松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

GWが始まりました

2006-04-29 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
GWが始まったようですね。
でもフリーランスにはあまり関係ありません。
そうですね、教室がお休みになることくらいでしょうかね。
ですからこの期間は自主練が中心となります。
日頃先生から指摘され続けている
無駄な力を入れないで動くことを心がけたいと思っています。

夏に実施の可能性が高い研修旅行にむけて
稼がなくっちゃなんですが。
石油不足がたたって費用がかなり高めらしいです。
行くとなったらせいぜい元をとるつもりで
しっかりと研修してきたいなあ。

そういえば最近気がついたのですが、
物を買いませんね。
ほしい物が出てきてもすぐには買いません。
ケチといえばケチなんですが、
自分の気持ちを確かめている時間が長いです。
デジカメも買い替えたいんですが、
せっかくの一眼レンズを無駄にしたくなくて
待ちの状態が続いています。
やってみたいことがあるんですが、じっと待ってます。

将来的には地方住まいも考えていたのですが、
自動車免許も持っていないので
移動にかかる交通費や老齢期の医療機関への通院環境など
現実問題を知るにつけ、
やはりそうそう移住もできないのかなあと思ったり。

仕事のシフトも見据えながら、
ややまじめに生活の見直しなども考えたりしています。
でもって頭も肩もコリコリ状態になったりして(笑
整体を受けたりしています。



器と水の関係

2006-04-26 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
小さい頃から洗濯機の中の渦を見るのが好きだった。
洗面器に水を張っては
ぐるぐる回して遊んでいたのは自分でも覚えている。
とにかく水がたまっていれば
ぐるぐる回すのが好きだったみたい
(後に映画『太極張三豊』のワンシーンを見てウケまくり)。

太極拳でも太極導引でも
例えとしてよく用いられているのが水。
「水の流れのように」
「水が持っている柔らかさと強さをイメージする」とか。
老子の思想の影響もあるのだろうが、
いずれにしても水を見ているのは飽きない。

水が球状になるのは表面張力が働くから。
つまり水の表面が自ら張り出そうとする力によって
球状になるわけだ。
そして外に拡張しようとする力は
同時に中心に向かうような求心力も持つことになるのかな。
ということは、もし水が球体にならないときは
何らかの外的な条件が加わることによって
球状になることを阻害されている状態といえるのではないか。
つまり液状の水には機会さえあれば
いつでも球体になれる状態が
常に備わっていることを意味するのではないか。
柔らかくて強い、しかも変幻自在、
停滞すれば腐敗する、何とも不思議な水だこと。

これまでも何度か教室でも
聞いてきたことなのだけれど、
放松と水の玉のイメージは結びついても、
実際の動作練習の時には
姿勢と水の玉のイメージが今ひとつ
自分の中ではハッキリと結びつかなかった。
そこでとりあえず自分の段階に相応しそうなイメージを
探してみた。
そして行きついたのが器と水の関係だ。


器は姿勢、水は放松のイメージ。
器の注ぎ口から溢れ出さんばかりになると、
その注ぎ口の表面が盛り上がり
表面張力が働いているのがわかる。
この表面張力は注ぎ口だけに働いているのだろうか?
球状になりたがっている水の力は
器の中でも均等に生じているのではないか。

器としての姿勢にどこかしら過不足な状態があれば
水はまんべんなく器の中に行き渡ることができず、
球状になろうとする力を
存分に発揮できなくなるのではないか。
この状態が緊張感となって現れるのではないのかな。

器に問われるのは
形の美しさや容量の大きさではなく、
中身をきちんと保つような堅牢なつくりであること。

水は器の形状に応じて自在に姿を変えるが
それは単に柔軟性に富んでいるだけではなく、
球状になろうとする力をもって
器の外へと張り出すだけの力も同時に秘めている。
水の状態は器の状態に影響を与えるし、
また器の状態によっても影響を受けている。


“おいちゃん”と“寅さん”

2006-04-25 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
先週末からちょっといろいろとあって更新が滞ってしまった。
しかもそういう時に限って
連続して興味ある気づきがあったりする。
忘れてしまわないうちに少しでも書き留めておくことにした。

実はあることがきっかけとなり、
知人とメール交換をしていたときのこと。
ひとつの同じ対象について互いの見解を交換したのだが、
ひじょうに対照的な内容だった。違いがくっきりと現れていた。
その対象に寄せる関心の度合いや対象とのスタンスの取り方、
独自の思考傾向や感受性など、
いろいろな要素が反映した結果だと思う。
つくづく十人十色だと思った。
そう、こういう違いが
体の状態にも反映していないわけがないよね…。

たとえばコップの中の水をみて
「もうこれしかない」と思う人と
「まだこんなにある」と思う人とでは
心理的あるいは精神的にも違いがあるだろうなと
思う人は多いだろう。
日常生活ではこれと似たような状況は日常茶飯事、
いちいち気にしてなんかいられないと
思いながらやり過ごしていることが多い。
でも、そう思っているのは頭の中だけで、
実はこころとからだはその一つ一つに対して
いちいち反応してたりするのではないのかという気もする。

冒頭で紹介した知人とのやりとりは、
いろいろな事情を考慮した上で無難な道を探ろうとする
「対象と自分と環境までを含めて考えてみた」ものと
「対象と自分との関係を中心にすえて考えてみた」ものとも
いえそうだ。
 前者のような社会性や公共性のような視点から
物事を考えていくタイプはいわゆる
「他人や場の雰囲気に気を配る、気遣う」
「周囲を気にする→周囲の期待に応える」という視点が常にある。
そこに重きをおくばかりに
「他人のために用意された自分」を演じることになる危険性も
はらんでいる。
素の自分をどこかに置き忘れてきてしまうのだ。
これはある意味、満たされなかった思い残しのようなものを
少しずつ澱のようにして貯め込む可能性がありそう。

後者の場合は、対象と自分という
狭い世界で考えているので、
必ずしも周囲に受け入れられるとは限らないこともあり得る。
だがその一方で他の要素が混じらない分、
対象への純粋な思いは満たされることになるのではないか。
自分らしさを実感できそうな印象があるかな?

いわば“おいちゃん”的視点と
“寅さん”的視点ともいえそうなこれらは、
もともと一人の中に共存しているものだろう。
たとえば、まじめなタイプの人は“おいちゃん”の方が
働きすぎている傾向があるのかもしれない。
今の世の中“おいちゃん”と“寅さん”の切り替えが
うまく出来なかったり、
両者のバランスがうまくとれずに
何となく自分に不安を感じている人が少なくないのかも。
いずれにしてもバランスが良くないということは
何かしらの緊張を抱えていることになる。

緊張自体が悪いのではない。
緊張したら緊張を解くことを忘れなければいいのだ。
緊張を解かずに緊張し続けること、
習慣化してしまうことが良くないのではないのかな。

緊張の習慣化を防ぐには緊張を知ること。
いろんな緊張の仕方があることを知ること。
そして自分で自分の緊張に気づくことからかな?

感覚記憶の脳年齢に挑戦

2006-04-20 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
先月半ばくらいから動作を教わる際に
意識的に行っていることがある。
といってもそんな大げさなことではない。
自分に合った練習方法を見つけることも
放松に近づくことだろうと思って
くり返している小さな試行錯誤のひとつ。
まさに性懲りもなく…(笑

何しろ教室きっての緊張体質ゆえ、
人一倍くふうが要るわけで。
拙いながらも何年か続けてくれば
自分の体なり心なりに少しはわかってくるわれで。
それなりに傾向がわかってくれば
自然に対応策も考えついたりすることは
なにも特別なことではない。
それに思いついたと言っても…ほんとになんてことはない。
ただ先生の動きと解説をよく見てよく聞くだけなのだ。

状況に合わせるということを
徹底していったら、そういうことになってしまった。
別に弁解するわけではないのだけれど
本気でやってみると
思いのほか高度なことのようにも思えてきてしまうのも
なんだかな~(笑

自分の中にその動作を写しとることができたと思ったら
イメージング、そして練習する。
先生に動きを修正してもらったときには、
動きと感覚に生じる違いを受け取るようにこころがける。
先生はどこが違ってどこを修正すればいいのか、
意識すべき点を伝えるために
言葉も同時に使って説明してくださるが、
このとき言葉に注意を傾けすぎないように、
実際に体で感じている感覚に集中するようにする。

最近、先生に動きを直していただく度に
「わからない」と言っているのは、
実はこの感覚の違いがつかめないという意味。
つまりそうすることでイメージを修正していく。
修正動作はそれでなくても意識的に動くので
緊張してしまう。
だからなるべく頭からの指令ではなく
体に動いてもらうような感覚にしたいからだ。
もちろんこれは先生が直接自分の体に働きかける指導の場合で、
口頭指導の場合はしっかりと聴くのは当然。

教室ではどうしても時間が限られるので、
動きの感覚を覚えて持ち帰り、
あとは自分で確認練習することになる。
練習時間がとりにくい状況のときも
何とかこの感覚だけでもチェックしておこうと
心がけている。
いわば感覚記憶に関する脳年齢に挑戦?みたいなものかも。

続・安定は求めるもの

2006-04-19 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
安定は求めるものではないかということから
更に気になり出したのが、
安定性や安定感というようなことば。
“○○性”という表現には
なんとなく揺らぎがあるように思える。
そこには断定しない、
断定できない含みのようなものがあるのではないか。

その意味でいけば、安定した動きという表現は
厳密にいえばおかしな表現なのかもしれない。
より正確に伝えようとすれば
「安定性の高い動き」「安定感のある動き」
などといった表現になるのではないか。

これまでの日本語には
微妙なニュアンスを使い分ける傾向があったけれど、
最近はとくに何でもかんでもひとくくりにしてしまい、
一語が表現できる(意味を伝えられる)範囲を
超えてしまっているのではないかと思われる現象が
起きているのでは?

「そんなつもりで言っていない」
「いや言っている」といった類いのトラブルは
年中どこかで起きているみたい。
ことに掲示板などのコメント類は
ビックリするような言葉が並ぶことも少なくない。
こういった言葉の硬直化も
緊張を招きそうだなあという気もする。
ほんとにあらゆるところに緊張の種というか芽はあるもので、
自分の体調精神状態などによっては、
とんでもないところで躓いたり痛い思いをすることになる。
そしてまた誰かに同じような思いをさせていたりする
自分がいるわけだ。

でもそういう状況がまったくなくなるとしたら、
世の中はひどくつまらないものになるのだろうなあ
という気はする。
がっちり凝り固まった世界は息苦しいし、
ある程度の揺らぎは必要なのだろうと思う。
そう、程度の問題だ。
程度(あんばい)の判断は
全体を見通す力量がなければむずかしい。

やたら難しく考え込んでしまいそうになるときに
思い出すのは、自分の体のこと。
体は理屈などお構いなしにバランスをとろうとしている。
猫背でアゴが出る(悪いとされる)姿勢だって、
そうやってバランスをとっているのだ。
ただそのバランスの取り方が、
本来的な姿勢バランスにとって
好ましいのかどうかということが問題になってくるのだ。
目指す方向が決まれば自然と導かれて行くように、
もともとはできているのではないのかな。
良くも悪くも連鎖するのであれば
より良い方向へ意識で働きかけるきっかけを起こす
必要はあるのかもしれないが、
すべてを制御する(できる)と思い込むことは
過剰になる可能性が高い。
体への信頼を育てることも大切かもしれないなと思う。
これも「いかし、いかされ」ということなのかなあ。

安定性や安心感という揺らぎを含んだ表現は、
ある意味「これでいい」というような思いを持ったときに
はじめて固定化するものなのかもしれない。
これだ!と思ったのに、いや違うかも…
と、思うことの繰り返しで来ている。
そしてそれは多分、ほんとに固定化する(生を終える)まで
続くのかもしれないなあ。
できれば螺旋状に
少しずつ高みに向かっていられるようにと
こっそり願うのだ…。

安定は求め続けるもの?

2006-04-18 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
不安定は良くないことなのか?という問いかけは、
実はもうひとつの問いかけがあってのこと。
それは逆説的ともいえそうな、
安定はいいことなのか?というもの。

誤解を招きやすい表現なだけに
迷っていたのだけれど、
やはりいま自分が気になっていること、
気づき始めていることを書くことにしてみた。
不安定よりも安定を好むのは
普通であり自然なことに思えるのだが、
この好みというのも絶対的なものではないように思う。

たとえば非日常的なケースでは
不安定な状態がもっている
ハラハラドキドキ的な高揚感を好ましく思うこともある。
例えばゲームが楽しいと思えるのも
それが非日常性の展開だからで
これが日常となったら、さぞやしんどく思うのではないか。

つまり不安定とはドラマチックであり
展開が読めず予想が立たない状況下でありながら
何とか予測しようとする困難さが
ほどよい緊張感となれば楽しく、
限界を越えれば過剰な緊張を招く。
いうならば変動エネルギーそのもの。
若さなんていうものも
不安定要素が多いことの表れかも。
ということは未熟さも不安定と同義かな。

一方の安定は揺らぎや動きがない
固定化した静的状態である。
外界からの影響も受けにくそうで
堅牢なイメージになるのかもしれない。
熟年なんていうのは経験もそこそこ積み、
ものの道理もわきまえ、精神的な余裕もあるような
落ち着いた印象なのかもしれない。

このように考えてくると
人が生まれて死ぬまでの命の期間は
不安定から安定へと移行する時の流れにもみえてくる。
ゲーテが『若きウェルテルの悩み』(だったと思う)の中で
《生きている間は迷うに決まっているものだ》と書いていたのも、
こういうことだったのかなぁ。

もともと生きることは不安定そのものなのであり、
不安定であることを受け容れた上で
その不安定な波の振幅を
なるべく小さく緩やかな穏やかなものにするには
どうすればよいのかと考える。
導引が目指している養生の考え方でもある。

だからまずは不安定を感じ、
それを受け入れることから始まるのかも。
とは言いつつも、実際に後から後から
不安定な状態がいろいろな形で現れ続けると、
どんどん安定から遠ざかっているような気分になる。
自分がダメなわけではない、
それが普通であり自然な成り行きとは思いつつも
やはりどこか心理的にメゲたくなるなぁ。

あきらめればそこまでなのだ(たぶん)。
安定とはどこまでも求め続けていく中にこそ
存在するのかも。
ということは不安定の中にある?
あぁ…今はもうココが限界orz

不安定を味方につける

2006-04-15 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
不安定というのは良くないことなのだろうか?
悪者なのだろうか?

安定と不安定というのもバランスの要素であり、
陰陽の関係としてとらえてみれば
また印象も変わってくるのではないかとも思う。

陰と陽は対立関係であると同時に同根でもある。
だからどちらか一方が存在しなければ
もう片方も存在できない。
つまり安定を理解すれば不安定に気づくし、
不安定を知ることで安定がわかってくる
ということでもある。

これは放松と緊張の関係にもいえることかと。

おそらくは緊張と放松との間は
近いようで遠い
遥か遠くのようでいて
すごく身近だったりするのかも。

自転車と導引

2006-04-11 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
集中と緊張の第3弾。
前回は、釣りのアタリ待ちの状態と
導引の集中力のような緊張状態は似ているのかも
という内容。
今回はちょっと視点を変えてみて運動、
体を動かしている状態での集中と緊張について
考えてみたりしていることなどを。

実際にやってみればわかると思うけれど、
じっとしている状態で集中するのは
それほど難しいことではないし、
心身の緊張感の有無やその程度なども
自覚しやすいかと。
しかしこれが動的な状態になると状況が一変、
伝達機能や運動機能にも
ちぐはぐな状況が出てきたりする。
早い話が制御不能?の状態。

こうした運動中に生じた混乱状態は、
おそらく運動しながら修復するのが原則なのだろう。
習い事のような習得を目的とするものの多くは
実践(練習)を積むことによって
はじめて得られるもの。
だから運動における集中と緊張のバランスの取り方も、
くりかえし運動することで会得するものかと思う。

それは例えば自転車に乗れるようになる過程も
同じようなものかもしれない。
自転車にうまく乗れない時期というのは
上体を中心にバリバリに力が入った
緊張しまくりの状態。
これでは滑らかなハンドル操作など
できっこないのだが、
とにかく転ぶまいと必死にしがみついている。

周知のように自転車は、
ある程度のスピードで走らないことには安定しない。
そのため、初心者には走り出しが極めて難しい。

転倒することを怖がったり嫌がっているうちは
なかなかうまくならない。
むしろ転倒することも厭わずに受け容れて練習している方が
早くコツをつかむもの。
敢えて不安定な状態に身を置いてしまう方が
結果的には安定を手に入れてしまっている。

これはもしかすると
太極導引も同じことかもしれない。

不安定な状態というのはどこか落ち着かない。
不安定なところには緊張があり、
緊張があるから不安定になるということか。

絵画やデザイン、レイアウトなどにも
黄金分割といわれるような
誰もが安定感を感じる配分というものがある。
こころやからだにも
こうした黄金分割のような均衡はあるのではないか。

太極導引も自転車も
不安定な状態に身を置いていることには違いはない。
しかし、いかにして安定を求めるのかということになると
状況は少し違ってくるのかも。

自転車はその仕組みから、ある程度速く走ることで
安定度が増すようになっている。
一方の太極導引の場合は、
安定のために動作スピードを上げるようなことはしない。
むしろゆっくり動いて敢えて不安定な状況をつくり
そこから安定を求めようとしているような気がする。

ゆっくり動くということは難しい。
例えば同じ動作を
速度を変えて動いてみればわかると思う。

速く動くときは、主要動作となる部位に意識が集まって
その部位を主にして動くような印象がある。
反対にゆっくり動くときは
主導動作となる部位にだけに集中していたら
体全体のバランスが崩れてしまう。

つまり太極導引が求める安定性とは
全体のバランスを保ちながら
あらゆる動きに対応できるようになることなのではないか。

だからこそ、そうせざるを得ない状況での練習を
くり返しているのかと。
あらゆる変化に即対応できる
柔軟な肉体と冷静沈着な精神が整えられていくのかな。

太極導引の場合は全体を協調させることで安定感を得る。
全体の協調とは、自分の体と心でもあり、
自分と他者(外界)との関係でもある。
こうした状況は常に動いており、
間断なく協調をはかり続けることになる。

釣りと導引

2006-04-07 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
集中と緊張についての続き。
必要な緊張は集中力のようなものかな
と書いたのだけれど、
そのイメージに近いものは何だろうかと
考えてみたところ、
釣り糸を垂らしてアタリを待っている状態が
近いのかもしれない。

導引練習の場合、意念と呼吸と姿勢動作と
3つの要素が含まれている。
中でも地道な練習を要するのが
意念かもしれない。

意念とはある目的をもって意識を働きかけること
と、自分なりには解釈しているのだが、
この感覚が機能しだすと
呼吸も動作も制御(コントロール)することができてくる。
制御もまた、力に頼って行うのではなく、
意識の働きかけで行うものであることがわかってくる。
文字通り「意のままに」の状態を目指している
といってもいいのかもしれない。

釣りはアタリをひたすら待つもの。
水面の浮きやら竿に伝わってくるアタリに
気を配り続ける。
この集中の仕方がすごく似てないかなあと思うのだ。
見るとはなしに見ている。
外見はのんびりと構えていて、
ちょっと真剣さが足りないんじゃないのと
思うくらいにリラックスしているが
竿にかけた手、指は動かない。
握りしめているのではないけど離さない。
視界の中で浮きをとらえている。

緊張していないわけではないとは思うのだけれど、
こちらには伝わってこない。
たぶんこちらにまで伝わってくるようだと
釣り針の先の餌にまで
ビリビリ伝わってしまうものなのかも。
まさに駆け引き。
人と魚、どちらの方が
より自然になじんで
一体化しているかが勝負なのかなあ。

このときの集中と緊張のバランスが、
たぶん導引でいう
程よい緊張と集中のバランスに似ているのではないか
と睨んでいるのだけれど。
アタリを待つことは辛抱強さだけではない。
一定の注意を向け続けていられる程度に
緊張を保ち続けている。疲れればゆるめもする。
でも一度アタリがあれば
すぐに対応できる準備は怠らない。

このあたりの感覚は
導引のときの意識とよく似ている気がする。
導引に必要な緊張感は強弱といった問題ではなく、
質の問題かもしれない。
それは呼吸と同じで細く長く糸のような状態で、
静かに体の隅々にまで巡らされているようなもの。
だから集中力みたいなものなのかな
と思っているのだが…。

釣りにしろ導引にしろ、
そうした“あんばい”みたいなものは
自らの体で覚えて行くしかない。
どのくらい続ければいいのだろうとか、
そういうことが気になるうちは
まだ自分に向ける集中力を出し切れていないのかも。
期待感も緊張の一種。
こうした心理的な緊張も不要な緊張であり
集中を妨げることにも繋がっているのだろう。

アタリを待つ釣り人の心境を思って
導引を行ってみるのもいいかもしれない。


集中と緊張

2006-04-06 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
この頃ことあるごとに思い到ることが
あるのだが、
それを整理してまとめることが
なかなかできない。
何となく急かされたり急ぐことをしたくない感じ
とでも言えばいいのか、
どうもぐずぐずと、はっきりしなくなるのが
私的春モードみたい。
そういう事情もあってか、つくづくと
無駄に緊張しているのは損だよなと感じている。

しかし、これはなにも緊張感ゼロを目指せ
ということではない。
あくまでも自分にとって無駄と思われるものを
なるべく少なくしたいものだな
ということなのだ。

意識導引という導引法は、
体の部位ごとに意識を集中した後、
その集中を解いてゆるめることを繰り返しながら
全身をゆるめていくもの。
このとき意識を集中させる部位には
ある種の緊張感を感じる。
意識で何かが集まってくるような
一点に集中させるような感じがある。
その後、集中を解くと
ふわ~っとゆるむような、広がるような、
人によってはその部位の重たさみたいなものを
感じたりするようだ。
いわゆる脱力するような印象。

ただし、われわれが日常行っている
脱力と少しばかり違うのは、
ある一定の姿勢(基本姿勢)を保持して
崩さない状態で脱力する点だ。
自然に脱力したラクな姿勢をとった場合、
ほとんどの人がアゴを前に突き出した
猫背姿になるものらしい。

しかし太極導引練習法のうちの意識導引では
背骨を上下に引っ張り合うようにして
背骨を真っすぐに伸ばすようなイメージで姿勢を整える。
慣れないうちは
この姿勢を保つことだけでも緊張してしまうが、
慣れてくるにつれて
非常に都合のいい姿勢であることがわかってくる。

一見矛盾するようにも見えるのだが、
緊張を解くにもある程度の緊張は必要なのだ。
必要な緊張と不要な緊張の違いが
少しずつ自分の中でわかってくるようになるらしい。
ゆるんだ状態がわかってくるにつれて
緊張状態の理解も深まる。
ゆるむことを覚えることでさらに新たな緊張に気づく。
その繰り返しのようなものかも。

いま、ぼんやりと感じているのは
必要な緊張とは集中力のようなものなのかなということ。