松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

理由なき反抗の果てに

2005-10-31 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
人間はどうして他人が気になるのでしょう。
自分と生き方も価値観も感性も違うのだから
合う合わないはあるのが自然だと思います。

自分が苦手とする人は、
得てしてこちらの思いに対しては
鈍感なようです。
それは相手が自分の思いに対しては
無関心であることもあるし、
相手へこちらの思いが伝わっていないとも
考えることができます。

苦手意識を持ってしまうと、どうしても避けたくなります。
気持ちが幾分ひけたマイナスのところから
相手へ届けるようなコミュニケーションを働きかける
ことになります。
つまり自分の気持ちがひけている分、
自分でハードルを高くしていっていることでもあります。
だから自分の気持ちしだいともいえます。
そう思って、時間をかけて何度となく
相手に働きかけてきたつもりでした。
でも状況は変わりません。

自分の流儀が相手には通用しないようです。
相手の流儀を使って
相手に伝えることは私には苦痛です。
この流儀はほとほと自分には合っていないのだと
思い知らされました。

何も相手の流儀を否定し
自分の思い通りにしたいわけではないのです。
相手は自分への理解を私に求めるばかりで、
どんどん私の心の領域を侵していることにも
気づかないでいること。
それを伝えるためにあの手この手を
使ってきましたが、相手には
全く届かないようです。
私はあなたの一部ではなく、私は私であり
他人なのです。それはあなたにとっても同じことです。
あなたはあなたであり、私の一部ではない。
あなたは他人です。
自我を主張したら次は他我の主張を聞いてほしい。
おたがいさまでいたいのです。

共存、協調というのは、現実的には
絶え間ない緊張関係の上に
存在しているものなのかもしれません。
決して安穏として得られるものではないらしい。

でも、できないことは無理しません。
当然のことながら万人を受け入れられるほど、
私はできた人間じゃないですから。
できないサービスはしません。
他のできる人がやれば良いことですから。
そのためにいろんな人がいるのですから。

どんな状況にあっても
松静自然であることを目指す。
そのためにはどれほどの精神力や意志を
要求されるものなのかと思います。
揺らがないのではなく揺らいでもじきに戻れること。
戻るべきポジションを知っている、
戻り方を知っていることが、
どれほどの勇気と余裕をもたらすことか。
目指すことは誰にもできることの公平さに感謝します。

姿勢で遊ぶ

2005-10-28 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
現在キャンペーン中の練習の影響もあるのか、
頭の中にいつも姿勢がある。

「姿」と「勢」。
個人的には姿とは形、容れ物みたいなもの。
勢は生き生きした感じを与えるもの、
生気のようなもの、
エネルギーのようなものかなと思う。

正しい姿勢というのは正しい形であり、
生気が自在に活動できるような
容れ物の状態だったりするのかななどと考えては、
骨盤の巻き上げをチェックしたり
背骨を真っすぐに維持する状態というのを、
さまざまな姿勢で確認してみたりして遊んでいる。
まさに遊び感覚に近い。
なぜならば、まだ姿勢を理解しているわけではないからだ。
検証中みたいなものだ。

正直なところ、基本姿勢以外は
これが正しい姿勢だと確信できるものは
まだ少ない。
姿と勢のバランスがよくわからない。
姿が正しくなければ、
つまり過不足がある状態であれば、
当然のことながら勢も満たされないだろう。
それはいい感じの風船になれない
ということと同じことではないか。

日常生活の動きにも
当然姿勢は関係してくるわけで、
改めて練習などと意識すると
わからなくなってくるから
遊び感覚で行ってみているわけ。

直接的には練習効果とはいえないかも
しれないのだけれど、
こういうところから突然に
閃いちゃったりすることがないとはいえない。
私の練習は動作練習だけではなく
遊びが主体だといってもいいかもしれない。

ある切実な思いから自分は導引練習をしてきただけで、
動作を覚えるために練習したことはほとんどない。
あるとすれば交流会の練習くらい。
自然に覚えてしまう程度の練習では
(自分の課題をクリアするには)
まだ足りない練習があるということなんだろうなあ。

動作は数をこなせば誰でも必ず覚えられるもの。
数をこなすとは、たとえばの話、
週1回練習すれば1ヶ月で4回。1年で52回。
毎日だったら1ヶ月で30回。1年なら365回。
これは極端だけれども要はそういうことだと私は思う。

だからといって毎日練習しなくちゃ
いけないというわけでもない。
私が言いたいことは動作要領に関しては、
くり返し動いていれば、誰だって覚えてしまうということ。
言い換えれば、動かなければ覚えないということ。
何回やれば覚えられるかなんてことには
意味がないと思う。
早く覚えればよくなるというわけでもないし、
動作は手段であって
目標はもっと別のところにあるのでは?
姿勢について考えているとそんな気がするんだけど。

太極導引をやればやるほど難しい
と思えてくるのは、
見た目の動き以外のものに
徐々に気づくからではないのかなと思う。
いつになったら気づくのかとか
どれくらいやればいいのかとじっと考える時間があるのなら
基本姿勢をとりながら動いて考えてみるとか、
そういうことなんじゃないのかな。

誰のためでもなく自分のためにやっているのだから、
答えはいつも自分の中にあるんだろうな
と思うこの頃。

一日生きれば体も疲れる

2005-10-20 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
今月に入ってから火・水に各2時間、
土曜は90分間を2コマ練習しています。
せっかく練習する機会を与えてもらっているので
気持ちも新たに参加してます。

普段なかなか見直したくても
見直せないでいた姿勢や呼吸などを
しっかり練習できるのが何よりもうれしいです。
改めて自分の体の言い分に耳を傾けながら
こちらの意思を伝えつつ、
お互いの折り合いどころを探しながら
練習している感じです。

先生から新たな要求が加わってくると、
新たな意識の種が蒔かれていることを感じます。
いままでと違う感覚が生まれてきます。
と同時に新しく意識が通い始めた部分にも
ある種の反応がでてきます。
それは筋肉痛であったり、汗のかきぐあいだったり、
緊張感との葛藤みたいなものだったり。

ちょうど3週目を迎えたところで、
腰が今までと違う感じになっているのに気づきました。
今までとは違う姿勢でちょっとした違和感を感じます。
“え?やり過ぎたのかな”と思ったのですが、
自分で感じる腰回りの感覚は
表面的にはあまり緊張感がないような
気がしています(いつもはもっと硬い感じで
筋肉サポーターを巻いているみたい)。
体の前で両手を上下に開いて
背骨を上下に伸ばすようにすると
ポキポキと鳴って調整ができるくらいの柔軟性は
あるみたいなのです。

もしかすると骨盤の巻き上げを励行していることで、
今までさぼっていた筋肉が
ちょっと疲れてきたのかもしれません。
そういえば整体を久しく受けていません。
整体は体のケアだけでなく、ソンの種ももらえるので(笑)、
体だけが求めているわけではありません。

養生とか導引といえば
古くさい響きに聞こえるのかもしれませんが、
たとえ言い古されたような言葉でも
中身はつねに新しいと私は思っています。
先人の智恵が
すべて正しい訳ではなかったとは思いますが、
少なくとも現代にまで伝えられ残ってきたものは、
多くの人達の実証に裏打ちされているのでは
ないかと思います。

例えば農事暦には
今日やるべき大切な農作業が記されています。
これってすごいことだなと思います。
つまり、そのときにしかできないことだけ記しておいて、
あとは裁量にまかすみたいな感覚。
自然の仕組みや変化を見極める能力がなければ
できないことだと思います。
昔の人は外せない決まりごとと自由裁量との
バランス感覚を持っていたということでしょうか。

ところが、いつの間にか人は
目先のことに気持ちを奪われ出して、
足下を固めることが足りなくなってきてしまったのかも。
一日の労は一日で足れりというのは
そういうことだったのかなと思います。

一日生きれば心も体も疲れるのです。
ということで明日は「整体の予約をとる」と
記しておこうと思います。

続・風船になる

2005-10-17 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
基本練習の見直し効果が出てきたのか、
ほんの数日前から
股関節の意識のポイントが変わってきている。
今までの股関節の状態は
ちょっと不自然なところもあったかもしれない
と思い始めるようになったからだ。

先生から頻繁に指摘されている骨盤の巻き上げ。
これを励行しようとすると
緊張感があったのだが、
ようやく姿勢を維持しようとすることが
自然に意識できるようになってきたらしく、
力みの方も抜けてくる気配をみせたりしている。
すると自然に下腹部も適度にゆるみ、
呼吸もいい感じになってくるようだ。
こうしてひとつの変化が
連鎖的に影響しているのが実感として
伝わってくると、ちょっとうれしい。

たとえば、股関節を開くという
言葉のイメージだけに頼りすぎると、
姿勢によっては肉体的な道理から
はずれるというか、
からだ本来の自然な動きを妨げてしまうことも
あるのかもしれない。
動きのイメージは体と連動させてこそのもの。

例えば先生にみてもらいながら
動いていて「今のはいいです」と言われても、
自分でその違いがわからないときとは、
自分の体の状態を(自分で)理解できていない
ということかと。
つまり自分の意思で(思う通りに)動いているとは
いいきれないのではないかと。

感覚を探ろうとするあまり
意識過剰になってしまい、
かえってわからなくなってしまうこともあるだろう。
つまり風船になる=適度な張りとゆるみの協調とは
精神にもあてはまるということなのかも。

風船になる

2005-10-15 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
キャンペーン開始から2週間。
今まで以上に充実した練習ができて
とても嬉しい。

何よりも基本を確認できることが大きい。
どういうわけか大切な基本であるはずなのに、
少しずつ自分で
変質させてしまっていることが少なくない。
はじめに説明をきいて
動作確認もしたはずなのに、
時間の経過とともに
基本からはずれてきてしまう。
先生に指摘されてはじめて気づく。
自分で修正できないうちは、
こうした基本に立ち返って
再確認する時間が必要なんだなと思う。

さて、今回新たに意識しだしたことの中に
“風船のような状態”というのがある。
外へと張り出すようなイメージ感覚なのだけれど、
なるべくこの状態に近づこうと思うと、
ある程度ゆるんでこないと
感覚がつかめないみたいな気がしている。
しかも風船が球体であることを忘れていると、
張り出すイメージがいびつになっていることに
気づかされる。おもしろいと思う。

全身を風船に見立てると
球体でバランスを考えるようになってくる。
手の位置、足の位置をそこに置くために
必要な前後左右上下の
それぞれの方向への意識があったことに気がつく。

ただそこへ置くのと、
明確に意識しながら置かれているのとの違いが
少しずつわかってくる。
こういう意識の働き方がわかってくると、
力は必要な時に必要なだけ使えばいいんだなあ
と思えてくるのが不思議。
でも、そのように感じたからといって、
すぐに風船になれるわけではないところも面白いし
好きだなと思う。
わかったと思ったことが
またわからなくなったりするのが
太極導引だと思うし、
諦めずに続けてこられたのも、
少しずつだけれど自分が身につけているものが
確かにあるからだと思う。

はじめから多くを望んでみても
人にはそれぞれ器というものがある。
他人の目からは
おぼつかない足取りに見えるかもしれないが、
自分のペースで自分の器を満たせるように
なれればいいのだと思う。

女性にしかわからないかも?

2005-10-12 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
太極導引を始めてから
実はずっと気になっていたことがあります。
それは下着について。

私の場合はブラジャーです。
あくまで個人的な意見ですが、
私にとってブラジャーは
なるべく身につけたくない下着の筆頭格です。
身につけたところで体型的に効果がない
というせいもありますが、
ブラジャー、ガードル類は好きではありません。
各メーカーがどんなに快適なフィット感を唱えてみても、
結局は締めつけることですから。

下着に限らず締めつけられることが苦手な私です。
はじめてブラジャーをつけたときの窮屈さは
今も忘れられません。
あくまで想像ですが、犬や猫がはじめて首輪をつけられたときも
こんな感じなのかなと思ってしまいます。

下着のフィッティングは今や常識と言われていますが、
日常生活の動きでフィッティングして選んだ物が
人間のすべての動きになじむとは限りません。
靴がこれだけ多様化してきたのも
そういう思考が反映しているのではないでしょうか。
下着だって同じじゃないのかしらん。

例えばダンサーは筋肉の動きに敏感です。
下着を着けないで練習する人が多いです。
最初は体のラインを気にするのかと思っていましたが、
自然な筋肉の動きを確認するため、
筋肉の動きを妨げないためなんです。
そんなに微妙なのかと聞いてみたら全然違うとのこと。
とくに練習時には
しっかり自分の体を把握していないといけない。
なぜなら衣装を身にまとった時に
意識で自分のリアルな肉体を感じながら動くためだとか。

プロのダンスの世界ほどの要求はないにしても、
太極導引もある意味で
体への意識は深いものがあります。
呼吸や動きに微妙に影響していないとはいえません。
ことに普段でも体調によって
下着が苦しく感じたりする私などは、
けっこうこれだけでもストレスになっている気がします。
気持ちの問題として片付けてしまうには
ちょっと抵抗もあったりして。
もう少し機能性の面で多様化されてもいいんじゃないかなあ。
とりあえずフィッティングの際は
単鞭や基本姿勢も取り入れてみようかしらん。

久しぶりの站トウ功

2005-10-10 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
水曜日の専科クラスは
現在キャンペーン対象クラスでもあり
練習時間に少し余裕があるせいか、
久々に站トウ功を行っている。

陳式の型を利用して行うのだが、
前回よりもさらに細かく意識を働かせて
協調させることに集中するように要求される。
站トウ功は外見こそじっとしているのだけれど、
内部はほんとに忙しい。
気がつくと呼吸が浅くなっていることも。
站トウ功をもっと丁寧に練習したら随分違うだろうな
と思うのだけれど、実行がともなわない。

今回の型は起勢と白鶴亮翅、斜形。
いつもながら基本意識が足りない。
ついつい甘くなる。
例えば背中側には緊張感、
腹側はゆるみの感じを保ちながら
円を意識する。
肩から後方側の腕にかけても
ゆったりとした円み(適度な張り出し感)の
イメージがあったりと、
関節にさえ緊張が走らなければ
自然に近い構えができるのだと思うのだが、
これがいまだになかなかうまくいかない。
それと自分の全体のイメージが
つかみきれていないのだろうと思う。
バランス的にも盲点がある感じ。

重心のありかについてもまだ甘い。
虚実をはっきりさせているつもりでも
重心の在処がいまひとつという気がする。
例えば白鶴亮翅の場合、後方の足側に
重心がかかるのだけれど、
掛け方をいままでと少し変えてみた。
これまでの掛け方だと
骨盤や股関節が緊張するような気がしたのだ。
重心が右側に寄り過ぎるというのかな?
ほんの少しだけ戻してみた。
自分ではバランス的には無理がなくなったような
気がしているのだけれど、
もしかすると体型のクセがあるために
本来あるべき姿勢を
苦しく感じていた可能性も捨てきれないので、
結論はまだ出せない。
鏡も使ったりして確認中。
ほんの少しのことなのだけれど
体感的にはそれなりの差があるかのように
感じたりするのもおもしろい。
動かないのに動きが変わってくるのもおもしろい。
站トウ功って不思議な練習法だと思う。

太極導引教室のキャンペーンが始まりました

2005-10-09 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
4日から太極導引教室の限定キャンペーンが始まりました。
今月から11月までの2ヶ月限定ですが、
未体験の方にはもちろんですが、
現行会員にとってもめったにない学習の場と
なっていると思います。

さて、そのキャンペーン内容ですが、
前半部は椅子に座って行います。
まず太極導引の基本姿勢を確認します。
背骨をまっすぐにするとはどういう状態にすることなのか、
体でその状態の感じを確認するのです。
いわゆる胸を張って背筋を伸ばすような
一般的な良い姿勢とは
ちょっと違うので戸惑うかもしれません。
それから呼吸導引と意識導引へと続きます。
こうして少しずつ心身をリラックスさせて
落ち着いた状態へと導いて行きます。

後半は一転して動作中心の内容となります。
前半で覚えた基本姿勢を
今度は動きながら維持する練習です。
静止しているときとは違い、
実際に動作中のときというのは
とても忙しくなります。
どうしても緊張感がでやすくなります。
そこを意識でコントロールします。
なかなか難しいことですが、
気持ちのよい集中ができます。

たぶん脳は忙しく働いていますね。
その時々の状況に応じて
相応しい心身バランスをとるように
適応させているのです。
その働きを助けるのが基本姿勢らしいのです。
この姿勢がいつでもとれるようになってくると
コントロール指令や情報の伝達も
スムースになるみたいです。

実際の練習内容は太極拳の套路練習となります。
火曜日は入門的な内容の8式、16式と、24式。
水曜日は陳式38式。
曜日で練習内容が異なりますが、
陰的な動作式と陽的な動作式の両方を
バランスよく体験できます。
こういう体験はなかなかできるものではないと思います。


 ☆太極導引教室“10・11月キャンペーン”
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   達磨キュアハウス 太極導引教室

導引の本質を実感したかも

2005-10-05 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
この2ヶ月くらい
ずっと疲労感を抱えていたところ
限界がきたらしく、
先週末から月曜日まで寝込んだ。
これまでも体調不良を含めて
少々のダウンはあったが、
ここまでダウンしたのは
おそらく数年ぶりのことかと。

一番こたえたのは、導引すら
する気力がなくなってしまったこと。
いままでは不調であっても
導引だけはやれていたのだけれど、
今回は呼吸導引がやっと。
気力が失せた状態というか、
とにかく休むことしかできなくて
ひたすら横になっていた。

こんなときにもフト中医のことが
頭をよぎったりするのがおかしかった。
たとえば気の消耗を補う意味でも
後天の気をとらないといけない。
食事がとれない(食欲がない)以上は
清気を取り入れることしかできないから、
しんどくても呼吸導引はしようとか。
ついでにマイナスイオンを
生成してみたりする。
気を蔵する腎も弱っているから
自己推拿というのか按摩してみたり。
稚拙な知識ながらも
あの手この手と探ったりしていたのだ。

昨日になって、ダウン後はじめて
食事らしい食事をとる。
気力はまだ減退していて
夜の教室に参加するかどうか迷うほど。
まったくいつもの自分じゃないなあと思う。
それでも昼間はほぼ日常生活に近い状態を過ごして、
とりあえず教室へと向かうことに。
ダメだったら見学すればいいと思いながら。
道中の車内でも他者に気圧されてしまう。
やはりまだ本調子には遠いし
弱っていることを自覚する。

今月からキャンペーンが始まっているので、
教室はいつもよりも長丁場。
前半の基本練習ではほとんど動きはなく、
姿勢や呼吸導引、意識導引が
中心だったにもかかわらず、
体のコントロールがきかないことに
ビックリする。
姿勢の調整をしたいのに微調整ができないのだ。
体がすんなりと思うように動かない。
神経がピリピリと緊張してしまっているような感じ。
体に力が入らず、やっと立っているみたいだ。
よく気力で保つとはいうけれど、
まさにそんな感じ。
これ以上面倒をかけるなとでもいいたげな
神経の緊張ぶり。
緊張感ってこれなんだよなあと実感。

後半は動作導引が中心となる。
前半でかなりきつい思いをしたので、
逆に動くことで
体が目覚めてくれればいいかなあと考えたり。

久しぶりの動作式だったりしたため、
精神的には緊張する状況だったのだが、
すでに十分緊張してしまっていたからなのか
むしろ軽くなるような感じがしたのが
なんとも不思議だった。
動作導引をしているうちに
徐々に生気というのか、
なんとなく元気になってくるのがわかった。

まだ疲れはあるし本調子には遠いけれども、
それでも今回のことでまた発見があった。
たとえば導引を行うことで
自らの体に働きかけている実感を得たことで
導引効果を確信した
といったら誇張に聞こえるかもしれないが、
こうして具合が悪くなってからでも
改善の余地があるのだから、
日頃から導引を行うことで得るものは
計り知れないのではないかと思ってしまう。
だが、そうなるためにはやり方というか、
それなりの方法があるような気がする。
そして習得が目標ではなく、
日々続けられるようになることこそが
目標なのではないかと。

5年目に入りました

2005-10-04 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
太極導引と出会ってから4年が過ぎました。
今月からは5年目に入ります。

うーん、5年目になってしまった
…意外に早かったかもしれないです。
こうして既に4つもトシを重ねちゃったんか、
という重みの方が勝っているかも。

実は5年は一つの目安にしていたんです。
だから5年は続けようと思って始めたのです。
その最終年に突入したということなんですよね。

いろいろありました。
まだまだ太極導引を理解していないし、
ましてや太極、陰陽のことも
太極拳という文化についても(武術としての側面も含めて)
まだまだわかっていません。
もっと知りたいと思います。
学びたいと思う気持ちが年々強くなっています。

自分が目指すのは松静自然ということで、
そのためにはいろいろな方法があると思います。
誤解を恐れずに言えば、
これが唯一の方法と決めつけることは
ちょっと違うだろうなと。
これは迷っているのとも違うと思うのです。
別のものに触れることで
視点が変わり再発見することもあるんじゃないかと
思うのです。

ただ、それを実行できるだけの力量を
身につけていることは必要かとは思います。
要は地力に相応しいことしか
できないようになっているんだと思うのです
(逆に地力を思い知るために
あえてやってみるという手もありかもしれませんが)。
だから下手に焦ったりする必要はなく、
そのとき自分にできることを
正しくやれるようになることが
結局は一番の目標になったりするわけです。
何事においても基本中の基本ですよね。

この基本が十分にできているかどうか。
これが5年目に入った自分への問いかけでもあります。