今日は、ちょっと雲がかかったような天気。なかなか月をみつけることが難しく、暗くなってきたら見えてくるかな?と待っていました。
そして、外に出たのは、17:50。
もう、かなり高い空にいるかなと見上げると、雲がいっぱいの中で、白い部分がみつかりました。微かに丸い輪郭を捉えられたお月様です。でも、これではお月様かどうか分かりませんね。
「お月様、もう少し雲から出てこれない者かしらぁ~」と声をかけると、「大変なんだよ、雲がいっぱいなんだ」とお月様の声。
でも、思いの外、寒くなかったので、少しまってみました。でも、なかなか雲からでられないようでした。「まだまだ時間があるから、後でまた見に来るから、その時はしっかり姿をみせてね」と、声をかけて、すっかり用事をすませたりして、10時になろうとする頃に、そっと外を覗いてみました。すると、お月様は、グッと上をみるような天頂近くまで移動していました。
さっきより、雲に隙間がありそうでしょうか。明るいところにカメラを向けて待っていると、雲の中から、かろうじてお月様が顔を出してくれました。
<21:54>
もうひと息、頑張って姿をみせてくれないかなぁ~。お月様も、白い息を吐きながら頑張ってくれているように見えましたが・・・
<21:56>
「もう、今夜は、これが限界ですぅ~」と言ったかと思うと、みるみる雲の中に潜り込んで月明かりも見えなくなってしまいました。
それでも、今夜もお月様にどうにか会うことができました。ありがとう!
ところで、今日は、東京新聞にシベリア抑留経験のある97歳の小池さんの記事が心を打ちました。97歳なのに、矍鑠としていらして、インタビューに答えた話は明晰そのもの。貴重な体験談を多くの方に伝えたいという思いが伝わってきました。
東京新聞は、こういう大切な多くの人に伝えたい記事は全文をネット掲載するというのを社是としているのか、ココから、記事の全文が読めるようになっていました。東京新聞に感謝!!!
一九四二年、「十町歩(約十ヘクタール)の土地をもらえる」と希望を抱き、開拓団員として満州国の「駅馬村」に一家で入植。豊かな土地だったが平和な暮らしは長く続かず、四四年、関東軍(満州国駐留の日本軍)に召集され、ソ連との国境地帯で塹壕(ざんごう)掘りに明け暮れた。 所属部隊は四五年八月二十日、黒竜江省・孫呉付近でソ連軍と激戦となる。既に終戦を迎えていたが指揮官はデマと否定し、戦った。防戦一方で、塹壕で戦友は眉間に被弾、即死した。
二十三日にソ連軍の捕虜となり、シベリア東部のアムール州・ライチハのラーゲリ(収容所)に送られた。露天掘り炭鉱の掘削作業に動員された。食事は黒パンと雑穀入りの薄いスープだけ。「とにかく空腹で参った」
外では、足踏みを続けないとすぐ凍傷にやられてしまった」と振り返る。駅馬村も寒冷地だったが「普通の防寒着でしのげた。シベリアはその比じゃなかった」