松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

練習メモ_導引三調11

2015-09-29 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
太極拳導引ではその鍛錬内容である
調身・調心・調息の3つを称して
導引三調と呼んでいます。



調息と呼吸導引

太極拳導引では緊張するような状況を極力避ける。
初級レベルであれば
練習中に何度か息を止めていないか
慌ててはいないか、落ち着いているか
というような注意喚起をすることがある。
一所懸命に集中する対象に意識が向きすぎれば
他へ向くはずの意識は総じて薄くなってしまう。

意識の過不足による影響は連鎖的に広がる。
自分のことくらいはわかっている気でいたけれど
じつは分かっていないんじゃないか?
このような自らの心身へ向けた謙虚なまなざしが
内観には欠かせないのかもしれない。

最近になって調息についても
その解釈を少しばかり見直し始めている。
調息は自発的に呼吸の仕方を変えるなどして
調整すること、意識で呼吸をコントロールすること
と理解してきたが、
もしかするとそれだけではないかも?と思い始めたのだ。

太極拳導引の練習内容のなかには
呼吸導引という練習法がある。
これは自分のできる範囲(=自然呼吸で行える範囲)で
呼吸は細く長くゆっくり均しくして
過不足なく十全に行うもの。
細く長くゆっくりで均しい呼吸は
あくまで自然呼吸で行われるものであり
深呼吸にはならない。
もし練習中に呼吸が苦しくなってきたとしたら
それはどこかで無理をしている(緊張している)から。
また深呼吸になってしまうのも
それもどこかに無理があるということになる。


太極拳導引における鍛錬とは
過不足のない十全たる状況を目指すことであり
備わった資質を活かしきるための身体の使い方や
心のあり方を発揮するためのもの。
そして十全を目指している限り限界は無となる。
なぜなら我慢とか耐えるような状況がないからだ。

もし耐えたり我慢していると感じたら
それはどこかで無理をしているのだと思う。
どこでどんな無理をしているのかは
個人によりまちまちだろう。
本来の資質を十分に発揮せずに抑え込むことも
現状の資質以上を求めることも
どちらも無理をしているとはいえないか。

呼吸導引は呼吸に集中することで
心身にひそんでいる無理に気づく感覚を呼び覚まし
その精度を磨きあげるような気がする。
やがてそれが調息につながっていくのではないかと。


「無理せずできることだけを十全に行う」
これは呼吸導引に限らず太極拳導引のキモなのかなと
自分では思っているのだが、はたしてどうかな。

練習メモ_導引三調10

2015-09-18 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
太極拳導引ではその鍛錬内容である
調身・調心・調息の3つを称して
導引三調と呼んでいます。



気息(呼吸)の調整

調息の「息」とは気息のことで
今で言うところの呼吸を意味する。

息は会意文字に属し、自と心を合わせたもの。
自とは鼻のことで
“いき”の出入りするところをあらわしている。
心気(しんき=心の気)が
鼻から出入りする“いき”を「息」と表記した。



太極拳導引は鼻から吸って鼻から吐き(鼻呼吸)
自然呼吸で行う。

鼻呼吸は呼吸の仕方(呼吸スタイル)であり
自然呼吸は呼吸の状態かなと、現状では解釈している。

例えば速く激しく動いたり心理的に緊張すれば
呼吸は浅くなり呼吸数も増えて激しい息づかいとなるし、
座したり横になったり、
あるいは心理的に平静なときの呼吸は
比較的深めでゆっくり落ち着いた状態となる。
このような心身の状況に応じて自ら変化する呼吸を
自然呼吸(自然な呼吸状態)と呼んでいる。
これはなにも特別な方法ではなく、
だれもがごくごくふつうに行っているものだ。

呼吸に限っていえば
自然のままに行うこともできるし
意識的にコントロールすることもできる。
それゆえに古くからさまざまな呼吸法が編み出され
健康法としても広く普及している。


呼吸法という枠組みでみれば
自然呼吸もそのひとつということになるかと。
しかし自然呼吸が他の呼吸法と大きく違う点は
生まれながらに備わっている
その人固有の先天的な呼吸スタイルであること。
つまりデフォルト仕様みたいなものかなと
個人的には思っている。
かたや他の呼吸法は意識的に修得することで、
はじめて手に入れられるものであり、
本来の呼吸スタイルをカスタマイズした
後天的な呼吸スタイルである。
そのように考えてると、呼吸の本質みたいなものは
自然呼吸にあるのかなと思えてくる。

太極拳導引が自然呼吸で行う根拠も
もしかしたらこんなところにあるのかもしれないなと。



練習メモ_導引三調09

2015-09-01 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
太極拳導引ではその鍛錬内容である
調身・調心・調息の3つを称して
導引三調と呼んでいます。



 「天下水より柔弱なるはなし(天下莫柔弱於水)」

天下莫柔弱於水 而攻堅強者 莫之能勝 以其無以易之
弱之勝強 柔之勝剛 天下莫不知 莫能行
是以聖人伝 受国之垢 是謂社稷主 受国不祥 是謂天下王
正言若反


道徳経(老子)の一節。
水の性質を比喩として「柔よく剛を制す」の視点から
老子の考える治世(政治=まつりごと)における理想の姿を説いている。

俗にいう「水の徳」を説くカテゴリーに分類される内容で
この中には有名な「上善水のごとし」の一節も含まれる。

水の柔弱性を説いたこの一節では
水は柔弱であるがゆえに固定した形をもたない。
そのため器に応じて方円自在に姿を変える柔軟性に優れる。
その一方で水は滴に姿を変えれば
堅固な岩をも貫通させるほどのつよさも備えている。

自己主張をひそめ周囲に合わせる行為は
外見上は主体性を感じさせないようにみえるが
自らの意志で(意を用いて)受け身に転じることは
内なる自分を外圧から守護する力を持っている。
いたずらに心を弱らせたりプライドを傷つけずにすむ。
いわゆる心が折れるなんてことには
ならなくてすむかもしれない。

挫折は昔からあったことだけど、
これまでは挫けたり凹むくらいで
おさまっていたのだけれど、
昨今の心は折れてしまうものらしい。
こんな表現が流行るくらいだから
よほどかたく強ばっているんだろうなあ。

世の中の仕組みが変わったのか
人の志が変わったのか。
柔弱なるものへの眼差しの向け方を
すこし見直してみればいいんじゃないのかな。




道徳経にはこんな一節もある。

「人の生まるるや柔弱(人之生也柔弱)」

人之生也柔弱 其死也堅強 
万物草木之生也柔脆 其死也枯槁
故堅強者死之徒 柔弱者生之徒
是以兵則不勝 木強則折 強大処下 柔弱処上

人の誕生と死滅、草木の芽生えと枯死に喩えて
いのちの本源は柔弱にあると説いている。


草木の若芽は柔らかく弱々しい。
だから陽光を浴びやすい上方や枝先に集中させる。
そうやって次々と若芽は生育し
強く堅い幹や枝は下部にあってそれらを支えている。
下部にあるということは、より土に近いということだ。
土といえば五行(木・火・土・金・水)の要素でもある。




ここ数回にわたり、やわらかさや剛柔について考察してきたのは
この数ヶ月間、集中して陳式套路を練習してきたことも影響している。
陳式套路を用いて導引的練習を続けて行くにあたり
いわゆる発力動作というものと
どのように向き合い取り組めばいいのか。
このあたりについて師の見解をきいてみたかったからだ。

師の見解は簡潔だった。
その解説も丁寧でわかりやすかったと思う。
だが身体を通して得心するまでには
もう少し時間を要するだろうなあ。


水は器に従い方円自在に姿を変えるほどに弱々しいが
滴となって岩をも貫通するほどの強さを秘めている

導引三調とはやわらかな身体と
その核(芯)となる意を養うためのものなのかも。
そして用意不用力への礎となるのだろう。