳ないなと思う。

後になって、ふと気づいたことがあった。
彼の動きがどうも粗くみえるような気がする。
彼の動き方は速くない。
せっかちな一面を持ちながらも
むしろ動作をできるだけ分解して
一つずつ丁寧に理解しようとしている。
動きに多少の硬さがみえるのは
早く理解したい思いが強いからで、
一過性のものだから早晩解消されるもの。
私のような緊張しいタイプとは質が違う。

ここでいう粗さのイメージとは
たとえばパラパラ漫画で表現する
動きの分割画の多少のようなもの、
アニメーションでいえば
何枚分のセルに分割して描き分けているか
というようなもの。
つまり彼の動きのイメージが
何枚分のセル画で構成されてるのか
という目安を私が把握しておらず、
彼の動きに自分のセル画を重ねていたのではないか
と思い当たったわけけ。

だから流れがしっくりこないと感じている
彼の感覚は、その意味で間違ってない。
彼のセル画数と私のとは違うからだ。
彼は彼のセル画数の動き方をすれば
よいのではないか。


練習メモ(集体練習02)

2015-01-22 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
今年の集体演目は孫式太極拳(38式)。

個人で練習するときは
正しい(落ち着き安定した)動きの確認を
メインで行う。
できる範囲でゆっくりと動き
協調状態を細かくチェックしていく。
意識は隅々まで自在に移動できるか
状況に応じて意識配分ができているか
いつでも修正に対応できる
準備(余裕・落ち着き)が保たれているか
その他諸々のチェックする。


実際の表演では制限時間や楽曲など
さまざまな条件がつきもの。
今回は通常練習よりも
速めに動くことになるので
正しい動きの確認は
さらに入念にと思ってはいるのだが。
このままではマズイぞと気づく頃には
既に修正もままならない状態だったりで
先を見越す力が足りない。
まだまだ磨きをかける必要がある。

いくらそれらしく取り繕ったつもりでいても
内なる制御が稚拙であれば
内外の調和はいつ破綻してもおかしくない。
つまり砂上の楼閣よろしく
不安定な状態に変わりはないわけで。
それを自身の体を通して
読み取れるようになっているのだから
それはそれで向上といえるのかな?
いや、向上というよりは
むしろ確認できたってことかもしれないな。




油切れ

2015-01-21 | からだの風景-みる・さわる・かんじる-
私が整体を学んだてあて整体スクールにて
リピート受講していたときのことです。

授業のはじめは整体師の手をつくる
触診からスタートします。
じつはこの触診も
その内容というか“みかた”が日々更新されていて
たまに参加すると戸惑ったりします。
じつは最近になって
またひとつ手順が増えていました。


触診は、その人の体の状態がどうなっているのか
手で触れて判断します。
ですから練習では、その人の状態を知る手がかりを
伝えてくれる手をつくること、
そしてどうなっているかを
自分で判断できるようになるために
毎回お互いの体を触診しながら
どういう状態になっているか伝え合っています。

最終的には触診も施術も
自分ひとりで施するものなのですから
練習の時からひとりで決めていくことが
理にかなった実践練習となります。
見立ての正否はいわば二の次で、
まずは自分が決める。


で、先日の触診練習のときのことです。
先生を触診させていただいたときに
腰が痛いと話されていたので
先生の痛みの感じ(印象)を探りながら
雑談していた流れのなかで
ふいに出てきたのが「油切れ」です。

要するに油が切れちゃったような感じ

ああ、わかる、わかります、その感じ!
先生の感じている感覚を自分の感覚として
つかめたように思った瞬間です。
共鳴したというか共感できた感じがしました。

そういえば油切れなんて
久しく聞いてなかったような…
とっくに廃れちゃった言い回しかもしれない。
かろうじて思い浮かぶのは
充電切れくらい?

でも、油切れと充電切れとでは
ちょっと違うように思うんですよね。
充電切れは蓄電ゼロですから
まったく動かなくなっちゃいますが、
油切れというのは
まったく動かないわけではないのです。
だましだましなら使えるような状態。
つまり、ここでいう油切れの油というのは
燃料油ではなくて潤滑油なのです。
動きがよくない状態を例えた表現です。
動きにくくなってきた道具や機器類に
機械油を差して動きを改善した経験がないと
ちょっとわからないかも…

というような話でした。

練習メモ(集体練習01)

2015-01-18 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
今回の集体演目である孫式太極拳は38式。
伝統孫式太極拳套路の
いわば簡易套路に相当するものかなと。


専科クラスで繰り返してきた
練習課題の理解度を確認するには
今回の孫式は格好だったかも。

孫式のコンパクトな動きには
改めて洗練さが要求されるなあと実感。
できる限り無駄を削ぎ落とそうとするので
動きの本質を探ることにもなる。

たとえば重心移動が明解にならなかったとき。
このままでは動けなくなると感じたら
次に何をするか。
これまでは動きを止めるくらいなら
強引でも何でもとにかく動いてしまえと
やっていた。
止まらずに動いたという結果を優先した。
動きの質は二の次としたわけだ。

いまはそれを極力避けたいと思う気持ちが
強くなっているので、
その苦しまぎれの試行の様相、たとえば
察知する感覚のタイミングや試行内容の種類、
気持ち的な粘りなどが
少し違ってきてるように(自分では)感じている。

結果的には相も変わらず
強引な動きになってしまうこともあるのだけれど、
その内容に進展がみえるというか。
試行やもがく場数が次のチャレンジへと
つながっていくような感触。
悪くはないような感じ

気分転換に

2015-01-14 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
久々にブログデザインを変更してみました。

太極拳導引の練習でも
整体の手技練習でも
近頃なんとなく感じているのが
内から外へと向う流れ。

開放、拡張というような
意識の流れを
より強く感じているようです。

内へ内へと意識を向けていた時期が
長らく続いていたこともあり、
ここへきて何となくですが
方向を転じたがっているような気配を
無性に感じ始めています。

極まったのかな。



今回のテンプレート、
タイトルフォトのアングルにひかれて
とりあえず変えてみようと。

空間の広がりと明るさに
ひかれたのかな
光りと風と水(海)も好いなあ

もしかしたら
このところの息苦しさは
サインだったのかも。

余裕なさすぎだし。
次から次へと決断を迫られ
切羽つまった事態の連続だったし。
そういうのは自分にとっては
意に背く不本意な行動で
我慢ばかり強いてきたわけで。

うんざりな日々を過ごしてた

解き放たれたいんだな
伸び伸びさせてほしいんだよな


そういえば
ひとりで練習していても
いましていることに
集中できないでいたっけなあ

練習会では他の一切を
忘れていられる時間が持てるのだけれど
個人練習だと抑圧に負けてしまう。
どうせ自分が背負うのだからと
本来求めるべき方向とは異なった方に
意志を向けたがために
残念な練習となってしまったのだと反省。


もしこのフォトが
冬の日本海だったら選ばなかったと思う。
いま現在の(自分自身の)憧れ、
無い物ねだり的な要素を含んだ象徴なのかも。
たとえフォトであったとしても
日常的に眺めていればそれなりの効果も
期待できるかもしれないし。

ということで、
まずはイメージチャンネルを変えてみたしだい

2015年・練習会はじめ

2015-01-12 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
10日は年明け最初の練習会でした。
これから2月までは
渋谷大会に向けた練習が中心となります。

今年の渋谷大会は
個人部門の出場を見送り
集体だけ参加することにしました。
諸般の事情もさることながら
加齢にともなう心身の変換期も重なって
これまで感じてきた不調感とは
ちょっと違う未知なる領域に
踏み込んでいくような感じ。
ちょっとしたことであっても
不安感が顔を覗かせます。

その時々にできることを行うために
今現在の自分の状態を知ること、
わかっていること。
いままでの状態を基準にして
評価判断をしない。
過去を捨てる。
足るを知る。
向上の質、興味の持ち方の洗練化。
できることならば
内外の変容に柔軟に応じられるような
心身の状態を保てたらいいなと。


さて、練習会初め。
専科中心の演目は孫式太極拳。
初回ということで
套路を一通り流して
大まかなペース配分と
動作チェックで終わりました。

いやあ、久々の孫式太極拳。
昨年練習してきた課題のチェックには
格好の題材となったようです。

動きのペースが速めなのも影響してか
未熟さが出るわ出るわの大放出。
意識不足、動きの制御不足。
ある意味清々しいくらい。
楽しみです。
さらには師からの指摘も
初回から細かな所にまで及び
再確認すること多し。
これは楽しい練習になりそう。


練習メモ(方向07)

2015-01-08 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
導引的にアプローチする太極拳鍛錬の場合は
意識の流れに集中している心身の状態を
感じる(観察?)ことから始まる。

ちなみに基礎科で行っている意識導引は
この準備練習に相当する(と理解している)。
特定の部位に意識を集中させ、
さらに別の部位へと
次々に意識を移動させていくことで
意志で意識を制御することを覚る。
要は用意不用力の基礎練習。
基礎科で練習している動作の型(形)は
いわば型で成形したような
フォルム主体の規格品のようなもので、
このフォルムに息吹を吹き込み
活き活きとしたスタイルへと進化させるのが
専科の課題となる用意不用力なのかも。


内への意識を高める練習を
積み重ねていくうちに
外へ向かう意識も流れているのが
わかってきたわけだが、
それは意識の流れの循環性みたいなものを
連想させた。
意識を一点に留ませること
一点集中が課題クリアではないんだなと。
さらに次があるのだよと。
意志が意識を制御できている状態、
全身に意識を巡らせながらも
気が散らないようにコントロールできてる段階。

運動は移動であり変動なのだから
意識もまた集合分散を繰り返し
停滞することなく動いている。
意識の流れは双方向。
方と向との整合性を保つために
たえず流動的かつ柔軟に調整されている。
方が定まっていない動きは
無秩序な氾濫状態に似ていて
整然とした流れにはならないだろう。
結局、方を定めるには
中心は欠かせないし
向もまた方と中心あってのもの。

そうしてまたいつものように
はじめに戻ってくる



2014年から2015年へ

2015-01-03 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
恭賀新禧

皆様のご健康とご多幸を
お祈り申し上げます


 *  *  *  *  *

ここ数年前から
あまり区切りを意識しなくなってきました。
いのちが有限であることだけで
十分じゃないのかなと
思うようになってきたのかな。
質はともあれ振り返るだけの過去の蓄積も
そこそこにはなってきたし
限りあるものへの眼差しが
少しずつ変わってきているような…。
頭でわかってたことが
身体感覚で感じられるように
なってきたのも影響してるかと思います。


夢の見方(計画の仕方)も
変わってきたように思います。
成功させようと思うのではなく
失敗しない夢の見方を探っている
とでもいうのでしょうか。
夢を実現させるには諦めないことです。
諦めずに何とか続けて行けるような
考え方、やり方を見つけ出すことが
失敗しないことに繋がるように思えます。
もしかしたら
成功は継続の成果とも言えるのかな。
成果とは成りの果て、いのちが果てるときの
末期の象なのかもしれません。


夢(計画)と現実を
どの程度折り合わせれば
自分はスタートを切れるのだろうか。
そんな課題を抱えたまま
進展させることもできずにいます。
それはなぜか。

転機や節目となる局面であればあるほど
心は決まっているにもかかわらず
どうしてもあと一歩が出ない、
踏み出すことができない状況を
何度もやらかしています。
しかも結果的には
とりあえず踏み出してみたケースがほとんどで
なんとも人騒がせな顛末。
自分を信用できないから
自らの決断を疑うことになるのです。
不調の要因でもあると睨んでます。
これがいちばんの弱みだと思っています。


じつは大晦日にホームから
父が高熱を出したとの連絡を受けて
急遽病院へ同行、
そのまま入院することとなりました。
現在、尿路感染症の治療を行っています。
点滴と抗生物質の投与で平熱に。
血圧も安定しています。
腎機能がうまくはたらいていないようです。
年明けから一通りの検査を行う予定で
退院は未定となっています。
今後は急変の連絡も頻繁になるだろうし
入退院を繰り返すのかも。


どこかで何となく分かってはいるのです。
父が存命なうちに一歩を踏み出すこと。
それができたとき
今までと違う景色が広がるのだろうなと。
父に寄り添わねばならないと
思いすぎてはいないか。
寄り添うこと以上に
父を安心させることがあるのではないか。