なるべくならば緊張することなく
いたずらに(心を揺り動かすような)思惑を持たず
ゆったりと落ち着いていられることでしょうか。
そんな状態でいられるためには
心にも体にも
ある程度の余裕が必要になるでしょう。
では、余裕がないときにはできないのかな?
そのときの余裕の程度なりにできると思います。
太極拳導引で無理をしない、
自然のまま、あるがままになどというのは
できるだけ緊張せずに落ち着いていたいからです。
そうするとしだいに自分の状態を
在るがままの状態として
感じ取れるようになるからだろうと思います。
余裕があるというのは
自分の体の状態に気づける状態にあることです。
つまり意識的に体の状態を探ろうとするのではなく
(自ら働きかけるのではなく)、
どちらかといえば受動的、待ちの姿勢のような感覚かと。
そして余裕とは、余力の貯えがあることです。
するといちばん余裕のない部分を補って
全体を底上げしたくなるわけです。
で、その補い方にも2通りの視点あって
一つは、少ない部分を実質的に増やす考え方。
もう一つは、少ない部分は現行のままで
それ以外の部分を減らす(捨てる)ことで
結果的に増える(増えてみえる)考え方。
後者の考え方って“まやかし”みたいで
ちょっと正攻法にはみえないかもしれませんけど、
じつに理にかなっているんですよ。
これほど効率の良い方法はないんじゃないかと
思えるんですけれど。
おそらく足し算よりも引き算の方がラクなんですよ。
基本的に何かを手に入れることって
それなりの代償をともなうじゃないですか。
引き算は捨てるだけだから。
ことにこの場合は、
捨てることがそのまま余力になるわけですからね。
ただし、ポイントはバランス、平衡を保つこと。
切実に余力がほしいのは
いちばん余力のない部分だということ。
そこ以外に余力があっても
余力のない部分が増えてみえなければ
それではまだ足りないかも。
勘違いしやすいところかもですよね。
たとえば物足りなさというような
心理的な満足度に惑わされてしまうと
余裕の平衡は崩れてしまうのかもしれません。
心理的要因というのは
自分でコントロールできるものでもあるので
手に負えないってことでもないです、たぶんね。
まぁ焦らずぼちぼちといきましょうかね。
いたずらに(心を揺り動かすような)思惑を持たず
ゆったりと落ち着いていられることでしょうか。
そんな状態でいられるためには
心にも体にも
ある程度の余裕が必要になるでしょう。
では、余裕がないときにはできないのかな?
そのときの余裕の程度なりにできると思います。
太極拳導引で無理をしない、
自然のまま、あるがままになどというのは
できるだけ緊張せずに落ち着いていたいからです。
そうするとしだいに自分の状態を
在るがままの状態として
感じ取れるようになるからだろうと思います。
余裕があるというのは
自分の体の状態に気づける状態にあることです。
つまり意識的に体の状態を探ろうとするのではなく
(自ら働きかけるのではなく)、
どちらかといえば受動的、待ちの姿勢のような感覚かと。
そして余裕とは、余力の貯えがあることです。
するといちばん余裕のない部分を補って
全体を底上げしたくなるわけです。
で、その補い方にも2通りの視点あって
一つは、少ない部分を実質的に増やす考え方。
もう一つは、少ない部分は現行のままで
それ以外の部分を減らす(捨てる)ことで
結果的に増える(増えてみえる)考え方。
後者の考え方って“まやかし”みたいで
ちょっと正攻法にはみえないかもしれませんけど、
じつに理にかなっているんですよ。
これほど効率の良い方法はないんじゃないかと
思えるんですけれど。
おそらく足し算よりも引き算の方がラクなんですよ。
基本的に何かを手に入れることって
それなりの代償をともなうじゃないですか。
引き算は捨てるだけだから。
ことにこの場合は、
捨てることがそのまま余力になるわけですからね。
ただし、ポイントはバランス、平衡を保つこと。
切実に余力がほしいのは
いちばん余力のない部分だということ。
そこ以外に余力があっても
余力のない部分が増えてみえなければ
それではまだ足りないかも。
勘違いしやすいところかもですよね。
たとえば物足りなさというような
心理的な満足度に惑わされてしまうと
余裕の平衡は崩れてしまうのかもしれません。
心理的要因というのは
自分でコントロールできるものでもあるので
手に負えないってことでもないです、たぶんね。
まぁ焦らずぼちぼちといきましょうかね。