最近、元気ということばを
あまり耳にしなくなってきたように感じます。
お元気ですか?というように
あいさつ代わりに使うことはあっても
自分の身体やこころの状態を
言い表すことばとしては
あまり使われていないような気がします。
現在は元気よりも
健康の方が身近に感じるのでしょうか。
これはあくまで個人的な意見ですが
元気と健康とでは体や心の見方・とらえ方が
違うのではないかなと私は感じています。
私にとっての元気とは
生命力のようなものです。
命がある限り備わっているもの。
そして元気の程度、
どのくらい元気なのかということは
本人がいちばんわかっているもの。
そんな気がしています。
いってみれば元気は
本人の主観によって左右されるものかな。
ですから他者からみれば
とくには問題もなさそうにみえても
本人が不調を訴えたりすれば
おそらくその人にしかわからない
何かがあるのだろうなと思ってしまいます。
そうかと思えば、病気で療養してても
穏やかな笑顔で話しかけてきたり
力のある眼差しを向けられたりすると
病んでいる人とは思えなかったり
自分よりも活き活きしてみえることがあります。
こういう場面に遭遇したときの私は
元気という視点から
(その人を)みているのだろうなと思います。
健康には元気とは少し違った要素が
入ってくるのではないかと思っています。
健康という視点には健康とされる一定の状態が
数値データに置き換えられて用意されています。
つまり健康は検査情報の収集、照合、判定が
できるものでもあるのだなと。
いってみれば健康診査や健康診断は
健康状態における問題点を探すのが目的です。
健康であるための一定の条件に
適合するかしないか振り分けるシステムとも
いえないことはないかと。
適合すれば問題なし(健康といえる)
そうでなければ健康指導や加療へと次のステップに。
もちろんこれは保健制度としても
効率よく考えられた優れたシステムだと思います。
ただし、健康基準値の設定しだい(さじかげん)で
健康とされる範囲が拡大縮小する点は
留意しておくことも必要かなと私は思っています。
というのも基準値に近い数値を維持している人は
基準値が変わっただけで
それまでの状況が一変する可能性があるからです。
いまのご時世、健康上の問題の有無は
生活全般に大きく影響しますから。
自分の体の状態を自分で把握しておくことは
気持ちの上でも大切だと思います。
健康という視点だけで考えていると
何となくもやもやっとしてくる部分が
正直あるのです。
おそらくは主体性の問題なのかな。
病を招いたのは自分、治すのは自分の体。
最終的には自身のあり方なんですよね。
自分が変わらないと…ってことです。
さまざまな健康情報が巷には満ちあふれてます。
いたずらに心配や不安を煽る状況は
立派なストレス源です。
それだけで血圧が不安定になったり
血糖値が上がることもあります。
健康を気遣う人ほど、心配性の人ほど
この手のストレスには弱かったりします。
触らぬ神に祟りなしです。
自分を不安にさせそうな情報を自ら断ってみるのも
ひとつの健康法となり得るかもしれません。
健康であることにとらわれすぎるあまり
自分の体と向き合うことを忘れてしまうことは
ひじょうに残念なことだと思います。
健康とは、元気とは何なのだろうと
改めて問い直してみているこの頃です。
あまり耳にしなくなってきたように感じます。
お元気ですか?というように
あいさつ代わりに使うことはあっても
自分の身体やこころの状態を
言い表すことばとしては
あまり使われていないような気がします。
現在は元気よりも
健康の方が身近に感じるのでしょうか。
これはあくまで個人的な意見ですが
元気と健康とでは体や心の見方・とらえ方が
違うのではないかなと私は感じています。
私にとっての元気とは
生命力のようなものです。
命がある限り備わっているもの。
そして元気の程度、
どのくらい元気なのかということは
本人がいちばんわかっているもの。
そんな気がしています。
いってみれば元気は
本人の主観によって左右されるものかな。
ですから他者からみれば
とくには問題もなさそうにみえても
本人が不調を訴えたりすれば
おそらくその人にしかわからない
何かがあるのだろうなと思ってしまいます。
そうかと思えば、病気で療養してても
穏やかな笑顔で話しかけてきたり
力のある眼差しを向けられたりすると
病んでいる人とは思えなかったり
自分よりも活き活きしてみえることがあります。
こういう場面に遭遇したときの私は
元気という視点から
(その人を)みているのだろうなと思います。
健康には元気とは少し違った要素が
入ってくるのではないかと思っています。
健康という視点には健康とされる一定の状態が
数値データに置き換えられて用意されています。
つまり健康は検査情報の収集、照合、判定が
できるものでもあるのだなと。
いってみれば健康診査や健康診断は
健康状態における問題点を探すのが目的です。
健康であるための一定の条件に
適合するかしないか振り分けるシステムとも
いえないことはないかと。
適合すれば問題なし(健康といえる)
そうでなければ健康指導や加療へと次のステップに。
もちろんこれは保健制度としても
効率よく考えられた優れたシステムだと思います。
ただし、健康基準値の設定しだい(さじかげん)で
健康とされる範囲が拡大縮小する点は
留意しておくことも必要かなと私は思っています。
というのも基準値に近い数値を維持している人は
基準値が変わっただけで
それまでの状況が一変する可能性があるからです。
いまのご時世、健康上の問題の有無は
生活全般に大きく影響しますから。
自分の体の状態を自分で把握しておくことは
気持ちの上でも大切だと思います。
健康という視点だけで考えていると
何となくもやもやっとしてくる部分が
正直あるのです。
おそらくは主体性の問題なのかな。
病を招いたのは自分、治すのは自分の体。
最終的には自身のあり方なんですよね。
自分が変わらないと…ってことです。
さまざまな健康情報が巷には満ちあふれてます。
いたずらに心配や不安を煽る状況は
立派なストレス源です。
それだけで血圧が不安定になったり
血糖値が上がることもあります。
健康を気遣う人ほど、心配性の人ほど
この手のストレスには弱かったりします。
触らぬ神に祟りなしです。
自分を不安にさせそうな情報を自ら断ってみるのも
ひとつの健康法となり得るかもしれません。
健康であることにとらわれすぎるあまり
自分の体と向き合うことを忘れてしまうことは
ひじょうに残念なことだと思います。
健康とは、元気とは何なのだろうと
改めて問い直してみているこの頃です。