元ベース弾きの田舎暮らしは

60歳で田舎にUターン、素人の「米と野菜」作り
音楽が縦軸の人生
就職相談・紹介が「天職」

保科洋先生  第3章 驚きの日曜日編

2006年11月29日 | 作曲家 保科洋
日曜日は、先生の楽しみにしていた芝刈り(ゴルフ)の日です。

ホテルに迎えに行くと、もう準備万端で迎えに行く前に先生が先に出てきました。
浜松から近い葛城ゴルフクラブの山名コースです。

午後雨の予報でしたが、「晴れ男」の異名を取る先生のお蔭で何とか持ちました。

日曜日 私の知らない「ゴルフの神が宿った」保科先生を見たのです。
そのスコアは公表しませんが、アマチュアでは考えられないものです。まして70歳のシニアでは。これなら74~75歳でエイジシュートが狙えると他のパートナーとうなづきあいました。カートはほとんど使わず大半を軽やかに歩いていました。
ピンに絡むスーパーショットの根拠は、音楽家の「右脳」の感性かと思いましたが、そうではなく、ヤード表示と歩測実行の合理的なものでした。
(このラウンドのことは大げさに言わないでと釘をさされました)

 この2日間の間、2年ぶりに先生と良く話しました。
指揮のこと、昔の仲間のこと、人生・健康のこと、今後のことと話は尽きません。

 私の退職後のNPOの「音楽村」の構想とその進捗をお話し、村長就任のお願いをしました。内容が固まってない構想ですが、私を気遣って先生は了承下さいました。2年後スタートですが、準備はたくさんあります。

 かつて自分が経験した、生演奏の感動を多くの人に経験してもらうこと、音楽を志す 交響楽団やバンドの人達の合宿所の提供、シニアによる炊事のボランティア、お返しの演奏会等 夢一杯です。この村を中心に広域で保科先生が「村長」をやってもらえれば最高です。先生への尊敬はネットワークとして大きく広がるのです。

 NPOは他に「魔女の宅急便」「スーパーマン制度」「地域通貨発行」など考えています。
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保科洋先生のセミナー 第2章 浜松の夜

2006年11月28日 | 作曲家 保科洋
セミナーのあと保科先生と食事に行きました。

先生がうなぎが大好きだと言うことで浜松市内の昔からある店「新角」に行きました。
土曜日の夕方でしたが、ちょうどすいている時間でした。駅からタクシーで10分くらいの隠れ家的な店で、会社・個人ともに使っています。オーダーして、少し時間がかかりましたが、そのためかうなぎがすごく、おいしく感じました。全体が柔らかくジューシーなのです。先生も満足でした。うなぎの浜松ですが、好みが異なる為、みんなの満足する店は少ないのです。

その後自宅に寄っていただきました。
ちょうど宮崎の甕雫(かめしずく)というもらい物の焼酎がありました。飲みすぎないようお湯割にしていただきましたが、小さな甕に入った薫り高い一品でおいしい焼酎です。

先生にあるDVDを観てもらいました。娘が昨年(高校時代)まで、御世話になった市民オケの定演のDVDです。アマチュアの若い指揮者の指揮振りとオケを講評してもらうためでした。先生が、演奏会の記録を観るのは好きだと言われほっとしました。
少しボリュームを上げ、聴いてもらいました。トゥーランドットをアレンジしたものです。振りすぎ、無駄な動きは指摘されましたが、その講評の言葉はあたたかいものでした

40年間 指揮者はいつでもあたたかく、ありがたいものでした。

(翌日の驚きの保科先生編に続く)
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保科洋 先生の公開セミナー

2006年11月27日 | 作曲家 保科洋
 11月25日午後保科洋先生の指揮法のセミナーが浜松アクトで開催されました。70名前後の吹奏楽・オーケストラの指導者達が熱心に聴いていました。指揮について私は素人ですが、わかりやすい講義でした。

今回 6名の受講者代表に、棒を振ってもらって講評する方法です。ステージ側にもカメラを置き前から見た指揮をつぶさに捕らえています。その画像をプロジェクターで拡大して、受講者全員が確認できるのです。

課題曲はクラシック中心で、譜面も配布され目と耳で記憶できました。バックに管楽器とピアノの浜松在住のプロのプレイヤーを配し,レベルの高い演奏で、先生の意図をすばやく受け止め、なおかつ自分達の歌い方ができる演奏家達で素晴らしい演奏でもありました。

先生は昨年の手術の後遺症で声が出にくくなっていました。
最初痛々しく感じましたが慣れてくるとよく聞こえました。
驚いたのは4時間のセミナーの間中、ずっと立ち通しで小走りにステージの移動される姿はとても70歳には思えませんでした。
(もっと驚いたことがありますが、後日の続編にてお知らせします)

大学のオーケストラの指揮で初めてその指導を受けてから、もう40年になります。昔、できの悪い楽団員に歌いながらその意図を伝えていただいたことが思い出されました。

セミナーの最後に言われた言葉が、印象的でした。
「指揮とは、どう振るかではなく、いかに振らないかである」と。
図形を繰り返す指揮は、プレーヤーの自発性と緊張感を阻害するとの先生の想いを私は受け止めました。

(当日夜編、驚きの翌日編に続く)
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四人の娘達 第5章 総集編

2006年11月23日 | 娘達・家族
まさか4人の娘の父親になろうとは思っていませんでした。

 転勤族のため、転居届に行くと市役所の担当者が家族構成を見て、「大変ですね」と必ず同情をしてくれました。そう言ってもらえるにも拘らず、助成金は1回ももらったことがありません。

男女比率が1対5(母親もいれて)と言うのは、ある意味ではすざましい家庭生活だったということです。

 普通の家庭だと、想像できないことが一杯あるのです。
朝の混雑はその極地です、皆同じ時間に起きだし、シャワーを浴びる、顔を洗う、トイレに入るそれぞれが女性特有の時間の長さです。この時間帯をどう避けるかが親父の皮膚感覚なのです。これにかかると、スケジュールが大幅に乱れるのです。

 又夜の風呂タイムもそうです。「次は誰が入る」と予約が入り、数時間後にしか空きがないときは、諦めて寝ることもあります。このために風呂嫌いになったわけではありませんが、トラウマにはなりました。かつて転勤先の住宅によっては、娘が風呂に入ると洗面所にもいけないこともありました。

 昔 この娘達との関係で描いていたこともあります。それは四人の娘にそれぞれ和服を着せて飲みに行くことです。そして酌をさせるのです。次の夢は娘達が結婚して、それぞれ2~3人づつの子供をつれて、遊びに来ることです。その子供(つまり孫)たちとミニコンサートを開催するのです。楽器は何でもよいのですが、音・音楽の溢れる家庭にして欲しいのです。

結論 この娘達は、金のかかる口うるさい「宝物」です。
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保科洋先生の公開セミナー(浜松)

2006年11月20日 | 作曲家 保科洋
11月25日 保科洋先生が浜松に来られます。

指導者対象のアンサンブルをモデルにした指揮法のセミナーの為です。このセミナーを主催する音楽院から連絡をもらいました。

 早速 ご自宅に電話をして、食事を一緒したい旨お話をしました。セミナーの夜 久しぶりにお会いします。2年ぶりです。先生のお好きな浜松のうなぎを一緒に食べたいと思います。翌日は先生の大好きな「芝刈り」で楽しみます。

 公人の先生ですから、周知の事実ですが昨年 手術をされました。今はすっかり元気ですが、声がその影響でかすれています。

 このセミナーは11月25日13時から浜松のアクトの交流センターで開催です。先生の指揮と人柄に触れてみてほしいのです。(無料 高校生以上)

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四人の娘達 第4章 四女編

2006年11月19日 | 娘達・家族
この四番目は三番目と年齢が離れています。

私が44歳のときの子供です。早い人ならこのぐらいの孫がいても不思議ではありません。今はもう慣れましたが、小さい頃、幼稚園の運動会に行くと若い父親ばかりで世代のギャップを感じ、気分はすっかりおじいちゃんでした。ちょっと気恥ずかしさもありました。

この四女は他の子と異なってあまり遊んでやった記憶がありません。私と遊ぶことより、上のお姉ちゃんとの遊びや喧嘩のほうが、よほど面白くスリリングな毎日だったのでしょう。

しかしこの子は上の娘達からは「わがまま娘」とからかわれている中学生です。小さい頃は、思い通りにならないと上に食って掛かるほどの無鉄砲さでした。末娘の性でしょう。
それに加えて大きな挫折感がないようで、少し自信過剰な部分があり、どこで頭を打つかの心配もあります。

小学校からジュニアオーケストラでチェロを弾いています。なかなかピアノのようには行かず、面白くないのか自宅では練習が少なかったのですが、先日 練習から帰ると興奮して、「突然譜面が読め、指が動く」と言い出しました。思い込みか本物かどうかわかりませんが、嬉しかったようです。

 家ではほとんど勉強せず、ゲームとピアノ三昧です。まぐれあたりで、実力テストを乗り切ります。食事しながら、母親に機関銃のように学校や先生・友達への不満を吐き出しています。

 又パソコン大好き人間でホームページも自分で立ち上げて、親の私にレクチャーしてくれます。理論ではなく触りまくって覚えるらしいのです。そのお陰で私もmixi以外にもブログを始めました。母親は娘の言っているパソコン用語の意味や言葉が理解できていません。


 この子と過ごす時間が他の子供より少ないのはわかっています。末っ子ですから。寂しい気がしますが、仕方ないですね。
この子の関心と人生がどの方向に進むのかは是非知りたいのですが、まだわかりません。
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四人の娘達 第3章 三女編

2006年11月18日 | 娘達・家族
この三女は私の想定外の人生を踏み出しました。

 高校2年生のとき、突然音楽の道に進みたいと言ってきたのです。遅すぎる進路決定で、その可能性と教育費用を頭の中で天秤にかけ、少し悩みました。

 三女はおとなしく、人に気を遣う引っ込み思案で、誰かの後ろに隠れるような娘でした。パンが好きでついこの間までパン屋さんになると言っていましたが、大変身です。脱皮です。

 中学生の頃、学校のブラスバンドで人数合わせで希望のトランペットからトロンボーンに変わらされたとき自宅でこっそりトランペットをミュートを付けて吹いていたことがあります。マウスの形が違う為、あまり練習したらボーンが吹けないと言いながらトランペットを諦めきれずにいたのです。高校生になり、晴れてペットが吹けてうれしそうでした。

 15歳のときに、臨時編成のオーケストラに応募しました。すごいメンバーに囲まれ目の前に並ぶ録音用マイクにビビリながら吹いた演奏会で、ハイレベルな水準を実感したことも発奮材料となり、夢を描いたのかも知れません。

 こんな人見知りする子が、高校後半は部活に満足できずに市民バンドに入り、たった一人の高校生として大人の中でもまれました。3年生の受験期にもやっていました。厳しいけどとても楽しかったようです。そして何とか音大に入ったのです。

 今後、正確性もさることながら、自分自身の「歌いかた」をマスターして欲しいと思う音楽の素人の私の考えです。

 自分の実力を知りながらも、悩みぬいてチャレンジをしていく三女の姿にはびっくりしました。今は高音を楽々出す友達をうらやましがりながら、低音のやわらかさには多少自信を持っているらしいのです。大学の指導者にも恵まれ、この世の春を謳歌しています。

 この三女の出演している演奏会のDVDを私が何回も見て、姿勢やリズムの話をすると、そんなに観る事は異常だと、母親ともども言います。音楽に関心があり、ましてや娘の演奏が気になるのが異常なのかと反論していますが、親ばかの上に少し粘着性かとも自分では思っています。

      (後日の四女編、総集編 に続く)

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四人の娘達 第2章 次女編

2006年11月15日 | 娘達・家族
 次女は内に秘めたエネルギーの大きな子です。

 感情の起伏が大きく豊かなのです。逆に世の中に出たときに誤解され手痛い扱いを受けるのではないかと考えました。感性が豊かで奔放な娘でした。相手がどう思おうとも自分の希望を通しました。

 昔 4人の娘を、中でも同じような上の3人を意識して叱った時期があります。時期をずらして順番に。そのとき長女と三女は、「出ていけ!」の私の声に泣いて謝りましたが、次女は本当に出て行ったのです。夜暗くなっても帰ってこず心配のあまり捜しに行ったことがあります。

 同じような育て方をしたつもりでも個性はでてくるものだと思いました。

 今看護師を目指しています。私は何も言いませんでしたが本人がその道を選んだのです。この娘に体力や冷静さや心遣いができるかどうか心配しましたが、さすが自分で選んだ道を勉強中の娘は私にはその厳しさの不満を言いません。ただ実習は疲れるらしいです。休みに帰省すると勉強をすることが多いことには感心しました。いっぱいいっぱいなのかも知れません。

 親分肌のところがあり頼られたら尽くすタイプです。言い出したらぐずぐずせず、自分でやるのです。車の運転を見ていると思い切りのよさを感じます。中学生のときバスケットをやっていましたが、そのときの熱中振りとガッツがこの子を育てたのかも知れません。

 母親とB’zのコンサートに行く音楽好きの娘です。(B'zのファンクラブ会員の母親が誘っているのでしょうが)

 ブログに関しても熱心で、文章力がついてきているのが分かります。好奇心も旺盛で、ブログからその行動が目に見えます。

 来年の国家試験が今越えるべき一番のハードルです。頑張れ!!

           (後日の三女・四女編につづく)
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四人の娘達 第1章 長女編

2006年11月12日 | 娘達・家族
 産気づいたかみさんを病院へ送り届けたら、初産ですから時間がかかりますと言われ
家に引き返し、ゆっくりといったらもう生まれていました。

 女の子ですと言われたきり、何にも言われずその代わりに、真顔で「実は奥さんが・・」といわれました。、かみさんが危ない状態だったのです。しかも生まれた子供は女の子なのに髪の毛も少なく大丈夫かと心配したものでした。
 
 その長女が、小学校5~6年頃 もうお父さんとはお風呂に入らないと宣言したのです。そんなときは来るものと思っていたので、びっくりもしませんでした。びっくりしたのはその後です。次女・三女・四女も「お姉ちゃんが一緒にはいらないのなら私達も入らない」と言ったのです。四女はわずか3歳くらいだったと思います。絶句しました。結局それ以来娘達を風呂にいれることはなかったのです。
 
 姉妹の中の長女がこんなに影響力があることを初めて知りました。

 長女はしっかりしているかどうかよくわからない子です。社会偏差値(生きていく知恵)は決して高くはありませんしかし不思議なことにやりたいことをいつのまにかやっているのです。(進学、就職・・入りたい会社からの内定に涙したそうです)

 もう成長した娘にアドバイスをすることもありませんが、「つまらない男」に捕まるなだけはいいました。娘からつまらない男の定義を聞かれ、「仕事がちゃんとできない男のこと」と断言しました。

 今東京の三鷹から渋谷まで通勤しています。どの子も反抗期があり、姉妹喧嘩もしていましたが、東京に住む3人に加え、休みになると4女も東京に会いに行きます。

 娘達がなかよくしてくれることはうれしいことです。

(後日次女・三女・四女編と続く)
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母(83歳)の青春(戦時下の国鉄勤務)

2006年11月10日 | ふるさとの母親
今も田舎に独り住まいの83歳の母は若い頃、国鉄(今のJR)に勤務していました。昭和13年~21年までの8年間が母の青春時代だったのです。保線区・機関区を抱える県内有数の駅でした。姉妹が女学校に進む中、勉強の嫌いな母は、祖父に頼んで国鉄に入ったのです。最初 交換手からはじめ最後は車両の編成も担当しました(戦争で男性が少なくなったため)。若い頃の母は写真を見ると、身内をほめる気恥ずかしさはありますが相当な美形でした。今の姿からは想像もできませんが、活発な娘だったらしいのです。当時の勤務ははかまが普通だったそうです。給料が出るとデパートの天満屋に布地を買いに行き、着物に仕立ててもらっていたいたそうです。

父親が交通事故でなくなって数年後、母が突然妹と一緒にある人に会ってくれとの連絡がありました。今から20年前母が60歳を越えた頃です。事情を聞くとその人は若い頃交際の申し込みをされた年下の男性だったのです。40年以上もたってその人が会いたいと言ってきたらしいのです。その人は母に交際を拒絶された後、国鉄をやめ、一念発起、勉強に専念し大学の研究者になっていたのです。ここからが女心です。母の言い分「この年になって会いたい気持ちだけれど、自分の若い頃のイメージを壊して欲しくないので会えない。その代わり自分の若い頃そっくりの娘(私の妹)と会って欲しい」、60歳を過ぎても、いつまでも女心はあるのだなと思った記憶があります。

しかし息子の私は嬉しかったのです。自由に遊んだ国鉄時代から田舎の舅・小姑のいる長男に嫁ぎ(9人兄弟)、苦労の連続であったであろう母に青春時代があり、またその思い出をしっかり持っていることに感動を覚えたのです。その母が今でも元気で(少し口うるさいけど)、食事は「丼めし」です。足は弱ってきましたが、ボケるどころではありません。いつまでも元気で居て欲しいと思っています。このような田舎のシニア(年配者)をNPOで支援していきたいのです。



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素人のコンサート主催

2006年11月09日 | 音楽
私の住む浜松市には外郭団体として文化振興財団があります。
この町は楽器メーカーがいろいろあり、国際的なピアノコンクールも開催されます。

 6年前から30年ぶりに又住むことになりました。
そして昨年知ったのが、主催者になる為の勉強会があることです。アマチュアですからみようみまねでコンサートをやったことはあっても正式に勉強したことがなかったため、一念発起、取り組むことを決めました。

 勉強仲間は20人くらいでした。(このセミナーは5年前にスタートしたそうです)1年間かけて、勉強した成果がコンサートの開催でした。このセミナーは本格的でした。
 アートマネージメント、著作権、税金、企業のメセナ初め、専門家の指導があったからです。

 自分達や家族のコンサートではなく、まったくの主催者の立場は初めてで戸惑いました。収支のバランスについては大きく赤字にならなければよいとの財団の言葉に甘えた部分がありました。一番の苦労は本来はチケット売りですが、演奏家の方が地元だった為私達の販売の苦労は少なくて済みました。でもこのことは真の苦労をしてないということです。

 満席になった会場と演奏後の演奏者との打ち上げは、大きな満足感を残してくれました。
 自ら楽器を楽しむ人と聴いてもらって感動与える人がいますが、ジャンルの異なる音楽を積極的に取り込む人は少なく固定された中で楽しんでいるのではないでしょうか。
演奏会に行くことも好きなジャンルに留まるのが普通です。

 それを打破するために、地元で新しいコンサートを主催する、又コラボする、演奏者を支援する、そのような主催者を目指したいと思います。

 でも一番開催したいのが生演奏を聴いたことのない人に聞いてもらえる演奏会です。そしてその演奏を聴いた人の中からアーティストが誕生することが私の「夢」です。演奏家でなくとも音楽好きが増えることが目標です。

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魔女の宅急便 第2章 

2006年11月08日 | NPO
「魔女の宅急便 第2章 」    NPO立ち上げを思いついたきっかけ・・・・
※ネーミング 「ばあちゃんの宅急便」の立ち上げ   仮称 「魔女の宅急便」(田舎の年齢不詳の長生きシニアを総称=ほめ言葉)

「魔女の宅急便」はまず重要な価値観を共有します。
宅配便は親子・孫と離れ離れであっても、一緒に暮らすまでのコミュニケーションツールとして存在するのです。
Uターンするまでの1人住まいの学生である孫への贈り物(親とは異なるありがたみをもつもの)で感謝する気持ちを持たせるのです。ふるさとを離れた人たち(身内・知人)に食べ物を送り、幼い頃から慣れ親しんだ味付けで繋がるのです。若い頃の価値観(田舎は不便で娯楽がない)から環境重視の生活への転換を促進するのです。愛情と行政の力で呼び戻すのです。

都市部への憧れと田舎への郷愁との間に振れる転換点に故郷へ後押しをさせる「宝物(食品の宅配)」を送るのです。

 その宅配便におばあちゃん、おじいちゃんの写真を同封するのです。

 最近写真を撮ってない世代を記録し送るのです。笑顔の写真は何よりのメッセージなのです。同封する写真に若い頃を彷彿とさせる仕掛けをするのです。白髪を染め若作りをしてもらい、元気さもアピールするのです。
白髪を染め(科学染料でない自然素材例えばヘナなど)、おしゃれ心を芽生えさせるのです。髪・こころ・からだを若返らせるのです。鏡を見ない白髪頭から、いつも自分を見る黒髪(もしくは半分白髪)に変身し外に出ることも増やすのです。

宅配や染髪は手段です。でもまず形からです。元気なシニアが増えてもらえれば嬉しいのです。その支援が私の夢です。

(後日のスーパーマン制度 第1章へ続く)
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ウォーキング

2006年11月07日 | こだわり
今年の初夏からウォーキングを始めました。

 肥満と高脂血漿とコレステロールを健康診断で指摘されました。
このままだとヤバイと言われました。自分でも5~6キロ多いと感じています。このため減量を考えました。継続できる運動は、何かと考えましたが、飽きやすく、粘りのない私に向くものはなくウォーキングを始めました。朝5時半スタートです。今は暗い為6時スタートです。
 毎日ではなく、出張時には歩きませんし、雨が降っても億劫です。週に2回から3回です。早足で1時間~1時間半ですが、夏場は20分位で、秋でも40分位で汗が出ます。ぐっしょりぬれます。帰った後のシャワーは快適です。

小さな川に沿い歩きます。緑の樹木のアーチをくぐる気分は最高です。

このウォーキングの途中に最初ノルマを自分にかけました。
15人以上の人に声をかけることです。歩き始めの頃「頑張ってますね」と声を掛けられそのうれしさを他の人に返そうと思いました。でも知らない人に声がけするには勇気が必要でした。最初は相手を選んで挨拶をしました。人相・雰囲気で差をつけていました。
返事がないと落ち込みました。嫌な気分にもなりました。

 今は、全ての人に挨拶ができるようになりました。ジョギング、犬の散歩など歩く以外の人も多いのです同じ方向に歩く人には、声がかけ易いのです。犬の散歩の人にはその種類を教えてもらいます。

成果はまだ3キロ減ですが、確実に効果はありそうです。
他人に話すことで、サボりそうな自分を牽制しています。
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オーディオは宝?ガラクタ?

2006年11月05日 | オーディオ
 昨日家族で娘達の音楽の記録(DVD)について話していたら、昔を思い出した。
娘の演奏会のDVDを何回も観るので娘とかみさんが「異常」だとのたまう。音と画像のソースは飽きさせないと思う。いつも新発見があるのだ。

 初めてオーディオらしきものに触れたのは、高校3年生だった。(40年前)それまで、家にあったのは、ラジオと「電蓄(デンチク・・電気蓄音機)であった。独身の伯父が、SP(LPレコードの前の世代)を聞くための手作りしたものだが既にガラクタ同然であった。SPは「りんご追分」や浪曲で興味がなかった。今思うと貴重品だったかも。
 その昔 ラジオを2台適当な間隔をあけて並べて、ステレオもどきの放送(NHK第一と第二の普通波)を聞いた気がするが、幻かも知れない。

 初めてのハイファイステレオは、宝物であった。当時「モジュラーステレオ」と言っていた気がする。チューナーやプレイヤーまでが一体だった。最初に聴いた「カルメン」のシンバルの音がリアルだったのをはっきり覚えている。学生オケのとき、専業メーカーのアカイのレコーダーを買ったこともあった。親父がその値段にびっくりしていた。

 学生時代はホンダのバイク「ベンリー」で配達のアルバイトをして、社会人になってからは給料の大半をオーディオにつぎ込んだ。
費やしたお金は半端な金額でなかったと思うが、惜しいなどとは思わなかった

 いろいろ遍歴をしたが、スピーカーやターンテーブル・アームはもう20年使っている。スピーカー(タンノイ)は数年前に職人さんに、ぼろぼろのエッジを新素材で張り替えももらって生き返った。雨上がりに、すごく良い音がする時間帯がある。湿度の関係であろう。深夜以外は窓を大きくあけ結構大きな音で聴く。そのときの窓から見るみどりの木々(隣の家の庭)とたっぷりのコーヒーは最高。近所には、事前にお断りをしているが、ピアノとオーディオでは迷惑だろう。スピーカーから出るピアノの音を娘の演奏と勘違いし、うまいと誉めていただいた時には赤面した。

 音楽は自分の人生において、大きなウェイトを占めており、それをいつでも聴かせてくれるオーディオは素晴らしい友達である。 この友達を調子が悪いから、自分の思い通りにならないからといって仲間からはずすのは自分にはできない。まずは調子の悪いところを医者(お店・メーカー)に看てもらう。お金がかかっても元通りになるのなら。みんな同じだが、自分自身も歳を取ってから高音が聞こえにくくなっている。自分もオーディオも変化するのです。好みの音に近いなら、音がどうだというより、何をどう聴くかが重要である。私は疲れない中域重視のシステムが好きである。

最近はシンフォニーよりピアノ曲が増えてきた。澄んだ音で聞くピアノは最高である。
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私の音楽・人生の師「保科洋」

2006年11月04日 | 作曲家 保科洋
作曲家でもあり指揮者でもある保科洋先生が私の「人生の案内人」です。大学の入学式のオリエンテーションで生演奏を聴き迷わず大学のオーケストラに入りました。それまでは親父の好きな三波春夫と祖父の浪曲が音楽でした。でも何かが私を衝き動かしたのです。そしてコントラバスを始めました。

そのとき指揮者だったのが保科先生です。およそ40年前です。音楽の何たるかは未だに良くわかりませんが、私にとって先生は「羅針盤」だったのです。先生は当時30歳前後だったのでしょうが、他の人とまったく別次元の人でした。怒る代わりに戸惑ったような、困ったような、寂しそうな表情が当時の先生の感情表現でした。しかしうれしいときには、顔中で笑い周りもそれに吊られて明るくなるそんなことが今でも思い出されます。大学の汚い合宿所(馬場の隣の旧兵舎跡?)で一緒に過ごしました。自分が健忘症かボケに入っているので、経験か伝聞か定かではありませんが、五右衛門風呂を洗いその中で大量のおでんを作り食べたこと(今になって言えますが昔人にはとても言えませんでした)が良き思い出です。

保科先生が最近私の住む浜松にも、財団の依頼で指導者育成やクリニックに来られます。娘の音大進学の件で相談に乗っていただくとき我が家においでいただきました。トランペットで進学したい三女やジュニアオケでチェロを弾いている四女がカミさんの横でうなずきながら聞いていたのが2年前です。親子二代に亘り先生にお世話になるなんて幸せです。今でも大学で指揮してもらっていて、教え子の数はすごいでしょう。こんなに長期間指揮者を続けているケースは他にはないでしょう。

就職するとき、音楽が頭から離れず、浜松の今の会社に入りましたが、部門は希望と異なり仕事で音楽に携わったことはありません。社内でカミさんと知り合い結婚しました。そして4人の娘を授かりました。音楽が好きで、楽器会社に入社し、子供の中に音楽を志す娘がでてきたこと、その源は保科先生の人柄と音楽観です。
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