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※過去の ボクのこの様な 記述は あくまでも ボク個人の私見であり 考えなので ボク以外の方々が 傷つくことの無い様に 充分に配慮した上で 自由に意見を 述べさせて いただいております
※行為を行う当事者が 気持ちの上も含み 「良いことをした」と言う 満足感 充足感 に満たされるために もしくは中には それを 自分以外の人に 自慢したいが為に その時のみ行われる(一生ライフワークとして継続される事なく) その時のみの自己満足の行為への危惧
※花束を 差し出しながら その様な悲劇が2度と起こらないために祈る
その一時よりも その後も 自分が継続して行える 啓蒙活動を行ってこそ 価値がある
※欧米諸国と日本のボランティア(見返りを求めない相互援助)の意識や行動においての違い
☆ヘアドネーション 善なのか罪なのか?☆
☆「いいこと」がもたらす社会の歪みについて ☆
「誰かの役に立つのなら」
「親族のがん治療に立ち会った」
「ネットで見かけて気になって」
「どうせ切るなら寄付してみた」
そこにはヘアドネーションをした さまざまな理由が綴られている。
「ヘアドネーションは 本当に 生きやすい社会を作っているのか?」
と自問自答する団体の姿もある。
欧米社会での チャリティへの意識の違いを 肌で感じ、少なからずとも ショックを受けた。
同調圧力ではなく呼吸をするように行動をし
「いいことをした」
というような雰囲気もない そして 出さない。
しょせん 切った髪の毛はゴミです
ゴミだったものに価値が生まれるもの ウィッグ。
色々と当事者からの話を聞いた上で ボク自身が理解したことは ウィッグだけ 渡したところで 何の解決にも ならないということ。
2015年末頃 ヘアドネーションが 急激に広がり、他のヘアドネーション団体も増えた。
そして、そこから良くも悪くもヘアドネーションが
「いいこと」
に差し替えられて、本質的なものが 抜け落ちたまま 拡がっていった印象がある。
「いいことに差し替えられた」
メディア報道の弊害。
ヘアドネーションが広がる中、取材で1時間、2時間と話しても、放送される尺としては長くても15秒だと言う。
いくらヘアドネーションの「真実」を話したとしても取材者側は
「ヘアドネーションはいいことだ」
という答えを用意して取材に来らしい。
「いいこと」
を伝えるためだけの 素材集めなので、髪の毛が集まっている段ボール、出来上がったウィッグ、できれば、かわいそうな髪の毛がない子の 映像を押さえようとする。
そして、美談が出来上がっていく。
ここで考えたいのは美談ではありません。
ウィッグを渡して 問題は解決しているのか?
という話なのに、何度伝えても報道はされないようだ。
昔 おっしゃっていること と 今 おっしゃっていること が違いますね」と記者の方から言われるそうだ
「いえ、メディアが あなた達の都合で コメントを切っていた だけです」
コロナで 世の中の 価値観が 急激に 変わり、読者の意識も 変わっているので、メディアとして
「何がウケるのか」
を考えた 結果として 掲載される 内容も 変わってきている と感じる。
本当に ウィッグを 望んでいるのだろうか?
現在ヘアウィッグは、人工のもの や ハイブリッドのもの もある。
手入れの しやすさや 価格も考慮した上で、必ずしも 人毛がいい と言う訳ではない。
ヘアドネーションは 本質的な 課題解決にはならない。
髪の毛は 自分の意思で伸びていると思いますか?
髪の毛は、無意識に、勝手に伸びています。
「ヘアドネーションのために頑張って髪を伸ばしました」
と誰かのためを 想い、我慢して 髪を伸ばす行為 自体は美しいですし、感謝しかない。
でも、髪を切って落としたら、それは正直、ゴミなんです。
なのに、それが「いいこと」に変わる理由は、
「ウィッグが 手に入れば 髪の毛がない人は 喜ぶに違いない」
という思い込み。
髪の毛が ない人たちは、できれば 自分の毛を 生やしたい。
それが できないから、仕方なく ウィッグを 用意する。
それは、髪がないと
「社会生活が困難だと」
感じるから。
病気の治療で 髪を失ったら
「学校でいじめられるんじゃないか」
と心配で、親が ウィッグを 用意する。
つまり、ウィッグは
「自分を守るためのツール」
でもある。
もちろん、無料で ウィッグを 受け取った ほとんどの人は 喜びます。
その人たちの 本当の気持ちに 触れていくと、違う側面が見えてきます。
ウィッグを 使うということが
「負けたような気持ちになる」
と言う人もいます。
ウィッグを 望んで つけている 訳ではないと。
ここは、髪の毛がある人が ほとんどの 社会です。
呼吸しているのが 当たり前だから、呼吸できていることに 感謝をしている人が いないのと同じで、99%くらいの方が 髪の毛があるのが 普通の社会で、髪の毛があることを 意識している人は ほとんどいない。
そのような社会において、髪の毛がない と言うことは 圧倒的なマイノリティー(少数派)です。
これは髪の毛に限ったこと ではないですが、それが今の社会です。
ウィッグをつけたい と言う事と、ウィッグを つけなければ ならないと 言う事は異なる。
もちろん、表現の自由で ウィッグを着けて 外を歩きたい人も ウィッグで おしゃれをしたい人も いますが、ウィッグをかぶらなければ ならない状況は おかしいです。
髪の毛がない と言う マイノリティーの人たち のために 髪の毛を集め、ウィッグを作る。
運営側は そんな風に 思って いないで あろうが
「普通に 買ったら 50万円ほどする 人毛ウィッグを タダでどうぞ、さあ 被った方が 良いですよ」
という構図に 結果的には なっている。
圧倒的マジョリティー(多数派)が マイノリティーに対して、ウィッグが 必要だと言う 無意識の 押し付けに なっているん じゃないのか?
一生懸命 髪の毛を伸ばして
「私はヘアドネーションをしました、いいことをした」は本質的な解決ではない。
「善意」
が無意識の バイアスを 広めている のかも しれない
「髪がなくて困っている人がいる」
と言う 情報に対して 純粋に髪を 提供したい人たちと、純粋に ウィッグを 受け取りたい と思う人たちの 選択肢にもなっている。
もちろん 1人でも ウィッグを求めてくれる人が いれば活動は続き、ウィッグも提供される。
しかし、この人たちの 生きづらさは、少数派というところから 派生している。
自分に 責任が無いこと に対して、ただただ コスト(精神的 物理的な 負担)を負わされている。
ウィッグを 買わないといけない、学校に 伝えないと いけない、プールの前には 担任に 相談しないと いけない。「うちの娘、息子は脱毛症です。ご配慮をお願いします」と
毎年 教師に申し送りをしないといけない。
なぜ この人たちが 毎回 このコストを負わないと いけないのか。
私たちは、彼らが ウィッグが 欲しいから 買っていると 思っていますが、そうでしょうか?
ウィッグを買う、そのコストって 一体何への対価なのか。
社会の大多数に 髪の毛が生えているから、マジョリティー側の人たちに、マイノリティの人が 自分を寄せていかなければならない。
この社会は非常に歪んでいます。
ヘアドネーションすら 出来ない人に対して、その行為自体が、無意識に彼らに
「髪の毛があることは素晴らしい」
と言う マウンティングのジャブを 打ち続けている。
良かれと 思っている善意が、かえって彼らを 傷つけている可能性がある。
コロナを経て、これまで 無かった事と されていた 人たちが声を上げはじめた。
私たちも、今の 世の中において、自分たちが 感じている違和感について 口を閉ざすことは出来ない。
この国には 家父長制をはじめとした 無意識の差別が 存在します。
とりわけ男性からは、自分が 誰かを 差別しているとは 思っても いなかったと 言われます。
生まれた時から下駄を履いている事に 気づかない事もある。
理解を広げるには非常に時間がかかるだろう。