鬆の状態は一定の条件がそろえば
(環境がととのえば)おのずとなるものかと。
いわば環境復旧作業に近いスタンスかな。
そのような視点でいれば
日常が実践練習の機会となるわけで。
鬆は体鬆ともいわれるように
体に現れるひとつの象と考える。
そして体調に影響を与える要素(環境)には
体外的要因と体内的要因がある。
体調=体の調子=体のリズム=体の律動…
体を巡るべきものが良好に巡っている状態を
調和、和みというのだろう。
音楽でいえば和音の響きの心地よさかな。
巡りの和音が心地よく響いていると
イメージしてみる。気持ち好いだろうなあ。
というわけでまずは内的要因への取り組みから。
朋昌会の練習も内なる取り組みが中心だ。
基礎科にはそのものズバリの
意識導引練習がある。
太極拳導引をやり始めたばかりの頃は
師の指示に従って意識を集中させてるつもりでも
全身に力が入っていたように思う。
意識を集中させようと思う気持ち(意識)が
強ければ強いほど、
力みにつながっていたように思える。
だからこの段階の意識導引練習は
力んでは脱力を繰り返すような状態だった。
つまり鬆=脱力、リラックス=脱力する。
しばらくして意識導引練習の流れ
(意識を集中させた後に放鬆というリズム)が
習慣になってくると、
今度は意識の集中度を100と0にすることが
集中と鬆というわけではないんだなと。
意識導引の目的に
少しずつ気づき始めたように思う。
意識を集中させることは
ある種の緊張状態をつくることでもある。
無意識とは意識してないのではなくて
意識していることに気づかない状態なのかな。
緊張してるのに気づかない状態も
無意識の状態だと考えられるのかな。
鬆の状態に近づきたい、課題を理解したい。
練習会でも自分では我を忘れるくらいに
集中してたときに限って
師からは緊張している、緊張感があるといった
指摘を受けているような気がする。
鬆を求めれば鬆から遠くなる。
さてどうする?
(環境がととのえば)おのずとなるものかと。
いわば環境復旧作業に近いスタンスかな。
そのような視点でいれば
日常が実践練習の機会となるわけで。
鬆は体鬆ともいわれるように
体に現れるひとつの象と考える。
そして体調に影響を与える要素(環境)には
体外的要因と体内的要因がある。
体調=体の調子=体のリズム=体の律動…
体を巡るべきものが良好に巡っている状態を
調和、和みというのだろう。
音楽でいえば和音の響きの心地よさかな。
巡りの和音が心地よく響いていると
イメージしてみる。気持ち好いだろうなあ。
というわけでまずは内的要因への取り組みから。
朋昌会の練習も内なる取り組みが中心だ。
基礎科にはそのものズバリの
意識導引練習がある。
太極拳導引をやり始めたばかりの頃は
師の指示に従って意識を集中させてるつもりでも
全身に力が入っていたように思う。
意識を集中させようと思う気持ち(意識)が
強ければ強いほど、
力みにつながっていたように思える。
だからこの段階の意識導引練習は
力んでは脱力を繰り返すような状態だった。
つまり鬆=脱力、リラックス=脱力する。
しばらくして意識導引練習の流れ
(意識を集中させた後に放鬆というリズム)が
習慣になってくると、
今度は意識の集中度を100と0にすることが
集中と鬆というわけではないんだなと。
意識導引の目的に
少しずつ気づき始めたように思う。
意識を集中させることは
ある種の緊張状態をつくることでもある。
無意識とは意識してないのではなくて
意識していることに気づかない状態なのかな。
緊張してるのに気づかない状態も
無意識の状態だと考えられるのかな。
鬆の状態に近づきたい、課題を理解したい。
練習会でも自分では我を忘れるくらいに
集中してたときに限って
師からは緊張している、緊張感があるといった
指摘を受けているような気がする。
鬆を求めれば鬆から遠くなる。
さてどうする?
いままでやってきたことを一度やめてみる。
習慣化していることは無意識かしている。
それをちょっとやめてみるためには
改めてその対象を意識しなおさなければできない。
それが気づくきっかけとなることも。