松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

実りある練習ができたと思う

2006-02-27 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
陳式38式の今期最後の練習は
一回通した後は個人練習形式で、
各自で気になるところをチェックしたり
学んだばかりの纒絲について
自分の体を使って確認してみたりと、
最後の最後まで学びの多かった陳式だった。

纒絲についての理解はまだまだ曖昧な状態。
とにもかくにも
余計な力が入らないようにすることが大事。
比較的大きな動作は円をかくように見えるが、
その円軌道は手や腕だけではつくれない。
腰や背骨、肩、肘、手首、指先へと
伝導しているものがあることは感じている。
それらが協調したときに
自然と流れるような感じになるみたいだ。

また、旋の概念についても
いままではあまり螺旋を意識していなかった。
今まではただ見た目の円をかいていただけで、
正確な旋の意識は持ち得ていなかったことになる。
この違いは大きいなあ。

ひと連なりの意識というものを
改めて見直しながら
自分の動きの状態を確認していくと、
例えば肘と膝、肩と股関節の連関を再確認できたりする。
当然、下肢の動きへの意識も高まってくる。
ぎこちない動きになるのは
上体と下肢とのバランスや
体の左右のバランスに問題があったりして、
体がひとつにまとまらない、
協調できないでいることだとわかってくる。
不調の原因はそういうことだったのかも。

ほんのちょっとの偏りが全体の流れを崩す。
このあたりはトリノオリンピックでも
ほんとに学習したこと。
バランスを崩す原因だけなら世界のトップクラスも自分も
なんら変わるところはないのかも。
取り組んでいることは
案外共通する部分もあるのかもしれない。
体のバランスが取れてくると
こころの方も自然体になってくるものらしい。
まさに一本の糸のように繋がっているのかもしれない。

今週でひとまず陳式とはお別れです

2006-02-22 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
今週で大好きな陳式ともいよいよお別れです。
再会は早くても一年後になるわけで、
名残り惜しい気持ちがつのります。
もし好きな流派の套路で
導引練習ができることになれば、
おそらく陳式太極拳を選ぶような気がします。

もちろん動きの緩急や発力、剛柔の対比、
大らかさと繊細さをあわせ持つ
動きの美しさも大きな魅力には違いないのですが、
太極拳の拳理や思想の原型が
シンプルな形で宿っているように思えたことも
影響していると思います。

たとえば陰陽虚実にしても
動きのひとつひとつを意識的に行える場合と
そうでない場合の感覚差が、
自分の中では比較的わかりやすく感じました。
陳式が太極拳の源流といわれていることを
知識としてだけではなく、
改めて身をもってなるほどなあと
感じる機会を得たというか、
とりあえず自分の中では
さらに興味ある存在になってきたように思います。

自分でもどうして陳式に
格別の思い入れをもったのか、
よくわからないのです。
なぜ陳式が気になるのか、ひかれてしまうのか、
その思いのもとを
自分でも知りたい(探りたい)のかもしれないです。
思いとは裏腹に、自分には不向きかもしれない可能性も
ないとはいえないのに、なんとも因果なものですね。

来月からの専科クラスは
水曜が伝統楊式、土曜は孫式伝統式(再)となるそうです。
次は陳式の時間枠もぜひに(笑

なめること、挑戦的なこと

2006-02-20 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
人は簡単そうに見えるものには
つい油断してしまいます。
適度な緊張が必要とは良く言われることですが、
では、その適度な緊張とはいったいどの程度のものを
いうのでしょうか。
たしかに個人差はあるものの“適度”という点ではみな同じ。
私自身も自分に適した程度を知りたくて
練習を続けているようなもので。

さて、油断することを
もっと通俗的に言えば「なめてかかる」
という表現になるのかもしれません。
なめることは決して余裕があることではありません。
むしろ隙がある状態かと思います。

そしてもうひとつは挑戦的な心理状態について。
挑戦とと“挑戦的”なこととは
違うような気がしています。
今回の場合は“挑戦的”な状態についてです。

挑戦的になっているときには、
どうも心理的にも肉体的にも力んだ状態に
陥りやすいのではないかと思います。
先生からも再三指導されてきたことですが
「ちから」と「力み」は確かに違うと思います。
「ちから」とはその人が持ち合わせた肉体的精神的要素を
無理なく自然に協調させることで生じるものかと。
一方の「力み」とはアンバランスな状態で生じたもののことであり、
不自然な印象を与えるような力感といえるかもしれません。

能ある鷹が隠している爪は、
実は自身の心に向けられているのかもしれないと、
ふと思ったり。
謙虚であることの美徳は
己に向けられた眼差しの深さであり
強さなのかもしれません。

心を空っぽにしていれば、
さまざまな思惑にも動ぜずにいられる
ということなのでしょうか。
意識は内へと向かいながらも
むしろ広がっていくような、
深く集中するほどに
開放されるような気がするというと、
一見矛盾していそうですが、
他に表現のしようもないような…。

対象の両面性を認めることで
変化に動じなくなれるということなのかもしれません。
仮に掌を返されたとしても、
もともと手には甲側と掌側があるのだから
ひっくり返ること自体は自然なこと。
そういうこともあり得ると、予め思っていさえすれば
動じることもなくなるような気がします。

もしかすると、なめたり挑戦的な状態にあるときは
こうした予測や予想に偏り(思い込み)が生じているのかも。
詰めの甘さというのも同様のものかもしれませんね。
偏った視点から対象を見ているうちは、
本質は見えてこないということでしょうか。
ああ、耳が痛い…。


チャンスというもの

2006-02-16 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
最近になって、いろんな場面で
やりたくてもやれない状況が徐々に増えてきました。
そうするとチャンスに対する考え方も
少し変わってきたような気がします。
何らかの理由でチャンスを逃したとしても、
またいつかチャンスはくるのかもしれませんが、
でもそれは過去に逃したチャンスが
再び巡ってきたわけではなく、
全くの別物なのではないかと思うのです。

チャンスとはその時に動けるから
チャンスなのであって、
動けないときはただの波なのかもしれません。
したがってどの波を選ぶか、いつ動くかによって
チャンスがもたらすものも
微妙に異なるのではないかと思うのです。
だからこそ自分で選ばなければ意味もなく、
何も始まらないのかもしれません。

波を選ぶには準備も条件も必要です。
そういう環境によって
自分自身も影響を受けて変化し続けているのですから、
その時々のチャンスは
常にそのとき一回限りのものといえます。
だから慎重に選んでも直感に頼って選んだとしても、
その選ぶ行為そのものがチャンスのようにも思えてきます。

「また今度」というのは
希望をつなぐことばともいえますが、
同時に何かを諦めたことばでもあるように思えるのです。
「また今度」が「今度こそ」になるとき、
再びチャンスが訪れると信じて
準備につとめている人には、
よく似た同じようなチャンスが巡り来るものなのかも。
そして迷わずチャンスをつかむのだと思います。

最近の姿勢意識

2006-02-13 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
最近また姿勢について
いろいろと検証しているところ。
どうもこの頃自分の中で骨盤の巻き上げ感覚が
少し変わってきているような気がしている。

基本的には大差はない。
背骨を中心としたひねりを多用する導引では、
ひねる動作を確実に行うには腰を主導として
背骨と骨盤を一体化させた状態を保つ必要があると
理解している。
そのために上体と下肢をつなぐ骨盤を
巻き上げるようにすることで、
上下の一体化を図っているのだろうと。
さらに背骨を上下に牽引するイメージをもつことで
背骨のS字の状態が小さな(ゆるい?)カーブになる。

このときの体の協調ぐあいをチェックしてみると、
自分の場合はいつも下腹部の緊張感が
強くなる傾向がみられる。
基本姿勢では胸や腹部はある程度のゆるみがあり、
背後はやや緊張感がある状態となる。
その下腹部の緊張がやや強めな気がしているのだ。

 
そこでいろいろとためしてみたところ、
アゴの状態で胸や腹の緊張感が変わることに気がついた。
あごをひけば緊張し、アゴを伸ばせば(前に出す)ゆるむ。
しかし、ただアゴを伸ばすだけでは猫背になる。
そこでさらにアゴを伸ばしながら
首と頭を上に伸ばすように意識する。
で、また全身の状態を確認して
気になる緊張の有無をチェックする。
こういう微調整をくりかえしていく。

そうこうしているうちに
骨盤の調整にかかるときには骨盤だけではなく、
股関節もセットで意識するようになったのだ。
こうすることで上体と下肢との一体感を
感じられるように調整してみている。
なんだか自分の体が
ガンダムになったみたいに思えてきたりして(笑

調整には単品チェックの積み重ね
という側面もあるけれど、
同時に相互間の協調ぐあいのチェックも
意識していかないと
全身の調整にはならないのかも。
何をいまさら的な、
しごく当然で基本的なことなのかもしれないが、
協調性とは関係性のバランスだから
対象は複数である(はず?)。
ある動き(変動・変化)に対応する協調操作は
主たる動きだけではなく
必ずどこかで行われているのではないか。

全体をみれば複雑に絡み合っているようにみえても、
基本は一本の糸でつながっているような
シンプルなものではないかと、今のところは思っている。
つまりは陰と陽のバランスだろうなと。

その協調の糸が幾重にもつながって構成されているだけ。
そしてその糸の感覚が鈍くなることが
緊張し過ぎた状態なのかも。
流れるような動きのときには実際に協調の糸の感覚が
手に取るように感じられる状態なんだろうなあ。

緊張感とは実際に流れが止まっている状態なのだろうか。
つまり全身の協調性からみても
異質な印象を与える部分なのかもしれないなぁ。
やはり姿勢が基本であり、
姿勢をつくることが協調性を知ることにもなるようだ。
左足の腱の腫れも
協調が破れている状態を現しているんだろうなあ。
姿勢が変わることで立ち方や体重のかかりぐあいも
変わっているのかもしれない。

加齢とともに心身は変化するし
予期せぬことで変化を余儀なくされることだってある。
それはだれにでも起こることだが、
たとえ同じ現象でも状態はそれぞれ異なる。
そのときどきで人それぞれで
理想的な姿勢は微妙に変わってくる。
自分が目指しているものの輪郭が
少しずつハッキリしてきたのかもしれない。

交流会は楽しいですよ

2006-02-11 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
先日、導引仲間のマダムから初コメントが寄せられました。
彼女は今回初めて個人種目に挑戦したのです。
これまでずっと尻込みし続けていたのですが、
ようやく覚悟を決めて参加表明をして臨んだのでした。

彼女もこの一ヶ月間の練習と当日の表演によって
何かをつかんだのだと思います。
本人は気づいているのかどうかはわかりませんが、
明らかに意識が変わっているように見えます。
というか、目の色が違いますね(笑)。


交流会に出場してみると
何かしら得るものがあります。
なかでも個人種目の場合は
自分自身と向き合うきっかけとなることが
多いような気がします。
私自身も個人出場をしてからの方が、
もっと自分を知りたいと思うようになったし、
そのための方法をあれこれ考えたり
個人練習をくふうしてみたりと、
主体的に行動することが増えていきました。
そして練習に対するスタンスも
少しずつ変わっていったように思います。

自分で自分の状態をわかっている、
もしくはわかろうと意識していると、
先生からいただく指導にしても、
その内容が自分のどの部分を指摘されているのかが
理解しやすくなってきます。
自分の意識すべき点がさらに整理されてくるのです。
こうして今までの練習が
より意識的な練習へと少しずつ変化してきます。
すると今度は、みんなで同じ動作練習をしていても
自分の課題をもって練習することが可能になってきます。

太極導引は本来ひとりで行うものですから、
こうした状況は
太極導引の理想的な練習に近づいているとも
いえそうですね。
ですから今回、専科生が全員個人出場を果たしたことは
我々にとっても、教室にとっても価値あることかと。

交流会は見るだけでもそれなりに楽しめますが、
やはり出場してこそのものだと思います。
表演してみた者にしかわからないことが確かにあります。
何でも経験してみることは楽しいです。


もう一度はじめから

2006-02-08 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
交流競技会が終わった。
当日は開講以来の仲間が何人か応援に来てくれて、
久しぶりに旧交をあたためることができた。
やはり仲間はいいものだと思う。
基本科の仲間達も顔を見せてくれたので、
交流会の会場の雰囲気や印象を
つかんでくれたことだろう。
雰囲気だけでも知っているというのも
経験のうちだから。

今回も全体的には満足のいくものだったと思うが、
個人的には悔しさが残った。
やれることができなかった自身に対する悔しさだ。
できなかったことは身についていない
ということの内容証明みたいなものだから、
あっさりと認めてしまうのがいちばん。
いつまでもそこに止まっているわけにも
いかないじゃないの。

真っ先に思ったことは
「状況に応じて対処させるものは何なのか」ということ。
変動、変化についてもう一度考え直してみようと思っている。
自分が応じようとする対象とは何なのか。
応じる目的は何なのか、最終的に求めるものは何か。
不動であるべきはその一点ではなかったのか。
焦点がぼやけてしまったことが
些細なことで集中が途切れてしまった原因だ。
もう一度はじめからやり直し。

悔しさはそれが次にいかされることでしか消えない。
負のエネルギーにするのではなく、
それを次につなげるように導いていくことも
コントロールだと思う。
学びの材料はどこにでも転がっている。
やるかやらないか。
試されるのは自らの意志と誠意(思い)であり、
試しているのも自分自身。

何かが違うような…

2006-02-03 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
今度の日曜日が交流競技会です。
最終調整に入っているわけですが、
自分の状態をみていると、どうも今までとは
何かが違うような感じがしています。

具体的には言えないのですが、
ただ去年あたりから
年齢的にも心身の変動期を迎えている様子。
この変動の中で諸々の未知との遭遇に
やや戸惑いながら練習しているわけです。
とはいっても常に意識しているわけではないのですが、
ふとした瞬間にあれ?っと思うことは
確実に増えており、
人知れず“侘び寂び”の心境になったりしているわけで(笑

いままでは事前に緊張し尽くして
当日を迎えるという様相でした。
どちらかといえば
練習に明け暮れていた方かと思います。
これまでは集体演目がメインで、
幸か不幸か動きをリードするポジションに
立つことが多かったので、
やはり責任感のようなものが
後押ししていたのだと思います。

今回の集体は順調そのもので
とくに気になるところもなく、
その影響なのか自主練も
拍子抜けするくらい淡々とした状態なんです。
どうも自分のことだけとなると
いいかげんというか、
あまり頓着しなくなるようです。
まったく暢気なもんです。おもしろいものですね。

こんな調子ですから、
一応“いよいよ”と言ってはみるものの
あまり実感はなくて、
いつもの練習日の翌日に
たまたまもう一日増えるみたいな感覚なんですね。
おそらく今練習している陳式が
いまだ習得中ということも一因なのかもしれません。
あくまで練習の一環という意味では
ほんとにそんな感覚に近いです。

去年までは、やるだけやったんだからと
それなりの“けじめ”みたいなものがあったのですが、
今回は自信もないけど焦りもないみたいな、
特別意識することもなく
いつもと変わらない状態で当日を迎えることに
なるらしいです。
個人的にはプチ高揚感って好きな方なんですが、
今のところテンションもやや低めですね。

タイム・トライアルに挑戦中

2006-02-01 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
先週までの練習で、表演時間が
規定時間を越えていることがわかったので、
時間内におさめるべく調整を行っている。

実際に規定時間内で動いてみると、
自分が身体で感じる印象も変わってくるようだ。
あいにくと二日連続の雨なので、
もっぱらイメージでのタイム・トライアル。
発力の前後の放松がスムースにできなかったりすると
タイムロスになるので、
またまた発力動作を見直したりしている。
まあ、何とかなるんじゃないのかな。

とりあえず今夜も練習があるので、
そこで“規定時間”にどれくらい身体がなじんでいるか
確認してくるつもり。
もし、だいたいの線が出たら
イケてる~と思うことにしよう(笑