今日5月3日は憲法記念日。今年は、去年の安倍政権による安保関連法案の強行採決により、特別な意味をもつ大事な憲法記念日となりました。
どうやって過ごそう?
松戸憲法記念日の集いがあるのを思い出して、行ってきました。音楽の演奏もありましたが、メインは山田洋次監督の講演でした。
予約しなくても大丈夫だろうと思っていましたが、13時の開園30分前に着いたのですが、もう熱気がムンムン。どうにか当日券を手に入れて中に入ると会場はもうひと人人で埋まっていました。
私は後方の席にかろうじて座ることができましたが、主催者によると会場に入れず、館内の別の部屋やロビーで舞台の映像をみることになった人を含めると1500人がこの集いに参加したそうです。それだけの人が、憲法の問題を今 真剣に考えようとしているということだと思います。
69年に「男はつらいよ」シリーズをはじめ、77年に「幸福の黄色いハンカチ」で日本アカデミー賞受賞。昨年、長崎の原爆をテーマにした「母と暮せば」を発表した山田監督。
まずは今の映画の観客が非常にお行儀よくおとなしくなってしまったことを挙げ、昔はもっと映画に対しても昔は思わず声を上げる人がいたりした。思わず、前の席を蹴ってしまうような観客がいてもいいのではないか。
おかしいことがあれば声をあげたり感情表現が自由にできる大切さについて話した。
また、縁の深い渥美清さんについて、渥美さんの友人から聞いた話として思い出を話してくれた。
「家が貧しくかったので昼の弁当がもっていけず、廊下ですごしていた。それをみた女性校長が食料をかき集めてきて、同じように昼のない児童とかも含め食事を提供したこと。貧しさのせいか、病弱で学校にもしっかりは通えていなかったんだと聞いた」こと。
「若い時に結核になって片方の肺を肋骨もともに失った。『そのままでは姿勢が保てない。意識して肺のない方もしっかりいい姿勢を保たないと、体が斜めになってしまうから注意するように』と医者に言われたとかで、その言葉通りに姿勢を保って俳優もやっていた。でも、渥美さんはセリフ覚えから言ってもとても頭のいい人だったので、貧しくなく学校へ進学していれば・・・・と思う。それができず、役者の道を歩んだ」
そんな話から、人間の基本的人権の25条の話などについて語った。
私の記憶では「夢であいましょう」とかでひょうきんな感じで難いのいい印象だった渥美清さんだったが、それは寅さんのダブルのゆったりした服装のお蔭でもあったという。実際は「学校」で出演してもらって八百屋さんの役で違う衣装で出てもらったらひどく痩せていたという話もあった。
そして、山田洋次監督自身の話としては、子供時代を国策会社・南満州鉄道(満鉄)に勤めていた父親とともに旧満州ですごした。今思うと、中国や韓国の人々を1段下の人のように見ていた当時の自分。子供だったとはいえ、とても恥ずかしい思いだ。終戦で山口に戻ってきたのが14歳。それ以降はガラッと日本の様子が変化したことに驚いた。人間について大切な権利というもの、生きて学んで、幸せに過ごすことができること」など、今は語られることの少なくなった戦争中、戦後の話があった。戦争中の検閲のあった時代のエピソードなどもあり、人々の生活が戦争でどんな風にしばられるのかを笑いを誘いつつ、実は深刻な事実として突きつけた。
講演に先立って、松戸シティフィルハーモニー管弦楽団の有志と東葛合唱団はるかぜによって「へいわってすてきだね」という沖縄の子供さんの詩に曲がつけられたものが演奏されたが、その詩にもあるように、幸せは「笑顔で 当たり前の平凡な日々を過ごせること」と心から思った。
戦争の時代を知っている人が少なくなったが、満州のこと、戦争のこと、人間の犯した過ちのこと、忘れていけないことはしっかり知り、伝えて行かなければならないと思った。同じ過ちを繰り返さないために。参加者は50代を超えた人が多かったが、もっと若い人にも伝えていきたい。