松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

風の道

2013-04-30 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
身体のあちこちに変化を実感するこの頃。
どうも仙腸関節の状態が
カギとなっているような感じです。
腸骨と肋骨の間の筋肉群や起立筋群など
左右の状態差が微妙に大きくなったりしてて
なんだか身体が傾いているように感じたり
動かずに立っているだけの状態でも
重心が滑って移動しています。

おもしろいのは太極拳の準備姿勢をとると
重心があるべきところに戻ってくるように感じること。
でもある部分には緊張が残るのです。
普通に立ってしまうと重心が滑って偏るんだけれど
準備姿勢で緊張を感じる部分のそれは
はっきりしなくなる感じ。
何かしらのバランスをとろうとしているらしいことは
わかります。

何かを感じること自体は自然なことなのですから
感じていてもよいのでしょう。
問題は感じたことに対する心理かなあ。
たとえば…

気にする。
気持ちを向ける対象がハッキリしてますね。
心配するとも言い換えられそうなもの。

気になる。
心配というよりは不安感のようなものかな。
対象も有形無形を問わない感じかな。

気に病む。
執着しちゃってますね。
とりつかれてるような感じかな。



そして私の場合は…
何を気にしてるかといえば
身体の違和感。
なぜ気になるかといえば
同じ轍を踏みたくないとの思いがあるから
違和感から即不安感に結びつく。

防衛心が過剰なのかなとも思います。
それでついつい慎重になりすぎ
ブレーキを踏みながらアクセルをふかすような
なんともギクシャクした感じになるのです。


慎重になるのは
過去のつらい経験を手放せずにいるからです。
同じような思いは二度としたくはない。
つらい思いが深ければ深いほど忘れ難い。
少しずつ長い時間と手間をかけて
やっとこさここまで改善してきたものを
損ねたくないと思ってしまう。
これまでの努力を無駄にしたくない、
守りたいからです。
身にしみるような経験というのは
こころの痣でありシミなのかもしれません。
そうそう消えるものではない。
だけど気にしなくなる日が来ることを
諦めてるわけではなく
できればありのままを受け容れたいものだとは
思っている。
でもまだ手放せていない、というわけです。


緊張感のある動きをするのは
そうしなければいられない状況にあるからです。
だから緊張を否定してはいません。
緊張が悪いのではありません。
緊張することは自然なことです。

緊張によって慎重になること。
これもある意味では自然なことかもしれません。
危機を察知してるわけですから。
生存には欠かせないセンサーです。

視線を転じれば、センサーの感度がよい、
繊細なはたらきをしているともいえます。
だからこそ消耗しやすい弱いといったイメージも。
反対に鈍感さは大まかでもあり、
それはある意味頑強であるともいえます。
だから無駄に気を消耗させることもない。

つまりはこれも個性かと、たぶんね。
緊張という個性を味わっていればいい。
味わい続けられれば道はひらける。
ヘタに閉じ込めたり封印しようとしないことが
風の通り道に通じるのではないのかな。

最近の練習メモより

2013-04-26 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
介護暮らしとなってから
日々の練習がめっきり少なくなりました。
ことに去年の後半からは母の老いも進んできて
父ばかりか母の見守りも加わり始めました。
そこへ教室の閉鎖、新団体設立にむけての準備、
渋谷大会への参加などなど。


やはり手放したものは少なくなかったな。
練習時間よりも優先させたものが
いろいろあったし。
練習できなくなった分、体力はもちろん
気力の方も着実に落ちていった。

渋谷大会でも5分前後の表演なのに
途中でバテてしまったし。
うまくいかなかったという反省ではない。
いまの自分の身体状態を考えたときに
調整時間が足りないのではないか、
もしくは休みが足りないのではないかということだ。

消耗した身体を休めて回復をはかるのが休養。
回復が少なければ、
それだけ消耗しやすい状態にあるのだから
自然とセーブモードになる。
動けなくなる、考えられなくなるのは自然な反応で
いたしかたないことだろう。
それに見合ったバランスにととのえることが
いま目指すべき方向なのだろうと考える。



無いものはどうしようもないと覚ることで
得られた感覚がある。
無理をしないことのひとつは欲を手放すこと。
そして今回は補おうとしないことを覚った。
補おうとするのは不足を意識するから。
不足と感じる根拠は何だろう。
いまこのときの状態(実)を
ありのままにうけとめるのではなく、
過去や想像(虚)の物差しを使って
比較検討しているからではないのかな。
自分なりの何らかの基準値と照合してみて
不足と判定する。
いまこのときだけに目を向けられれば
いつも基準値は過不足のない平らにみえるだろう。
だけど、これは難しい。
無意識のうちに虚の物差しではかってしまう。
いつもと違うの“いつも”って何なのだ。



万物は千変万化するものであり
長期的な時間軸でとらえていけば
変動の振れ幅は小さくなっていくようにもみえる。
目前の現象に気を奪われすぎれば
心の平安が保てず、いたずらに波立つ。

だから太極拳はゆっくりとした動きになるのだろう。
ゆったりと流れるようにみえるのは現象だ。
つくろうとしてつくれるものではない。
ととのいさえすれば、そうなるものらしい。
整え続ける集中力、協調性の妙。自然の理。

言い換えれば、整い続けなければならないほど
時々刻々と変動し続けていることになるのだろう。
安定や固着は終結にほかならない。
終結を現実として迎えるまでは変動し続けるのであれば
なるべくなら太極拳の流れるような動きにあわせて
大らかに味わってみたい。



父の入院

2013-04-06 | 花熟帯落-玄冬・老いの風景-
前回の更新から2日後に
父が高度救命救急センターに救急搬送されました。
2月24日のことです。


脳梗塞、症候性てんかん。
父の場合の脳梗塞は、脳梗塞をおこした血管に
直接血栓ができているタイプではなく、
別の部位にある血栓が剥がれて血管内を動き回り
あちこちの血管をつまらせて
脳梗塞をおこすタイプ(塞栓性脳梗塞)なんだとか。
で、その元となる血栓のありかが
左頸動脈であることも確認済み。
MRI画像をみると、小さな脳梗塞の痕跡がいくつかあるのですが
(そのほとんどが左脳にあります)
この古い脳梗塞というのが痙攣症状をしばしば引き起こすのだとか。
父はこれまでも何度か意識障害を起こしているのですが
それはおそらく肺が痙攣して呼吸不全となり
血液中の二酸化炭素濃度が高くなったためではないかと。
症候性てんかんとはそういうことですね。

今回、脳卒中科専門医の説明を聞くことができて
はじめて父が突然に歩行困難になって
いきなり介護生活が始まった一連の状況のつじつまが
ようやく納得できたように思います。

父の主な症状は身体の右側のマヒと失語症です。
高齢でもあるので左頸動脈血栓の除去手術はせず、
投薬とリハビリ療法を選択しました。

3月になって状態が安定したこともあり
紹介先の病院に転院、いまも入院生活が続いてます。

こうして脳梗塞の発作により居宅介護は中断しました。
タイミング的にはもうこれが限界だったと思います。
父の病状をみても住環境を整えることは難しく
居宅はもはや限界との判断を
ソーシャルワーカーや包括の担当者も支持してくれてます。
今後は老健や特養などの施設入所を目指すことになりますが
これがどれほどたいへんなことなのかは承知しています。

人が一生を終えることがどれほど大変なことになっているのか。
老親をみながら目前に迫っている
老いと向き合う自身のくらしを考えずにはいられません。