松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

安定と不安定

2005-08-31 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
かつてイチロー選手が上体の緊張をとるために
下半身を安定させることで解決をみた
という話をきいたことがある。
その時は下半身を安定させればいいのかと
簡単に考えていた。

下半身の安定をどうやって手に入れるのか。
真っ先に浮かぶのは筋力アップ?
確かにある程度の筋力は必要だけれど、
やみくもに筋肉をつけて強化しても
効果があるとも思えない。

次に安定状態について考える。
安定した状態というのは
それだけではなかなかわからないものだと思う。
つまり不安定な状態になって
はじめて安定した状態がわかるということ。
不安定が安定を教えてくれる。

実際、動作中に不安定になると
体は目に見えて揺らぐ。
体が揺らぐことで心理的にも動揺する。
心理的には揺らぎを止めたくてしかたがない。
そこで踏ん張ることになる。
その結果、バランスを失って
動きが止まったり崩れることになる。
たとえ踏ん張って止まってみても、
次の動きに移るときにはまたバランスを崩して
不安定になりやすいもの。
そんなことばかりを繰り返していた。

その結果、どうやら踏ん張ることと支えることは
違うみたいだと思い始めた。
振り子やバランスを利用したものを観察してみた。
すると共通の原理がわかってきた。
それは揺れるものは揺れることで
バランスをとっているようだということ。
ただし支点(軸)は
ぶれないようにするみたいなことだ。

一見矛盾するようだが、一定の法則で
動いているものの方が安定性を増すことは
良くあることだ。
つねに動いている方が安定することもある
ということだ。
つまり安定とは、つねに不安定との
境界ぎりぎりのバランスの上に成り立っている。
ということは、安定してみえる動きには
不安定になりがちな動きを
つねに調整している舞台裏の事情みたいなものが
あるのではないかと考えられる。

踏ん張りは足場を固定するような
ところがあるけれど、
支える場合は固定とは限らない。
移動しながらでも支えることは可能だと思う。
可動範囲があるということは
それだけ動的要素を含むものなので
不安定要素をもつことになる。
だからこそ動きながらバランスを探るのだ。
いずれにせよ、これも陰と陽の関係なのだと思う。
安定も不安定もどちらも存在してこそのもの。
安定を求めるのなら
不安定の中にこそあるものなのかもしれない。

おそらく安定した状態にあるときは、
安定してるかどうかなど意識していないくらい
自然な状態なのだと思う。
だからこそ自然であると感じられるようになりたい
と願うのだ。

太極拳導引のある風景

2005-08-28 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
太極拳導引を始めて来月で4年目を満了、
10月からは5年目に入ります。
運動でこれほど長く続いたものは
今までの人生の中で唯一ですね。
自分が探し求めていたのはこれだ!と
直感したのは、どうやら正しかったようです。

開講初日の水曜日は
雨だったような気がします。
確か、ちょっとしたアクシデントで
先生が遅れていらしたんじゃなかったかな。
初対面どうしが集まったにもかかわらず、
先生を待つ間も終始和やかな雰囲気でしたね。
紹介しあうわけでもなく、
互いに相手の名前も知らないまま
おしゃべりしてました。
かえってスタッフの人達の方が緊張してましたね。

開講当初は同内容のクラスが
水曜と金曜に分かれてありました。
同じ先生に同じことを習っているのに
曜日が違うだけで会ったこともないのも
ちょっと寂しいね、ということで
年末に納会を合同で開くことにしました。
開講してから3カ月目ですね。
これを契機に互いの距離がグッと縮まりました。

いまでは伝説となりつつある?上海研修旅行。
先生の帰国に合わせて
希望者を募って実施したものです。
楽しかったです。
公園で一緒に太極拳をさせてもらえたのも
うれしかったです。
みなさんの笑顔が忘れられません。
また会いに行きたいです。

年に一度の交流会への参加が
教室の一大イベント“お祭り”です。
交流会では一応表演ということになるので、
いつもの導引練習とは違った練習をします。
これがまたおもしろかったりします。
集体種目ではみんなの動きを揃えることが
第一になりますから、
普段の練習とは全く違った意識の仕方をします。
音楽と動き、全体のバランスなど、
フォーメーションや表演服の色まで、
いろんなことをみんなで考えていきます。
もちろん先生の指導のもとに行うわけですが、
最近は選曲なども、みんなから候補を募ったり
全員で作り上げていくイベントになってきています。
去年からは集体種目だけでなく
個人種目にも積極的に挑戦しています。
今年も初挑戦が2名。
来年は何名エントリーするのか楽しみです。

最初はワケもわからず、
ただ太極拳導引をすると体も軽くなって
気持ちが良くて、
次の日の目覚めが最高に気持ちよく、
そんな直接的な効果にひかれて
続けていたのかもしれません。
そのうちに体つきが変わってきたり
代謝がよくなったりと
体に起こっている変化を実感しだして
改めて太極拳導引の効果を実感。
太極拳の套路を練習することで
筋力もバランス感覚も
しだいに改善されてくるのがわかってくると、
おもしろくなってきます。
自分の体のクセにも気づきだして、
そうすると他人のクセも見えてくるようになります。
今まで見過ごしてきたものの多さに
改めてビックリします。

いろんな感覚が目覚めてくるのは
楽しいことです。
当然いいことばかりではなく、
不快なことも見えたり感じたりします。
でもこれは、不快なことに対したときの処方を
身につけるいいチャンスなのです。
早い話がストレスにならなくする方法を
自分で見つけられるようになるんです。
これはおもしろいです。
たぶん感情のコントロールだったり
思考のコントロールだったりするのでしょうが、
そんなことも太極拳導引を続けていると
自然にできるようになってくるみたいです。
4年前に直感したことは今も変わらず、
より身近に自然に太極拳導引とつき合えているように思います。

誠実な練習をこころがけたい

2005-08-25 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
陳式38式が始まって2回目を迎えた。
最初の5動作まで進んだ。
初回で戸惑った分、今回は
精神的にも落ち着いていたような気もする。
そのくらい初回は舞い上がっていたんだなあ。

今にして思えば、18式は体をつくること、
緩急がある動きに対応するバランス力を
保つための基礎訓練だったのだと理解できる。
その意味では今期の38式を練習することで、
18式もきっと変わってくると思うと
楽しみが増える。

さて、陳式太極拳は太極拳のルーツ
といわれるだけあって
その動きは武術的要素が色濃いといわれる。
まだ知っている型も少ないのだけれど、
それでも他の套路練習以上に
目線や掌や指先の形にまで
自然と意識がいくような気がする。
初回のときに相手の腕をつかむイメージを持つことで
手先の形を理解したのがきっかけだったのかも。
まだ螺旋の意識はうまくつかめていないのだけれど、
それでも螺旋を意識することで、
今までのように表面上の
手足の動きだけを追いかけるのとは
ちょっと違ってきている。
まだはっきりと説明はできないけれど、
ぼんやりしていた輪郭が
少しずつハッキリしてくるような感じがする。
下手は下手なりに
こうやって動きに慣れていくんだなあと思う。

確かにはじめての動きは難しい。
昔の人達だって難しいと思いながら
練習してきたとは思うけれど、
技の習得にかける切実さの分だけ
練習に対する姿勢も違ったはず。
導引練習ではむきだしの必死さは
かえって緊張を生みやすく不向きといえるだろう。
内に秘めるといっても
誰にでもできることではないと思う。
今の自分のレベルではまだ無理。
だがせめて自分にできることを
きちんとやりきる練習をしたいなと思う。
それが大好きな陳式に対して
自分なりの敬意を払うことではないかと思うし、
結果的には導引効果を導くことにも
つながるような気がする。
要するに誠実な練習を心がけるということだ。

え~、マジですかぁ?

2005-08-23 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
すみません、前回に引き続き続・続編です。
その後も母への取材が続いております。
なんだか、ちょっとコワイわ~(笑)。

今回の特ダネはですね「私は扁平足だった!」。
股関節脱臼で産まれてきた私は
治療の一環として
定期的にレントゲンを撮っていたのですが、
ある日技師から「あ、お嬢さん、扁平足ですねー」と
言われてはじめて気がついたとか。
その後股関節脱臼は回復して
順調に育成していくわけですが、
扁平足がその後どうなったのかは覚えていないとか。
お転婆で、いつも男の子に間違われていたくらい
活発に野外活動に精を出していた小学校3年頃には
きれいなアーチを誇っていたらしいです。

ところがその後、例のプレッシャーを感じ始めた頃に
ダブるのですが、
急に伸長が伸びたり体重が増えたりと、
今思えば成長の仕方がアンバランスになった
一時期を境にして再び扁平足になっていったようです。

というのも、真っ平らっぽい足をしていた
時期があったことを
何となく覚えているからです。
ただ当時は扁平足なんてこと自体を
知りませんでしたし、
友達と足裏比べなんてするわけもなく、
何となくそんなものかと思っていました。
今みたいにさまざまな情報が溢れかえっている
時代ではなかったんですと弁解してみたりして(笑)。

いまは一応扁平足ではありません。
ですが体調によってアーチの堀の深さが変わります。
太極導引を始めてからは
腰に違和感があるとアーチにも変化が現れて
姿勢も不安定になってくるという
一連の関連性を自覚してます。
体はつねに変動しているんですよね。

それにしても赤ん坊の頃は扁平足だったなんて
聞いたこともなかったなあ。
こうして足裏という地味な部位は
変遷を繰り返しながら変調を示していたのに、
無知な私はそれに気づかず、
気づいてもその意味を理解できずに
放置していたのでした。
にもかわらず足裏は体を張って
黙々と私を支えてきてくれたのでした。
ごめんね。

意外な事実が発覚!?

2005-08-21 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
例の靴底チェックの件の続報です。
実はその後、私の身体上の意外な過去が
発覚しました。

なんと私、昔は内股だったらしいんです。
ウッソー、知らなかった。
というか自覚がまったくありませんでした。
今朝になって母が
「そういえば昔、アンタ内股だったねえ」って、
唐突に言い出したんです。
これは一体どういうことなのか。
さっそく母に取材を敢行しました。

実は私は出生時に股関節脱臼やってます。
というか脱臼して産まれました。
これはごく初期に治してもらっているので
問題はなさそうなんです。
母が言うには特に意識していたわけではないので、
いつ頃から私が内股だったか思い出せないとか。
ただはじめて意識したのは
私が高校生の頃だったらしいです。
靴底の減り方がいつも内側に偏っているのに気がついて、
それから意識的に歩き方を見たのだとか。
自分では全く意識してなかったです。
今は内側に減ることはないですしね。

実はどうもこの内股だった時期
というのが自分が体調を崩していた時期に
重なっているような気がするのです。
もちろん今にして思えばということなのですが。

これはあくまでも個人的見解なのですが、
どうもコレも緊張感からきている
ような気がするんですね。
いわゆる第二次性徴期といわれる頃に
差しかかってきたあたりから、
すごくプレッシャーを感じていたんです。
あの頃はいつも憂鬱でしたね。
何に対する不安や焦燥感があったのか
わからないのですが、
今思い出しても息苦しくなってきそうです。
過換気症候群の発作を繰り返していたし、
とくに最悪の状態だったのが
高校を卒業した頃です。

骨盤周辺が緊張しすぎていて
股関節が内側に巻き込まれるみたいになって
内股になっていたんじゃないのかなあ。
いまでも左側全体に緊張が出やすいのも
そういうことが影響しているのかもしれません。
こういう体の緊張配置図みたいなものを
自分なりに手に入れたりできるようになったのは、
ひとえに自分の体と向き合い続けてきたからに
ほかならないと、これだけは
断言しちゃってもいいかな?ってくらいに
思ったりしています。

でも、だからといって
こういう例が誰にでもあてはまるとは
限らないところが、
またいいところだとも思っています。
体はひとりひとり違うっていうことを
不安に思うか、楽しいと思うか。
そういう気持ちのあり方もまた
大いに影響しているのかもしれませんね。

靴底のチェックをしてみたら

2005-08-17 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
去年の秋から、すべり症&坐骨神経痛と
本格的に向き合ってきたのですが、
最近はだいぶ安定しているようです。
おかげでこの1年で体や日常動作について
学んだことは少なくありません。

ところで最近、ある条件が重なると
左足首やふくらはぎに違和感を感じるように
なりました。
左足首は昔にちょっと捻ったことがあるので、
その影響もあるかもしれませんが、
ふくらはぎの方は、とりたてて
思い当たるようなことがない状態です。
さらに不思議なのは
日常動作では違和感を感じるのですが、
導引練習時には感じないことです。
これは姿勢によるバランスに
関係がありそうだと推測できます。

練習時は腰部の過度の緊張を解いて
適度な姿勢を保ちますから、
この状態になるべく近づくような歩き方をすれば
違和感は少し減ります。
そしてもうひとつ思いついたのが
靴底の状態のチェックです。

坐骨神経痛の酷かった時の靴底の減り方と
症状が出てくる前のもの、
そして新しいものと並べてみて
チェックしてみました。
うーん、やっぱり違うかも…。
酷かったときのものは
減り方がとくに偏っているみたい。
庇ったりしていたのかもしれません。

せっかく姿勢を改善しても
足もとが依然として古傷を引きずっている
というのはどうなんだろう。
たぶんこのまま履き続けるのは
体にも良くないんじゃないのかなあ…。
そんなことを感じながら
下駄箱の靴達を眺めている今日この頃なのです。

昨日プラットホームで

2005-08-16 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
昨日、新宿から戻ろうと
ホームで電車待ちしていたところ、
フラフラしながらやっとっこさ飛んでいる
アブラゼミが私の方へやって来たと思ったら、
いきなり着ていたポロの裾に
しがみついてしまいました。
しかもその場で鳴き出したのです。

お盆休み中の昼下がりのホームは
人影もまばらとはいえ、
アブラゼミの声は各ホームに流れるアナウンスにも
ひけを取らないくらいに鳴り響き…
というか、これほどの至近距離でセミに鳴かれたことは
今までにないわけでして。

 何もよりによって
  私でなくってもよかったんじゃないの?

すぐさま払いのけても良かったのですが、
身体を震わせて鳴いているセミの
必死な姿を見てしまうとそれもためらわれ、
結局のところ電車を1本見送ることとなりました。

鳴り響くセミの鳴き声とともに
周囲の好奇の目やバツの悪さやいろんなもので
内心はものすごく葛藤してたんですが、
鳴き終えると見違えるような勢いで
ホームの屋根越しに飛んで行ったセミを見送りながら
ちょっといい気持ちにもなっていたりして…
ホント変なヤツだなと自分でも思います。

松静自然であること

2005-08-14 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
ブログタイトルにも使わせてもらっている
「松静自然」ということを改めて考えています。

「松静自然」とは体松、心静、自然ということなのですが、
この状態に自己をおくことの難しさを痛感します。
それはたぶん、自分の思いの方が
先行しているからだと思います。
“(その状態に)なりたい”という気持ちが
先走っているのでしょう。
わかってはいても、どこかでそんな思いがありました。

それが微妙に変化しているようなのです。
例えば、思いが情熱みたいなものだとしたら、
祈りみたいなものに変わってきたというのでしょうか。
もう少し抑制のきいた思いになってきたのかしらん。

まだ緊張は感じているのですが、
その質が少し変わってきたのかもしれないです。
今にして思えば、緊張にとらわれていた頃の
強ばりは体の内面からの緊張の現れだったのではないか
と思います。
とらわれていること自体が緊張を生んでいたのです。
今はあの頃に比べると
内面は柔らかくなってきているように思えるのです。
柔らかいというわけではありません。
あくまでも当時に比べたらの条件つきです。

そうなってくると、自然な状態に対する認識も
少し変わってきたような気がします。
あるがままの状態も自然といえますが、
松静自然の自然というのは、
自然界との調和状態をさしているように思えてきたのです。
何を今さらなのかもしれませんが、
今まで私が持っていた“あるがまま”のイメージは
自己中心的だったように思えたのです。
それでは自己と自然が存在していることになります。
今自分に起こっているいろいろな変化から
受けるイメージでは、自然と融合するような感じです。
境界がなくなるような感じです。

今、套路を練習していると気持ちが落ち着きます。
松静自然はやはり目標ですね。

トラの穴?

2005-08-11 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
このところの自主練習は
もっぱら陰陽や意識の向きに
興味が集中している。
套路練習を1、2回やったら
後はもっぱら動きの確認ばかり。

陰陽のバランスを意識することは
虚と実を意識することでもあるのだけれど、
これらを意識している状態を
自分の感覚で表現するとしたら
どんなふうになるのだろう。

動きながらの意識というのは
一カ所に意識が集中しているわけではないから
瞬時に伝わっているはずだ。
そうでないと混乱や渋滞が生じてしまうだろうと、
何となく考えていた。
つまりそのくらいじゃないと
忙しいのだろうと思っていたのだ。

ところがどうやらそれほどでもないらしい。
瞬時に伝えるものと
それ程でもなくてもいいものというように
優先順位みたいなものもあるらしいし、
系統の似たものを
ついでにピックしてきたりもするらしい。
どうやら効率的にはなっているようなのだ。
体の仕組みはほんとに良くできていると思う。

以前にも動作には
ピンポイントのタイミングがあることは
書いたと思うのだが、
このタイミングがわかってくるようになると、
動きが滑らかになってくるみたいだ。
滑らかというのは、より自然な動きという意味だ。

つまり自分の意思で動いてはいるものの、
それは動きの方向への意識だったりで、
自ら体の各部位を動かそうとするような
種類のものではないような気がする。

次はあっちに向かって動きたいと思うだけで、
体が自然にそちらへと向いてくれるような…
そういうタイミングがあるみたいな気がする。
つまり動きの制御のほとんどは意識であって、
力によってコントロールしなければならない部分は
ごくわずかなものなのかもしれない。
そんな気がしている。

その流れをつくるのが陰と陽であり、
具体的には動きの中に虚と実が
明確に現れるようにすることかと。
流れるためには差がないといけない。
高いところから低いところに流れるのは自然。
同じように重心を移動させるには
有から無への流れが見えてこないといけない。
これが孫式の伝統套路練習で得た
いちばんの成果かもしれない。

まだ心許ないのだけれど、
それでも自分の中で
意識感覚が変わってきているみたい。
混沌としていたものが
少しずつスッキリしてくる感じがするからだ。
おそらく動きの流れを先導する
意識と陰陽バランスを理解することは、
基本中の基本にして
実は神髄にも近かったりするのかも。
ひょっとしてトラの穴(虎穴)の前にいたりする?
ドキドキするなぁ

夏季休暇直前の最終練習にて

2005-08-07 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
教室が来週から一週間の夏季休暇に入るため、
昨日は事実上の最終練習日となった。

専科クラスは孫式の総復習の最終回にあたる。
全員での通し練習で
最長時間を記録したらしい。
開始時間を覚えていなかったので
自分では確認できなかったのだれれど、
タクサンの話では30分は優に越えていたそうだ。
やはり一回でこれだけの時間を使って動くと
導引したなあという気になる。
体のすみずみにまで運動した心地よさが
しみわたるような気がする。
伝統套路というのは良いなあ。

全体の統一感を意識でコントロールするのは
最終的な要求だが、
そこへ到達するためには、
ひとつひとつのコントロールが
正しくできていないと難しいことがよくわかった。
少しでも協調のバランスが崩れると
姿勢や動きにすぐ影響するので、
自分でも違和感を感じやすい套路だった
ような気がした。
ただし、より細かな協調となってくると
より微妙になってくる。
ちょっとした意識の過不足で
タイミングがずれたりするので、
練習する理由はいくらでもみつけられるのだ。

まだまだ上体に頼りすぎる傾向があるけれど、
歩法や重心の移動における
陰陽の意識が明確になるにつれて、
少しずつ上体の負担が減ってきているのが
わかってきた。
上体の負担が減った分
上への意識も明確になってきて
下肢との上下のバランスを
ごく自然な形で意識できるようにも
なってきている気がする。
こういう時の体の感覚は
あきらかに今までとは違う感覚。

基本科では、より厳密に協調バランスを
意識することをメインにして練習した。
動作のタイミングには、
ここをはずしたらダメというピンポイントがあって、
これがピタッと合った時というのは
信じられないくらいに自然に流れることを実感した。
自分で“あ、ココだ!”と思って動いたタイミングと
先生の“そうです”の声が同時だったので、
間違いないはず。
しかしまだ確実に同じポイントでは動けない。
微妙にずれるのだ。
それでもあの瞬間の感覚は覚えているので
必ずつかめると信じている。
こうして練習できることのありがたさを思う。