松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

白と黒とのあいだには

2008-09-18 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
ものの見方や考え方、感じ方などは
人それぞれとは言いますが、
実は、それぞれの表現の仕方に差があるだけで
表現から受ける全体的な印象や
主旨のようなものには
思いの外、似通っているところが
あるような気もしたりすることがあります。


陰と陽は、作用反作用のように
同時に存在するものです。
ですから対語のようなもの、
(たとえば老若、明暗、男女など)にも
当てはめることは可能です。

俗に「白黒をつける」という言い方がありますが、
これも陰と陽の二分化だというのは
すぐに分るのですが、さらに踏み込んで考えると
白と黒とに分けるだけとは限らないのでは
ないかと思えてきて…。


つまり、白と黒の中間にあたるというか
「白や黒ではない色(白と黒以外の色)」
もあるのではないかと。
よく言う“割り切れない思い”などといった存在が
これに相当するのかもしれません。
もし、このようなものも
白と黒とに振り分けるとしたら、

 白と比べれば 白ではないけれど
 黒と比べれば 白く見えてしまうような色から
 黒と比べれば 黒ではないけれど
 白と比べれば 黒く見えてしまうような色まで

という見方をすれば
無数に存在するはずの色でも
白黒のグラデーション(階調)として
白と黒の世界にスッキリと
収まってしまうようにも思えます。

調和のとれた美しさや穏やかさとは、
こうした白黒両極間の階調が
どれだけ豊かに繊細に
調整されているかということでも
あるのかもしれません。

「白黒をつける」という表現には、
曖昧さを許さずにハッキリさせるとか
一刀両断的な強い印象があったのですが、
自分の中では少し色合いが変わってきたような
気もします。(深読みのし過ぎとの説もあり?)


十人十色といわれる人間関係も
自分と相手の間に調和のとれた階調を
できるだけ丁寧につくりあげることなのかも。

複雑に考えれば、いくらでも複雑になるけれど、
思惑なんかに囚われず、
現象だけに目を向けて行けば何とかなるような
気もしてきたり。
自分で自分を縛ったり、
知らぬ間に枠に組み込まれることのないように
こころして。





太極導引としての推手 -体験的考察-(3)

2008-09-12 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
推手練習で自分の放松状態がわかるらしい
と理解することで、推手の練習目的が
より具体的になってきました。
自分なりの目的意識を持てるようになると
意欲も興味もまた少しアップしてきたような気が…。
しかし実際の練習では不自由さと窮屈さを
毎回感じています。



 推手で感じる不自由さの意味を考えてみる

推手練習に求められるものも
套路練習と同じく、まずは放松。

練習を開始したら
自分の手が相手の手から離れないように
意識します。
意識が働けば自然に集中してきますから
ことさらに集中しようとしなくても
大丈夫です。

そうやって、まず自分の状態を
松、静の状態に近づけるようにします。
筋力に頼らず、自然で落ち着いた呼吸で
無理な姿勢に偏らず…
套路練習のときと同じですね。

推手練習だからといって
新たに特別な要求が加わるわけでもなく、
いままでの要求を意識して
取り組んでいけばいいみたいです。


だったら套路練習だけでもいいじゃない。

そうなんですよね。
基本的には套路練習だけでも
いいのだと思います。
太極導引は健身法ですから
もともと個人で行うものですし、
健身効果を期待するには
毎日ひとりで行えることは重要です。

ただ、その個人練習の
内容の質について考えるとき
套路練習だけでは独りよがりになる
可能性もあるような気がします。

推手練習では目の前に相手がいます。
自分の意のままにはならない対象が存在します。
状況によっては
煙たい、うざい、邪魔な存在として
心理的に圧迫されてみたり
物理的肉体的にも不自由さや窮屈さなどを
味わうこともあるでしょう。
ことに私達のような段階であれば、
それこそ不自由さを味わうための練習
とも言えるのではないかと。


では、なぜそうまでして不自由さを
味わおうとするのでしょうか?

不自由さを味わってしまうのは
ひとつの結果であって、
それ自体が目的なのではありません。

もし不自由さや窮屈さを感じるとしたら
それは相手からの働きかけに対する
抵抗感のようなものが、あるからなのかも。
自分の心身状態のどこかに
何らかの緊張や強ばりがあると、
生理的反射的に思わず力で対抗しようと
するのではないかと。

ひとり練習では気づけずに見過ごしていた
緊張や強ばりがあることを
教えてくれているようにも思えてきます。

個人の練習でこのような感覚を磨くことは
なかなか難しいことかとも思います。
やはり実際に他者と交流する方が
より実践的な練習となるような気が…。


太極導引としての推手 -体験的考察-(2)

2008-09-11 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
何だかよくわからないままに
体験してみた推手。
とはいえ、まったく興味がなければ
体験しようとは思わなかったはず。
たとえ潜在的とはいえども
そこに主体的な意志の力が働いていたのは
確かなことのようで…。



 そして太極導引鍛錬としての推手練習が始まった

講習会での感想を
さっそく先生に報告しました。
「推手は難しいですよ」
と、例のごとくさらりとひとこと。

そして単手の推手から教えてもらうことに。
(ちなみに講習会の推手は双手でした)
あらためて要領の説明を受けながら動いてみても
やはりなかなかうまくはいきません。
その理由が、自分ではまったくわかりませんでした。

 先生「もっと放松してください。力を抜いて」
  私(いつもと変わらないと思うんだけど)
    と心の中でつぶやく
 先生「私の手の感じに
    なるべく近くなるようにして」


推手にしろ套路練習にしろ
ある程度動作要領を覚えるまでは
ぎこちなくて、なかなか思うようにいかない
ところは同じです。

少しずつ動作要領も分ってきて
動きに気をとられすぎることもなくなってくると、
今度は相手(この場合は先生)の存在が
だんだん気になってきて
集中できていないことがわかってきました。
つまり自分の状態を
十分に感知できない状態にあるのです。
先生が、もっと放松するようにと
指摘されていたのは
この状態を指してのことだったんですね。

身体が必要以上に身構えてしまうと
どうしても緊張状態になるので、
感覚は鈍くなってきますし
精神も落ち着かない状態になります。

相手の存在を意識すればするほど
自分を落ち着かせなくさせているのです。
よく知っている先生が相手なのに
緊張してくるのです。


太極導引の基本要求は
松静自然です。
なによりも最優先で要求されるのは
放松です。
放松には体松と心松があります。

套路練習を続けていれば
自分の放松ぐあいも
それなりに自己感知できるように
なってきます。
そこそこの進化を体感すれば
嬉しくもなるし、励みにもなるのですが、
自己評価というのは
ややもすれば、過大にも過小にもなりがち。
自分の放松レベルについて
甘くも辛くもない
ありのままの判断をしたい。

まずは主観的な自己感知による
放松ぐあいが、実際には
“いかほどのものなのか”ということを
客観的に確認するには推手練習が有効

なのだろうと、私は理解しました。


ちなみに私の緊張感は
推手練習ができるのをうれしく思う
気持ちの昂り(高揚感)と
今度こそうまくやりたいと思う
欲から出てきたものが主因かと。
体の硬さ(疲労など)などよりも
心理的要因の方が大きいのでは?と分析しています。



太極導引としての推手 -体験的考察-(1)

2008-09-10 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
去年の9月から始まった推手の自主練習会も
今月から2年めに入ります。
できれば少しでも参加者が増えることを
願っています。


推手練習は套路練習とは違い
ひとりで練習するわけにもいかないので
練習機会も限られてきます。
そこで教室が始まる前のわずかな時間や
月に1度の練習会を利用することに。

でも、そんなにまでして
なぜ推手をやりたがるのかと思う人も
いることでしょう。

そうなんですよ、どうしてなんでしょうね。
今でこそ推手のおもしろさを
それなりに感じてはいる私ですが、
やり始めた頃は、手合わせする度に
“推手って何?”とか
“いま私は何を意識してればいいんだろう”
などと思うばかりで、実感としては
何だかさっぱりの状態がしばらく続きました。


 訳が分からないままでは、何か悔しい

私がはじめて推手を体験したのは
去年受けた推手の講習会です。

初めての推手(双手でした)
まったく形にすらならずに終わりました。
講師の先生がマンツーマンで
丁寧に何度も要領を教えてくださったのですが、
まったくもって動けなかったことが
強烈な印象として残りました。

ひとりで行う套路練習とは違い、
他者と組して行う練習とは
かように思い通りにはいかないものなのか。
自分と他者との関係を意識するだけで
こんなにも不自由になるものなのか。

それでも、推手が嫌だとは思いませんでした。
何が何だか分らないことが
悔しかったというか、
おそらく好き嫌いの判断を下せる段階にすら
いたってなかったのだろうと思います。

講習会では、私以外は皆さん経験者でしたから
推手らしい動きをされているわけですね。
それを見ていれば、
やはり“あんな風になりたい”
と思っちゃうわけで。
“このまま分らないでいるのは
何かつまんないよなぁ。
そういうのって、好きじゃないんだよねぇ”
との思いがありました。


重陽の節句

2008-09-09 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
きょうは五節句のひとつ
重陽の節句です。

五節句とは
  人日(じんじつ) 一月七日
  上巳(じょうし) 三月三日
  端午(たんご)  五月五日
  七夕(たなばた) 七月七日
  重陽(ちょうよう)九月九日
の五つの節句をいいます。
どれも中国から伝わったものです。

中国には古代から伝わる
陰陽思想という考え方があります。
この考え方は中国文化の骨子となる
根幹的な思想といえるものです。

中国では、この考え方をもとにして
奇数を陽的なもの、偶数を陰的なもの
と分けています。つまり、
1、3、5、7、9は陽の数で
2、4、6、8、0は陰の数となります。
そして奇数の中で、いちばん大きな数となる
9が重なる9月9日は
大変めでたい日とされていました。

重陽の節句と菊の花が結びついたのは
旧暦の9月9日頃は
ちょうど菊の花が盛りを迎えるからだとか。
(3月は桃、5月は菖蒲というように、
季節の花と結びつける習慣がある
ということですね)


日本には平安時代初期に伝わったと
いわれています。
当時は宮中行事として
伝来して間もない珍しい菊の花を楽しむ
観菊の宴を催し、
菊酒を飲み詩歌を詠んだりして
長寿を祈願したのだそうです。

また、菊花は古くから
生薬の薬材として利用されています。
日本でも、早朝に菊花にたまった露を飲むと
長寿になると言われるなど
菊花の芳香と高貴な気品によって
邪気を払うとされ、重用されてきたそうです。


ということで
今朝は菊花茶をいただきました。




ほんとは9時にアップできたら
よかったんですけど、
9月9日9時9分…重ね損ねちゃいました。


寿命と樹命

2008-09-07 | 心韻-こころの逸話(エピソード)-
自然であることについて考えるときには
植物、具体的には樹木を
イメージすることが多いです。

たとえば天災にしろ人災にしろ
命が脅かされる情況に遭遇すれば
樹木はその情況を
受け容れるしかありません。

動物のように移動できる方が
生き物としては進化しているのでしょうが、
危険な情況から逃れられるようになることで
むしろ恐怖心に囚われやすくなったとも
言えるのではないかと。

天命を潔く受け容れる一方で
樹木は基本的には
動物よりもはるかに長命です。
そしてまた、成長にかける時間は
ゆっくりじっくりなのに
新しい命が芽吹く速さは驚くばかり。
意外なほどに逞しく
したたかないきものでもあるのかも。


樹木をみていると
さまざまなことを思います。

木々が競って枝葉を伸ばし広げる姿は
欲の競い合いにも見えます。
そのくせ土中では、互いに譲り合いながら
根を張るものらしいです。
そうしないと、
共倒れになってしまうからだそうです。

競争と協調。自然のバランスは
目につくところでつり合っているとは限りません。
人間はお調子者だから
小手先ばかりで帳尻をあわせようとしがち。
大局を見据えるには
少々のことでは視点が揺るがないような
根を張る必要があるのかも。
そうすれば少しばかりの余裕も
生まれることでしょう。

長生きを望むだけならば欲。
長生きはひとつの結果。
生き延びようとする志は命の源泉かな。

もう一人の自分

2008-09-02 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
ものの加減がイマイチよくわかってないようだ。

意識し過ぎれば、囚われることになるし。
囚われてしまえば、
視野も考え方も許容範囲も狭くなるものだ。
したがって条件が多くなればなるほど、
当てはまる対象は絞り込まれることになる。

たとえば放松できないヤツに限って
身の程知らずな厳しい条件を自分に課していたり
するのだろうか。
自分で自分の首を絞めているのだろうか。


先生が「簡単なことですよ」と
いつもサラリと言われているそのココロも
少しずつでも
わかってきているとは思うのだけれど、
それをやろうとしたがらない
もう一人の自分がいるらしいことに
先日、気づいてしまった。
いったい何を考えているんだろう…。

自分の中にいるコヤツと向き合うことが
先決なのかもしれないなぁ。


筋肉痛は、筋肉の錆び落としのようなもの?

2008-09-01 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
歯医者さんでの体験の続きです。

まず、私の噛み合わせの状態を調べるために
小さくカットされたシートを
歯で噛んでいきます。
ピンセットでつまんでいるシートが
スッと抜けてしまえば、
その歯はうまく噛めていない、
つまりしっかり働けていないということになります。

そういう検査を細かくやって行くと
ほんとに一部の歯しか使っていない
(使えない状態にある)ことがわかりました。


そして検査をした翌日、
下顎を中心に顎関節や首あたりに
筋肉痛が出ました。

こんなに使っていない部分があったんですね。
同じような筋肉を使っていた証です。
使わない筋肉は総じて固まっていきますから
これじゃ噛み合わせもズレるわけです。


そういえば、以前の教室では
動作導引の練習前に
準備導引というものをやっていたのですが、
その中に「叩歯」といって
前歯を上下に18回
横歯(奥歯)を上下に18回、
歯を叩く運動があったのです。
叩くといっても噛みしめるわけではないし
強く叩き合わせるわけでもありません。
ものを噛む時に比べれば、ほんとに軽い負荷の動作です。

これを思い出して、
最近またやるようにしています。
ちょっといい感じです。
もちろん導引としても有益ですしね。


それにしても、顎周辺の筋肉痛とは。
運動不足で錆ついてしまった筋肉を
使い始めたからこその筋肉痛ってことかも。