松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

春来たりなば

2009-03-30 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
春になり、少しずつ目の前が
開けていくような感じがしています。

きっかけらしいきっかけが
とくにあったようにも思えず、
気づいたときには、そうなっていたみたい。
理屈に合った処し方の勘所を
つかみかけているのかもしれません。
ようやく…です。

ようやく一段のぼったかのような感触とともに
視界も少し広がったように思います。
と同時に自己の内面についても
より深く丁寧に見つめているみたいな気もしますが
錯覚かもしれません。
べつに欲してるワケでもないです。放っときましょう。


たとえば落ち着きについても
わかっているようなつもりでいたのでした。
でも、実際には(落ち着きが)
足りない状態でいることの方が多かったし、
今もその傾向はあります。
(まったくもって、わかってなんかいないじゃン)

どこが違ってきたのかというと、
たぶん待てるようになったことかなと
自分では思っています。
待ち状態が明確になれば
自然と待ち方もわかってくるらしい。
おそらく、そういうことなのでしょうね。


雲の形は絶え間なく変わっていきますが
流れには方向性らしきものが見てとれます。
それでいいのだ……と思います。

最近の練習メモから

2009-03-26 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
新しい練習形式になってから2ヵ月。
少しずつ整理されてきたような気がする。
頭と身体との同調が行われているというのかな。
頭で理解したことが
身体操作に反映されるようになってきた感じ。


たとえば「身体の中心から動くとは
どういう状態なのか」ということにしても
概念として理解したことを
身体から伝わってくる具体的な感覚として
どこまで味わえるものなのか。

中心から動けば(中心から)遠くに位置する部位ほど
動きは大きくなり、
外へと引っ張ろうとする力(遠心力)を感じるし
同時に遠心力とバランスをとろうとする
内へと引っ張ろうとする力(求心力)も感じる。
この両者間の力関係が時々刻々と変動する状況を
意識できるような状態にあれば
全体のバランスも好い方向にあるといえるような気がする。

まさしく基本は使えてこそのもの。
とらえ方や考え方の方向性の基準だから。
理解したら使ってみないことにははじまらない。
アプローチの仕方も変わってくるし
改めて基本の意味することもわかってくるみたい。
今期からの練習形式は
そのための一歩でもあるような気がする。



自然をよむ 自然であること-3-

2009-03-13 | 心韻-こころの逸話(エピソード)-
自然とはありのまま、あるがままであることと
よくいわれていますが、
ありのまま、あるがままであることは
何もしない、何も考えないことなのでしょうか。

たぶん程度の問題なんだろうなと思います。
要は余計なことをしない、考えないこと。

それはたぶん現状認識を
怠らないことでもあるように思います。
そしてそれは、いまこの瞬間をいきることに
他ならないのではないかとも。

自然でありたいと願うなら
まずは願うことをやめることかもしれません。


わたしはラグビーボール  自然であること-2-

2009-03-12 | 心韻-こころの逸話(エピソード)-
最近の練習は内容も緻密になってきて忙しいです。
その上、なんだか哲学まで加わってきています。

動作練習を終えて検証してるときなどに
ふっと浮かんできたことを
後で先生にお話すると「それは哲学ですね」とのお答えが。
意外にも哲学って身近な存在でした。



唐突で申し訳ないのですが、
たとえば“まるい円”といったら
あなたはどんな円をイメージしますか?

何となくまんまるの円、正円を
イメージしていませんか。
楕円をイメージする人って
なんだか少ないような気がするんです。
同じように球体といえば
一般的な丸いボールのことであって、
ラグビーボールのようなものを思い浮かべる人は
ごく稀ではないかと思われるのです。

改めて考えてみると不思議ですね。

人によってその大きさは違うとは思うけれど
“まんまる”の円や球体には変わりがなさそうです。
楕円や楕円球(なんて言い方あり?)
ほとんど意識されないのは、どうしてなのでしょう。

人はそれぞれ固有な存在でありながらも、
求めるもののイメージは
もしかしたら共通しているのかもしれません。
人間って、完全無欠、完璧なものに
魅かれるものなのかなぁ。
ということは、人間にはもともと欠けてるところがある
いわゆる未完成な存在ってことなのかしらん。

そして自身を省みれば
強いところも弱いところもありますし、
傷もあったり摩耗もしてますし、
何かといびつな感じがしてきます。
やっぱりラグビーボールなんじゃないのかな。

そんな自分をちゃんと認識することもせずに
ただ、まんまるになりたい(と思い)
なろうとしていただけなのかもしれません。

現在の自分の状態を知って
それに適った範囲で要求を満たせれば、
たとえラグビーボールのごとく
多少のいびつさ(要求充足度の差)はあったとしても
それなりの“和み球体”となるのかもしれませんね。
それはたぶんラグビーボールが
ラグビーボールとして機能していることになるのでしょう。

そうなるためにもまずは自然であること、ですね。
無理をせず、ことさらな仕業をしないこと。
対抗せずに受けとめること。