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「人事異動」

2022年03月27日 | ビジネス

年度末の3月は、恒例の人事異動。

官庁はほとんど3月、民間はそれ以外の時期に。

ざわつく雰囲気は、異動がもたらす「心理の変化」から。

 

人事異動は、ビジネスにおける「評価の表出」。

自分がどのような評価を受けているかは、自分自身はわかっているはず。

ほとんどの人間は、「もっと評価されてしかるべき」と考えているとか。

 

「異動」に伴う「肩書」の変化は、評価が他人に公表されるもの。

昇任された人の喜びは大きく、経済的にも増収が伴うもの。

同期の中での昇任の順番も、交友関係にも微妙な変化が・・。

 

一部に、低い評価をされていると憤慨する人も。

しかし 人事考課は意外と公平なもの。 時間経過が教えてくれます。

民間で多少人事セクションを経験した中で、教えられたことも。

「成果はボーナスで、能力・人柄はポジション」で評価する方法があると。

 

日本の風土かもしれないが、「上昇志向」を持つ人を揶揄する言葉が、

「ヒラメ社員」。 「上ばかり見ている」と、やっかみも半分の言葉です。

上のポジションを目指すのは、大きな意味があることは、皆が知っていること。

 

より多くの仲間(部下)とより多くのお金(予算)を得て、目標に向かえるのです。

ただ 最近の若い人の中で、多忙な責任者・管理職を敬遠する人も。

仕事以外の時間を増やし、家族とのコミュニケーションや趣味を大切にするのだと。

価値観の変化を感じる時代です。

 

異動のなかった人の、マンネリ化を打破する方法が。

心の中で、今のポジションを「一旦辞職」するのです。

そして 「空席」となったそのポジション(求人)に応募すること。

複数の求職者が狙う、そのポジションに最適なのは、「自分自身」。

何よりも、その仕事に精通し、課題も理解しているから最適なのです。

 

私にも、人事で苦い思い出が。

販売会社に出向し、慣れない現場担当で、運転手兼営業を3年間経験。

トラックの荷物へのロープ掛けも知らない私。 メーカー時代より勤務はハード。

評価されないのなら、退職しようとふてくされていた当時。

 

しかし 「万事 塞翁が馬」。 「拾う神」が居たのです。

不動産屋の社長から、与えられた「私の存在価値」。

「実践心理学」に出会い、人生観が大きく変わった出向時代。

「まるで 高額の宝くじに当たった」感じで、人生の後半に。

 

この心理学が、サラリーマン50年継続の「原動力」です。

 

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「荒神祭り」

2022年03月21日 | ふるさと

彼岸に入っても、肌寒い昨日。

集落のイベントである「荒神祭り」実施。

「五穀豊穣」と「家内安全」を祈念し、祝詞奉納の祭りです。

 

集落の「集会所」に祭壇を設け、宮司の祝詞で開始。

全員で集落の三か所の「小さな社」を巡ります。

日常生活を営む集落内も、この日は「神」を意識する祭。

 

お神酒と会費で賄う「弁当」のささやかな直会(なおらい)。

コロナのリバウンドを警戒し、弁当は開けずに持ち帰り。

昔は宴会に発展する集落の「ビッグイベント」だったのでは・・。

 

宮司に聞くと、町内の大半の集落単位で開催している「荒神祭り」。

我が集落は春開催だが、秋の収穫後の開催も多いとか。

宮司のスケジュール調整も大変そう。

 

   

 

集落のコミュニケーションの場は、減っています。

全員参加だった「自治組織」も不参加の戸数が増加。

「助け合う」必要がなくなるほど豊かになったのか?

個人情報保護の「美名」のもと、他人への関心も低下?

10年前と比較すると、地域内の氏子数は2割減少です。

 

子供の頃は、回覧板は必ず手渡し、もしくは口頭の「言い伝え」。

建築様式も、玄関内にあった土間と小さな縁台が消えたこと。

それぞれの家庭の「ポスト」設置は、便利にはなったが、会話は消滅。

 

   

 

仕事で、新設法人・民生委員・老人クラブ会長・地区の世話役を回る日々。

70歳を超えた私は、強引に遠慮なく個人情報を聞き出すことも可能。(笑)

初めは訝る人たちも、30分立ち話をすると、「知り合い」に。

 

「子供はどこに?」と消息を聞き、女性だと「どこから嫁に来たの?」

「Uターン者」を探していると話すと、9割の人が応えてくれます。

聞く前に私の個人情報をまず開示、「娘4人が、全員東京です。」と。

 

   

 

転勤族だった昔、西新宿に徒歩通勤をしていた夜。

「祭りの夜店」に出会って、驚いた経験も。

「え?新宿で祭りがあるのか?」と。

 

東京人は「イベント好きなのか?」「人恋しいのか?」

生粋の東京生まれよりも、地方からの上京組が大多数の東京。

何故か「ホッ」とした記憶です。

 

独りでは「生きていけない人間」、誰かと「繋がりたい」私です。

(かみさんは、一番大切な同志です。念のため・・笑)

 

画像    宮司と近隣の人たち 集落の小さな社の一つで祝詞を

      交差点       集落唯一の信号機

      土人形       法人の事務所、販売の土を固める薬剤のサンプルとして

      夜店        西新宿の祭りの夜店  もう10年以上前の通勤路付近

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「春が来た!」

2022年03月13日 | ふるさと

昨日 かみさんと一緒に二台のタイヤ交換。

「もう雪は降らないだろう」と馴染みのスタンドで冬タイヤをノーマルタイヤに。

気温は20℃と汗ばむ陽気。ここ数日で一気に初夏の様。

 

自宅前の畑のチューリップが芽を出し始めました。

今年は、およそ600本のチューリップ。

掘り出した球根と新しく注文した球根を植えたのが11月。

発芽率の落ちた球根を補うため、毎年増やしてきました。

 

    

 

夫婦二人の食べる野菜は、わずかなもの。

ならば と考えたのが「花つくり」。

春のチューリップ、夏のヒマワリ、秋のコスモス。

来年は、これに「菜の花」を追加したいと構想を。

 

チューリップの咲く4月に、花を前に近隣の高齢者が「井戸端会議」。

ウォーキングの人も、一瞬足を止め見入る姿も。スマホで撮影する人も。

何より出勤時に、満開のチューリップが私たち夫婦を見送ってくれます。

高齢になると、「団子より花」の心境。リッチさの質が異なる感覚。

 

     

 

先日 北海道から移住予定の求職者の相談が。

旭川から、岡山県北に移住を決意した理由を聞きました。

若いころは、マイナス20℃の寒さもなんのその、でも歳をとると堪えるのだとか。

元々 西日本出身者で、大学も「ロマンを求め?」北海道へ、そのまま現地で就職。

 

数年前、東京の娘たちと旭川・美瑛・富良野に旅した話から、求職者と「大接近」。

旭川ラーメンの名店「蜂屋」や「青い池」、ラベンダー、コーンパンを思い出しました。

楽しい旅行先としての「北海道」と厳しい自然を併せ持つ「北海道」。

サラリーマン時代、北海道の企業と合弁事業推進で、東京から真冬にたびたび通ったことも。

革靴に滑り止めの金具を付け、札幌をこわごわ歩いた記憶が。

 

     

 

テレビがロシアのウクライナ侵攻のニュースと砲撃の動画。

雪のちらつく中、母娘連れの逃避行や、身内を無くした高齢者の涙。

一時離脱の外国企業を接収するとのロシアの一方的宣言は、20世紀に逆戻り?

人間の愚かさと傲慢さ。そして それを止められない「歯がゆさ」。

 

季節の「春」は必ず巡るものながら、人としての「春」は・・。

 

画像   チューリップ発芽     今朝の畑

     満開のチューリップ    昨年4月

     青い池          作り物のような北海道美瑛

     コーンパン        長女が大好きなパン(北海道旅行の目的の一つ)

 

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「悩み」の相対的関係

2022年03月06日 | 健康・体調

数年前、「金欠状況」を母親に愚痴った私。

その時の母親の言葉が印象的。

「お金のあるなしは、どうでもいい。健康が一番」

脳内出血で倒れながら、奇跡的に助かった母親の言葉です。

 

「平和慣れ」した日本。

テレビでウクライナ」の戦争状態が放映され、「まさか」と衝撃が。

しかし 食べ物が十分にあり、危険のないところに身を置いている日本。

戦争のリアリティがないのは当然でしょう。

 

今は亡き父親の語った戦争の実態は悲惨なもの。

無口だった父親が、ポツリと語った体験。

満州から、南方に転戦の途中、乗っていた船が潜水艦に攻撃され沈没。

身に付けた竹筒の「浮き輪?」の浮力で助かったとか。

 

また終戦まじかのフィリピンで、北に敗走中のころ。

崖の大きな横穴にいた中隊が爆撃機の襲撃で生き埋めになり、100人以上が壊滅。

歩哨で外にいた5人のみが助かったのだとか。その中に父親も。

食料も底をつき、蛇やカエルで飢えをしのぎ、最後は投降し、捕虜収容所に。

「戦死」の公報が祖父には届いていた中、戦後しばらくして帰還。

 

フィリピンに観光旅行で訪れた若いころ。

日本人の戦犯が処刑された「モンテンルパ」の刑務所訪問。

頼み込んで「電気椅子」の部屋を見せてもらったことが。

処刑前の「最後の食事」に口をつける人はなかったらしい。

 

父親がガリ版刷りの鉄筆で、組合のチラシを作っていたことも。

岡山県北ながら、数百人勤務する会社(工場)に勤めていた父親。

多分 輪番制だったのでしょうが、組合専従のころの父親の記憶です。

夜 鉄筆の音を父親の横で聞いた子供のころ。

また生き残った「戦友」の話を母親としていたおぼろげな記憶も。

 

「穏やかな日常生活」は、十分な食べ物と、最低の経済的収入が前提です。

それを支えるのは健康、もっと言うならば「命」の有無。

飢える人のない日本、ただ 格差は拡大する傾向です。

 

前期高齢者になっても、仕事を通じ多くの人と語れることは幸せかも。

自分にできることは「何か」を常に持っておきたいものです。

 

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