松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

練習メモ ー2019年 初稽古ー

2019-01-13 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
今年は自主練習会からのスタートだったので
昨日の練習会がいわゆる稽古初めとなるのかも。
ふと窓の外に目をやれば、
初雪らしきものがチラチラと舞っていたり。
いよいよ本格的な寒さを迎えての
寒中稽古の時節到来。


今年の目標を掲げて練習していた頃が懐かしい。
少しでも上手くなりたい、上達したい一心で
練習していた頃は遠くなりにけりといった感じ。
やがてというか、ようやくというか、
力に頼らぬ動きかたへの理解と実践に取り組み始め
時間をかけて少しずつ新たな段階へと進んでは
またじっくりと…。
飽きることなく繰り返し続けてこられたことへの
感慨というか感動というか。
やっぱり好きなんだよね。
そうでなきゃ続かないもの。

この頃は自分の動きひとつひとつに
ちょっとした愛着みたいなものを感じることも。

この身体と意があってこそのこの動き。
最近は身体の言い分に対しても
かなり聞き分けがよくなったように思う。
より道理があって無理がない方を選ぶと
結果、都合よく回るという事実。

今年もあせらず、たゆまず、あきらめず
淡々と平穏に…




太極拳養生という考え方-私見・太極拳導引04-

2018-11-08 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
太極拳導引の鍛錬内容には
組み手(対練)はありません。
推手をやることもあるにはありますが
そのときは通常行っている
導引に基づく練習とは切り離します。

導引的アプローチによる鍛錬の場合、
意識はつねに自身の内へと
向けることに集中します。
つまり自己の外の世界のことは一切無視して
自己内に集中するわけです。
とにもかくにもまずは自分に向けて
意識を集中します。

この一点をもってしても
太極拳養生鍛錬法としての太極拳導引が
武術要素を排除していることは明らかです。
なぜなら武術は格闘の術ですから
対峙する他者が必ず存在します。
武術的鍛錬は自己と他者との攻防を意識した
練習となるわけで、
当然のことながら他者にも意識を向けることになります。
自己のみに集中する導引的鍛錬と
自他双方の関係性を意識する武術的鍛錬との違いです。


そして推手もまた他者との組み手練習(対練)ですから
太極拳導引の練習とは本来相容れない内容かと。
それゆえ太極拳導引の練習として
取り組むにはちょっと無理があるわけで、
おそらくは推手っぽいことにすぎないのかもと
思っています。

ですが、それでもあえて相容れないことを
承知の上でやってみることで
改めて導引的鍛錬の本質を理解する機会というか
きっかけになることはあり得ることかとも
思うわけです。
いつもと違った刺激、視界から
導引三調を見直してみる試みというのは
けっして無駄にはならないだろうと。

もともと推手を行う目的は
自分の理解の程を確認するためのもの。
武術であれば日頃の套路練習で培ったものを
対人での攻防を通して確認するのでしょう。
そして導引的鍛錬も同じく
日頃の套路練習で培ったものを
他者と対する場面で味わう(体験する)
自身の内面にみるさまざまな変化を観察し
自己調整を試みて確認する
とでもいえばよいのでしょうか。

これらはあくまで私見であり
戯れ言みたいなものにすぎません。
それにこの先、考え方が変わることも
十分にあり得ます。
進化の過程でのつぶやきみたいなものですけども
こうしてたまには目先を変えてみることも
悪くはないのではないかなと。



練習メモ_打虎式02

2018-10-12 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
イマイチな打虎式のその後。
少しずつ改善されてきたような感触。

無為自然を思い出したことで
三調のバランスを見直してみた。

太極拳導引の場合に
重要とされるのが三調、
なかでも調心がカギとなる。

なかなか思うようにいかない打虎式に
イマイチな感じ、残念な思いに
とらわれているのではなかと
書き記したのが前回。

調心=こころをととのえる

鍛錬中は動作に集中しているので
まさかイマイチとか残念な気持ちが
影響するとは思わない。
では動作に入る前に行う
身体と精神の確認をする時はどうか。

繰り返し練習しているうちに
だんだんとこの確認が
甘くなってきてはいないか。

同じ動作を繰り返し練習しているのは
納得がいっていない状況にあるからだろう。
つまりイマイチ、残念な状況が続いているわけだ。
一回ごとに動作の結果を検証し
その内容を整理する。
そしてここまでの一連の情動もリセットする。



年齢とともに体力もおちてくるし
疲れを感じるのも早くなってくる。
当然集中力を維持することも難しくなる。
いろんな条件が変わってきている。
でも、それでも気づく能力は
年々あがってきているように感じる。

限られた時間で丁寧に行う鍛錬。
そっちにシフトしてきているようだなあ。

相応しい動きになっているかそうではないか。
そうでなければ何がそうさせているのか。
こころか身体か。
それを映す呼吸、気息のありよう。

実際の練習に三調をいかしていく。
三調を意識した練習。










練習メモ_打虎式

2018-10-08 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
楊式太極拳の伝統套路を練習し始めた当初から
打虎式はイマイチな動作。
自分のイメージする動きと
体現する動きとの間に溝がある感じ。

動きを細分化し、ゆっくりと動いていきながら
意識の流れと動作の流れとの協調を確認、
というか観察する。

そこで思い浮かんできたのが
無為自然。

忘れてたわ。



イマイチな打虎式にさせているものは
まぎれもなく自身の内にある。
それが何なのかも、
じつは気づいていたりもする。

たいていの場合、
身体のはたらきの邪魔をするのは
こころの動き、情動だ。
情動がよくないわけではない。
たとえば激情にかられたり
特定の感情にとらわれ続けるとか。
こうした情動は自然な感情の動きとは
違う感じ。不自然に感じられる。

もちろん心の状態だけでなく
身体の状態によることもあるが、
心の方が手強そうな印象というか…。


イマイチと感じているこの状態をどうみるか。
そこなんだろうなぁ。
表向きの表現には、体感的にしっくりこない、
違和感が残っているなど。
その裏側に隠されているのが
残念とか不満足な気持ちなんだと思う。

いまできることができていたら
いいんじゃないの。
この感じ、じつは大切なのかもしれない。

次のステップを明確に意識できるし
切り替え、リセットができそうな気がする。



集中からの

2018-05-18 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
おそらく集中しているときには
自身の状態など意識していないのかもしれません。
客観視できる余裕があるのは
集中が足りないからと考えるのがオチかも。
かつての自分もそうだったような気がしますが
いまはちょっと違います。

まず集中の質、集中の深度が
変わったと思います。
落ち着きがあり冷静です。
いわゆる熱中とか夢中といった
熱感や忘我の境地を連想させそうなものとは
一線を画した印象です。

つぎになぜかオープンな感じがします。

感覚的なものはもちろんですが、
肉体のような形あるものについても
親和性が高まってきたような感じです。


太極拳養生法としての太極拳導引は
体外ではなく体内へと意識を向けます。
その状態を保ちつつ一定の時間
(具体的には15〜40分くらいの間)
集中して運動し続けます。
座したり立ったままで
じっと動かずに行う集中鍛煉よりも
ゆっくりとはいえ、
複雑な動きをともなう太極拳運動を
全身のバランスをとりながら続けることは
かなりハードル高い方かと。

だからこそ少しずつの
変化の積み重ねになるのは必然で、
その一層ごとの時間的経過が
集中の質を変えていくのでしょう。


このように内への意識に専心する
太極拳導引鍛煉ですが、
内への意識の向け方が熟練するにつれて
どうやら内部を経由して外へと向かうような
意識の新たなルートを
見つけたりするのかもしれないなあと。
私のいうオープンな感じというのは
どうもそういう感じなのかなと。

内へ内へと向かっていたはずが
気づけば外に向かってた!?
しかも今までみて感じてきた
外とのつながり方とは
どこか違った印象にも思えたり。
まだちょっとうまく表現できない
微妙な感じです。

師は融合と表現したりしますが
内と外との境界が曖昧に溶けていって
内も外もなくなるという。

内は内だけでは存在しない。
外を認識できてこそ内を意識できるわけで。
だから内を意識しつづけるあいだは
外の存在を意識している状態なわけです。
ただし意識の濃度に差が出てくると。
内への意識が濃くなっていくにつれて
外への意識は薄くなる。
そうしてやがては内も外もなくなる。
それが内外融合の世界観かなと
いまは思っています。

その意味でいくと
内外の意識の濃度差が
大きくなってきたのかなとも。
その過程のなかでの一コマなのかもしれません。



でもその一方で
だから何なのだ、とも思っています。

感覚は一定のものではありません。
つねに移ろっていくものです。
水の流れや雲と同じです。
集中している状態は続いていても
いまこのときの意識や感覚は
つねに変化し流れているものですから。

淡々と粛々と日々鍛煉あるのみです。

松、静、自然。
これに尽きるのかもしれません。



太極拳養生という考え方-私見・太極拳導引03-

2018-04-13 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
不定期更新している太極拳導引考察。
ときどきこうやって
自分の理解内容を確認してみることも
学習のうちと書き留めているものなので
ほぼ自分用の備忘録のようなもの。



太極拳導引は太極拳の動きをもって
心身の運動機能の質を向上させることで
元気、健康、長寿をめざす養生法。


太極拳は武術ですが、
われわれは養生にいかすことを
目的としていますから
武術的な理解はごく基本的レベルまで。
まずは武術としての動きを理解した上で
導引的アプローチによる
意識を反映させた動き方へとアレンジ。
ベースとなる太極拳本来の姿をイメージして
導引的に動くのが太極拳導引。


太極拳導引の鍛煉は日常生活における
心身活動の質を向上させ
心地よく愉快に生きるための
智恵の修得をめざしているといっても
いいのかもしれません。

理にかなった動き方、身体の使い方、
対象と自身とのスタンスの多様性、
さまざまな事象、対象との程よいバランス。
状況に応じて
自身を自在に変化させることで
結果的には状況そのものを
コントロールしているような状態に導く。
そんな技を身につける。


状況や対象に対抗するのでもなく
逃れるわけでもない。
自分の尊厳(中心・芯)は揺るがすことなく
受け流す。

じつのところ、この受け流すのが難しい。
やっかいなこと、ものほどに
受けとめてしまえばストレスそのもの、
流す(スルー)ばかりでも新たなストレスに。
受けたそばから直ちに流す。
これをできるだけスムースかつ自然に
さらりとできたなら…。


そして個人的には親の介護と看取りの際にも
太極拳導引で得た経験が支えとなりました。
平常心を保っていれば
たいていのことは無事に過ごせます。

練習メモ_単鞭

2018-04-11 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
ここ数年ほど、専科の練習套路は伝統楊式となっている。
今期の伝統楊式は套路を通した後に
特定の動作を対象にして集中検証していく方式。


ということで今月は単鞭。

まずは前回(上肢の動きの検証)の復習をし、
それから今回の下肢の動きの検証へ。
下肢の動きを細かく分解しながらの解説。
内容的には股関節の使い方の確認が中心かと。



解剖学的にみれば
股関節と肩関節は似た者同士だが、
股関節の方が構造的に安定している。
それは肩関節が脱臼しやすいのに比べて
股関節は脱臼しにくいことでもわかる。
なぜなら頭部を含めた上半身を
受けとめ支えているのが股関節だからだ。

身体の構造からみても
上体の動きのきっかけは下肢の運動であり
下肢の動力を上体に伝えるポイントが股関節になる。
股関節をうまく使えるようになることが
上体の動きの質を決める。
安定した下肢の動きに支えられることで
上体の運動時の力み(緊張)も軽減されて
更にリラックスできるだろう。


個人的には
左右の股関節の協調
開合のタイミングと重心移動
体軸との関係などが課題になるのかなと。


練習メモ_練習と鍛煉

2017-11-08 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
今年の練習会スケジュールが後半にさしかかった頃
師から練習と鍛煉について話があった。

自分が理解できた範囲でまとめると
練習は動作の型や套路を覚え理解するために行うもの。
鍛煉は只ひたすらに集中して動き続けるもの。

運動としてとらえれば両者ともに
それぞれの効果が得られるが、
内容的にみると、やがては鍛煉の域で行いたいものだなと
思わせるものがあると感じた。

但しこれは両者を比較して優劣を問うているものではない。
練習の積み重ねの先に鍛煉はあるし
鍛煉内容は練習の質が大きく影響すると思うから。
どちらも等しく大切なものであり、切り離せないもの。


個人が主体的に行えるのは練習と鍛煉だが
練習会のように複数で指導を受ける環境では
どうしても練習が主体となる。
だから「練習会」なのかもしれないけど。

師がなぜこのタイミングで話されたのか。
これまでの師の指導の仕方から推察すれば
これはもう次なる指標に他ならない。
めざすは、それぞれなりの「益寿延命不老春」。


太極拳導引はあくまで個に焦点をあてる。
内観を主とするので
内なる一体感を味わうことで整体観を体感として味わう。
そうすることで協調からうまれる和みを覚(し)る。
その感覚を磨きあげていくことが鍛煉なのかもしれない。

個という、ある意味狭い世界での調和を体感し
理解を深めていくことで
やがては外的なるものとの協調へと広がっていくのだろう。


鍛煉は孤独であるからこそ
個性を尊重した練り上げが可能となる。
そして養生もまたその人の体質気質といった個性を
尊重する考え方がベースとなる。

太極拳導引が養生法として理にかなっていることは
こうした背景からも理解できる。






揺らいでも意はブレず

2017-06-08 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
この2年ほどの間に相次いで親を見送ったり
自身の肉体的精神的変化をしばしば自覚するなど、
内外環境の変化が活発になってきたところ。
それでもどうにかこうにかしのげているのは
太極拳導引で培ってきた修養の賜物かと。


長年練習してきていても
自然現象としての肉体的老化
例えば筋肉量はそれ相応に落ちてきているし
筋力も落ちているだろうと感じている。
こうして日に日に変化している自分の状態を
自分で体感できていること、気づけていることが
自分の身を護っているように思う。

自覚からくふうが始まる。
くふうは工から巧へと進化の段階を経るみたい。
同じ運動にみえても、身体の使い方や
運動に対する理解の仕方などはさまざま。



従来のやり方理解の仕方が通用しなくなった状態とは
心理的にも安定(静)から
不安定(動)への変動が起きている。
変動はすなわち動揺、揺らぎ運動でもある。
肉体的にも(外)心理的にも(内)
揺らぎの中でバランスを求めている最中の状態かと。

平静な状態に近づくためのカギは何か。
「用意不用力」の“用意”に集中することかと
今の段階では(自分は)思っている。

自分の現状ではまだ一時に全体を
意識でコントロールすることは難しく、
したがってポイントを絞って取り組むようにしている。
いかなる状況にあっても慌てずに落ち着くこと。
その上で意識的に動きを制御することに集中する。

安定を求めるために、バランスを取りたいがために
とっさに出てしまう反射的な動き、反応を
極力しないように心がける。
そうした習慣となっている言動・クセをやめていく。
無意識レベルで行っている物事に気づくこと、
そして意識的に確認していく。そんなことの繰り返し。

おいそれとはいかないだろうと思いつつも
それでもコツコツと太極拳の動作練習を重ねて来た。
その成果らしきものが日々の暮らしのなかにも
じょじょに反映してきているみたいに感じるこの頃。
太極拳的な暮らしがしたいという思いは
さらに強くなってきたかも。



春来草自生(春来たらば草自ずから生ず)

2017-01-03 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
季節は人間の計らいとは関係なく巡っています。
冬の寒さ厳しい時節に
どんなに芽を出そうとしてみても
無理なものは無理。
南風が吹いて暖かくなれば
黙っていても草木は自然と芽吹くもの。


その時がくれば、なるようになる


昨年は母の死から始まり父の入院で暮れました。
人がひとり亡くなることの悲しみに浸る間もなく
社会的手続きに追われまくって一年が過ぎていった。
そんな印象です。

それでも心身のバランスを大きく崩すこともなく
なんとか乗り切れたことに安堵しています。

私を支えてくれたのは
周りの人達による有形無形のサポートであり
太極拳導引で培ってきた養生哲学にほかなりません。

いまそのときに集中し、その後はスッキリ解放する。
引きずらない、気持ちの切り替え、リセット確認。
煩雑なことはできるかぎり切り分けて
シンプルに整理し考え受け入れる。
慌てずにひとつひとつ丁寧に向き合う。


日々の運動練習は減りましたが
精神面の練功は磨かれたように思います。
そのおかげかもしれませんが
鍛錬で要求される課題への理解も
また一歩踏み込んでいけたようにも感じます。

その時がきたら、なるようになる

その時を迎えるためには歩みを止めない。
半歩でもいい、意識だけでもいい、
とにもかくにも止まらないこと。