松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

孫式再開から1ヵ月

2006-03-28 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
孫式2期めが始まって1ヵ月。
今期のポイントが徐々に浸透してきた感じがする。
毎回意識しているのは松(ソン)の状態に近づくこと。

どうして「維持」ではなくて
「近づく」と表現しているかというと、
ソンの状態を守ろうとする(受け身になる)あまり、
どうも緊張してくることが多いから。
どうせ力んでしまうのならば、
逆に能動的なポジションで行く方が
自分のなかでは自然に思えたこともある。
やってみてダメだな、無理だなとわかれば、
また次の手を考えることにも少し慣れてきたような。

今期の練習でひじょうに参考になっているのは、
ついこないだまで練習してきた陳式。
体の使い方が変わってきているなあと感じることが多い。
もうちょっと(陳式を)やりたかったなぁ(笑

発力動作や纒絲について練習したことで、
例えば地面からの圧みたいなもの(反発?反作用の力?)を
感じるようになった。
これが管のイメージを、より強くしてくれている気がする。
孫式のコンパクトな動きの中で
体重移動を明確にする時には
この管のイメージが役立っているように感じる。
そのために姿勢の状態を意識しやすくなってきている
と感じている
(これは孫式に限らず楊式でも同じことがいえる)。

体重を移動させる、体重をかけるという動作は
今まで以上に微妙な感覚で調節していることにも
気づいてきた。
単純な移動はしてないぞという気づき。
動き方のヒントらしきものが少しずつわかってきたかも。
はたしてそれが正しいのかどうかも含めて、
これからの練習が楽しみになってきた。

体重移動に限らず、例えば「開合手」の動きにみる
手首と前腕部を意識することを覚えたことで、
さらに円の感覚に目覚めたような気がしている。
これも陳式の纒絲の仕組みで教わったことに
照らし合わせてみると
理にかなっているように思うのだが。
はたしてそれで正しいのかどうか、
こちらもこれからの練習でわかってくると思う。

とにもかくにも不要な力はどんどん捨てること。
そうしないとゆっくり動けないし、
ゆっくり動くことで学べることがあるのに、
そこへなかなか入っていけない。
これはたぶん目の前に宝ものがあるのに
気づけないでいるのと同じことなのだろう。
たとえ薄皮でもいいから
力みを少しずつ脱ぎ捨てていけたらと思う。

太極功夫扇を覚えて中国に行こう!?

2006-03-24 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
中国武術、ことに太極拳を練習している人だったら、
おそらくご存知と思う太極功夫扇。
ここ1、2年で交流会などでも目にする機会が
ぐっと増えてきました。
もともと北京オリンピックを支持する目的で
作られたそうなので、
アピール重視と思われる構成にも納得です。
そのため個人表演よりは集体(集団)で演ずる方が
見栄えや華やかさがいきてきます。
手持ちの映像資料がないので
アップできないのが残念ですが、
曲(中国功夫)、扇が一斉に開く音、
そして鮮やかな扇の紅い色とがマッチして、
実にカッコいいんです。
ついつい真似してみたくなってきます。

太極功夫扇を見たことは何度もあるのですが
実際に練習したことはありません。

数ある中国武術の中から
いくつかの型を組み合わせて作られた套路(とうろ)を
演じていくのですが、曲と動きを合わせるために
見た目はダンスっぽくみえるかもしれません。
曲調に緩急があること、
また一節ごとに一つの型を動くので、
一節ごとに扇を体の前後左右で開いたり
閉じたままで突き出したりといった
キメのポーズ(型)になります。
そのために動きが明瞭で
歯切れのいい印象になるようです。

おなじ扇を使うといっても
日本舞踊のような扇の使い方とは異なります。
功夫扇の場合は槍や棍(こん)、剣、刀といった
武器の扱い方に準じているそうです。

実は私たちの練習場となっているスタジオは
天井も低く、空間も狭いので
剣や刀、棒術などの器械類の練習は難しい環境です。
個人的には器械をやりたいのですが
環境が許してくれません。
そんなスタジオ環境でも可能な器械練習として、
この太極功夫扇が浮上してきたのです。
そこでまずは太極功夫扇の一日教室が企画されました。

現在、達磨キュアハウスで
太極功夫扇の一日教室(4/9 日曜日)の参加申込を
受け付けています。
会員に限らず、ひろく一般の方の申し込みを
受け付けています。(扇は貸し出しの用意があるそうです)


実は、チャンスがあれば北京オリンピックまでには
覚えたいなあと思っていました。
おそらく開会式などでも表演されるかもしれない太極功夫扇を
できれば現地で楽しめたらいいなと思っているからです。
功夫扇でオリンピックに自主的参加(気分を味わおう)
という野望(笑
現実には日本でTVを観るだけかもしれませんが、
それでもひと味違った楽しみ方ができるのではないかと
想像(妄想)しているんです。

功夫扇は中国でも広く人気があるらしいので、
訪中の際には公園や広場で一緒にやりませんか?なんてことも
あるかもしれないですもん。
さらには研修旅行が実現したりでもしたら、
もうそのときは♪扇を一本 さらしに巻いて~♪ですよね(笑
功夫扇も友好ネタになり得るかも?

北京オリンピックまであと2年、習うとしたら今!と思うなぁ

    
    *フラッシュ画像つき「中国功夫」の音源はこちらから↓
      http://www.bupt.edu.cn/news/jiayuan/content/j01/j01-5/zhggf.swf

 男の子にまで波及している!?

靴屋さんの呼吸

2006-03-22 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
導引仲間のpantayaさん。彼女は外反母趾なんだそうです。
しかも遺伝的な体質とのことらしいです。
彼女のブログのカテゴリーにも
外反母趾物語』というのがあって、
ボッシーの悲喜こもごもが綴られています。
実はこれ、私の一押しカテゴリーでもあります。

最近の話題は、ネットで出会った
セミオーダーメイドの靴屋さんにて
注文の多い彼女の足に
ピッタリフィットする靴を作るというもの。
現在、二度目の仮縫いを経て微調整の段階に。
いよいよ佳境を迎えております。

ところでこの靴屋さん、
なかなかの志をお持ちのようです。
オーダーメイドの靴屋さんは
もはや珍しい存在とは思えませんが、
この靴屋さんは彼女と彼女の足を
ほんとに慈しみながら
大切に扱ってくれてるのだなあというのが
手に取るように伝わってくるんです。
そこまでしてくれる靴屋さんをあなたはご存知ですか?

たぶんこの靴屋さんは彼女が望んでいることや
こまかな注文を聴く耳と心を持っているんだと思います。
これまで苦労してきた彼女と彼女の足に対して
愛情ある眼差しで接している姿が浮かんできます。
たぶんそれが靴屋さんの
顧客と顧客の足に対する姿勢なのでしょう。

顧客が満足する靴を作ることは
足にフィットする製品だけではなく、
顧客の胸の内にたまっているこれまでのつらい思いや
切実な思いをすべて吐き出させることで、
傷ついた心のケアも必要と考えているのではないかしらん。

これってかなり突飛な仮説かもしれないんですけども、
この靴屋さんの仮縫いの様子を読んでいて、
足と靴との相性の調整だけでなく
彼女の心の調整もしているのではないかと。
彼女すら気づいていないかもしれない
微細な感覚まで引き出させるような誘導をして、
すっかり空っぽになってしまうまで吐き出させてしまう。
そしてそのひとつひとつに丹念に応えていく。
共感がなければできることじゃないですよね。

何らかの問題や悩みを抱えているときは、
まず不安や悩み事の一切を吐き出し切ること。
これは導引的にいえば
調息に通ずるのかなと思います。
体は息を吐く時にゆるみやすいです。
これと同じことだと思うのです。
息を十分に吐き切れば、
とくに息を吸おうとしなくても
自然に空気は肺の中へと導かれていきます。
だから“呼”“吸”なんでしょうね。

さて、また靴屋さんの話に戻りますが、
注文者の要望をとにかく出させる。
さらに本人すら気づいていないことまで注文させる
テクを持っているのがプロなのかもしれません。
そこまでして出来上がった靴が
彼女にジャストフィットしないわけがないよねって
思ってしまうんでが、
これって期待し過ぎなのかなぁ…。

これってマンネリ?それとも…

2006-03-15 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
これほど練習不足と思われる状態が
続くことってなかったかも、
というくらいに練習ができていない。
長い間にはこういう時も
あるのかもしれないのだけれど、
やはり気になる。
調子がいまひとつなのもそのせいかなと、
ついつい考えてしまう。
しかしこれもまた七情に関わってくる。
何をするにしても
し過ぎても、しなさ過ぎてもよくない。
何事もほどほどに…なのだ。

実はこのところ、自分の中で
ちょっとした心境の変化が起きているらしい。
練習中に何かと迷うようになった。
いままでは覚えた套路を
次々に行うような練習をしてきたのだけれど、
最近はなぜか気乗りがしてこないというか…。
これって単に飽きたのだろうか。

太極導引は太極拳套路を利用して
体を動かすもので、
そこにはいくつかの要求があるのだけれども、
基本的には意識を働かせながら
心身の緊張を解いていく運動。
極論すれば套路や動作を
正確に行えるようになることよりは、
ソン(放松)の状態に必要となる
呼吸の状態や必要以上の力を用いずに
正しい姿勢を維持して動けるようになることが
求められているのかもしれない。

ところが最近の自分ときたら、
型や動きの方に
意識が傾いているような気がしてならない。
要は套路一本を練るだけの集中力もない
ということなのかもしれない。

ちょっと言い訳がましくなってしまうのだけれど、
このところ一つの型を練習していると
体のあちこちから感じるものがあるのだが、
それを感じるままにしておけず、
ついつい気になってしまう。
つまり感じるものは感じるままにする意識と
感じているものに向き合おうとする意識が
せめぎ合っているのを感じている
自分がいるような状況とでもいうのかな。

いったい自分は何をやっているのだろうかと
思ったりしているわけ。
こんな状態だと自分の技量では
もうどうにもならないから、
とにかく体を動かすことに専念した方が
いいのかとも思う。

教室での練習でも
この状態を引きずっていることがある。
体調も良くない上に
これでは心理的にもあまりよくないのは明白か。
バランスや協調状態を調整できずに
姿勢が崩れたり
虚実もはっきりとせず
中途半端になってしまうようなのだ。
実は、これらの状態も自分では感じ取れず、
先生から指摘されることも少なくない。

こんな状態だから
練習に対する満足感(のようなもの?)も少なく、
しっくりとこない。
これって導引的にはどうなのだろうか…。
何となく練習の仕方を見直す時期なのかな?
ときどき自分のやっているのは
導引なのだろうかと思うときがある。
思い違いをしていたり、
取り組み方を間違っていたりするのかな?

うれしい兆候かも

2006-03-09 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
このところ套路練習が思うようにできていない。
咳アレルギーが回復しきらぬうちに
花粉症も始まり、
仕方なく室内で単練を行うものの
練習不足ぎみの傾向は否めない。
なんとかしたいものだなあ。

太極導引を始めてから
花粉症の症状自体は軽くなっているのだが、
今回は秋から冬の間の養生が
うまくいかなかったんだと思う。
秋口からずっと原因不明の不調が続いていて、
そのうちに咳アレルギーが始まり
消耗していった感じ。
しかしそんな状態にありながらも
体は日々変化し続けている。
最近になって気がついた変化といえば、
緊張感の感じ方だろうか。

動きながら緊張感を意識することが
自然になってきたようだ。
いままではどちらかといえば
緊張しているかな、ここは大丈夫かなと、
いちいちチェックしていくような感じだった。
いわゆる確認作業のようなものかなあ。
それがこの頃は、緊張している部位の方から
知らせてくれているかのような感触に
変わってきているような気がする。

例えば自分が動きたいと思うように
体を動かしていくと、
どうしても思うように動いてくれなかったり、
何だか強ばっているなあと感じる部分などが
具体的な部位として伝わってくることがある。
それは首や首のつけ根、肩や肘、
手首や指の関節だったり、
腰、股関節だったり、背骨や胸だったりもする。
緊張の強い部分からその緊張を緩めていくと、
フッと動きが変わったような気がすることがある。
感覚的には動きを阻害しているものが
なくなるような感じ。
何らかの抵抗感が消えてなくなるような感じ。
つっかえ棒がはずれたときの感触に近いかなあ。
あれ?っと思うくらいにあっけなく
緩むときは緩むのだ。

これまでの確認状態との大きな違いは、
動きに向けている集中を削がずに
対処できているような気がすることだろうか。
動きに応じながらの調整が
少しだけ自然にできるようになってきた
ということなのかな。
自分の感覚で表現すれば、
動きたいのに動けないもどかしさを、
より具体的な部位に感じるようになっている
ということになるのかな。

リアルに感じる分だけ
何とかしたくなるのが人情で、
自然と意識の働きかけも強くなるのだろうが、
不思議なことに力みは感じない。
自然と呼気が深めになっているかなあという気がする。
これは意識導引の要領そのままではないかと…。
ちなみに自分の場合、力みが出てしまうときは
体調自体がバランスを崩していて
全身が緊張感の固まりになっていることが多く、
その時はこういう感覚は感知できなくなるみたい。
やはりできるだけ緊張したり、させない状態に
心身を導いていくことが基本であり、
大切なんだよなあと思う。

少しずつでも体が思う通りに
自然に反応してくれる兆候をみせてくれるのは
うれしく思う。
まだ確かな手応えにもなっていないのだし、
套路練習でも常にこの状態を
維持できているわけでもないのだから
序の口といってもいいくらい。

動きに習熟することも意識も呼吸も、
すべての練習がひとつの套路でできるのだから、
なにはなくともまずは套路練習ということなのだが。
問題は花粉だ…

伝統楊式が始まりました

2006-03-02 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
昨日から伝統楊式が始まった。
今期の専科は水曜は伝統楊式、土曜は孫式と、
曜日によって内容が異なる。

初めての伝統楊式を練習してみた感想は、
まずは、ああビックリ。
まったくもって24式とは違う~。
動作というか型は知っているものが多く、
初めてでも先生の動きを目で追いながら
最後まで何とか動くことはできた。

その時点での印象は、やはり長いということ。
でも、嫌になるような長さではなく、
初めての割には心地よかった気がする。
このあたりは孫式の伝統式でも
同じような感触だった。

自分達は伝統楊式を
108の動作に分けて練習するが、
同じ伝統楊式でも型の数え方で
85式になったり118式になったりするそうだ。
このあたりも、以前から教わってきた
「はじめから終わりまでが一つの動きになるように」
ということを思い起こす。
一つの型をどこからどこまでの動きとしてとらえるかで
型の数は変わってくる。
起勢から收勢までがひと連なりの流れになれば、
85式でも108式でも118式でも何ら変わりはないこと。

初回でとくに印象に残ったのは
予備勢(無極)、太極起勢(開太極)を
厳密に意識して行うこと。
いままで以上に
陰陽を意識していくことになるなと思った。
陰陽が生じることで太極起勢になるわけだから、
予備勢とはまだ陰陽もない無の状態になる。
無になっているかどうかを意識しながら練習していた。
いつもの準備勢はここまでしてなかったと反省しきり。

今回は予備勢、太極起勢、攬雀尾までの
三動作だけだったけれど、
この最初の動作に
楊式太極拳のエッセンスみたいなものが
込められているような気がした。
なぜならば先生が細かく丁寧に解説し
動作を見せてくださり、
何度もみんなの姿勢をチェックしていたから。

そういえばこれまで練習してきた套路のうち、
例えば陳式でも孫式でも
起勢から三動作くらいまでというのは、
その流派の真髄を表すような動作が多い。
看板動作というのかなあ。
だから楊式もおそらくこのあたりに
エッセンスが込められているんだろうなと、
後で気づいたのだった。気づくのが遅いな~。
でも、リストで確認してみると、
いわゆる24式の攬雀尾に該当するところまでが
最初の看板動作かもしれないから、
まだちょっと間に合うかな(笑
とはいえ、練習中は
とてもそんな余裕はなかったなあ。
文字通り足の先まで意識することを要求されていたから、
これまで培った意識を総動員している感じで
いっぱいだったもの。
ま、これが自分の身の丈ってことなんでしょう。

それともうひとつ。
いまちょっと思い返してみると
自分の動きには波があったみたい。
一定じゃなくてやや“ためっぽい”所作があったと思う。
これって陳式の名残り?