知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『世界の城郭・宮殿 16(海洋国家ヴェネチアの防御のための城塞都市)』 『イタリア、クロアチア、モンテネグロの3国にまたがる6つの城塞都市)』

2022-06-21 10:23:12 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭・宮殿 16(海洋国家ヴェネチアの防御のための城塞都市)』

『イタリア、クロアチア、モンテネグロの3国にまたがる6つの城塞都市)』

 

ヴェネチアよりは、『ベニス』が親しみやすい

ヴェネチアよりは、『ベニス』と呼ぶ方が、より親近感がある傘寿爺です。 

ベニスは、北イタリアのアドリア海の最も奥まった所にある潟の上に形成された水の都で、ベニスは英語であり、イタリア語ではベネチア(ヴェネツィア)と呼ばれます。 堤防のように延びるリド島によってアドリア海と隔てられ、その途中3ヵ所にある自然の水門から出入りする海水によって絶えず浄化されています。 あの映画『ベニスに死す』で有名な「リド島」もあります。

 

江戸時代には『水の都』と言われた江戸・東京も、関東大震災と東京大空襲の後、水路が廃棄物処理場として使われ、下町の市街地の濠はかなり埋め尽くされて、元の姿を完全に残しているのは皇居の内濠です。

 

東ローマ帝国の自治領として誕生した『ヴェネツィア・ベニス』の波乱万丈(元祖は波瀾万丈)の、今まで続いた長い歴史と、『江戸・東京』の歴史との比較という楽しみな課題ができました。 そのために貴重なウエブ情報を抜粋引用しました。 どちらも『湾の奥の葦の原の大湿地帯』を干拓・造成したものです。

 

10世紀ころのヴェネツィア共和国の領域

ウエブ情報から引用

 

15世紀から16世紀にかけてのヴェネツィア共和国の領域

 

ウエブ情報から引用

ヴェネツィアは、

現在はイタリアのヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県都

ウエブ情報から引用

ヴェネツィアは、イタリア共和国北東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約26万人の基礎自治体(コムーネ)。 ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県都である。 ベネチアと表記されることもある。

中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」などの別名を持つ。 英語では「Venice」と呼ばれ、これに由来して日本語でもヴェニス、ベニスと呼ばれることもある。 

 

ヴェネツィアの土地は、大陸からの川の流れに乗ってくる土砂、そしてアドリア海の波と風の力によって作られた湿地帯。 古代、ヴェネツィア周辺の地域にはウェネティ人が住んでいた。 伝説では、アクイレイア、パドバヴァなどの北イタリアの都市の住民が、5世紀のフン族やランゴバルド人のイタリア侵攻からのこの湿地帯へと避難してくることから、452年にヴェネツィアの歴史が始まる。 

 

このとき避難してきた先が現在のトルチェッロ島である。 足場が悪い湿地帯のため、侵入者は追ってくることができず、避難した人々はここに暮らし続けるようになる。 干潟に住むメリットを保つため、干潟を荒らしたり干拓したものを極刑にするという法を作る、普段は船が通れる道を杭で示していたが非常時にはその杭を抜くなど、干潟を守り、かつ有効に利用していた。

 

彼らは12のおもな島からの護民官たちを中心とした政府を組織し、アドリア海沿岸地域はもともと東ローマ帝国の支配下にあるため、名目上は東ローマ帝国に属したが、実質的には自治権を持っていた。 697年、ヴェネツィア人は初代総督を選出して独自の共和制統治を始めた。 これがヴェネツィア共和国の始まりである。 

 

つづく1世紀間は政府内部の不和のため不安定な政治が続いたが、外敵の脅威に対して結束し、836年にはイスラムの侵略を、900年にはマジャールの侵略を撃退した。 10世紀後半からはイスラム諸国と商業条約を結んだが、これはイスラム教徒と戦うよりも貿易をしようというヴェネツィア人の現実的な政策によるものである。

 

9世紀始め、フランク王国がヴェネツィアを支配下に置こうとして軍を派遣したため、トルチェッロにいた人々はさらなる避難を余儀なくされ、現在のヴェネツィア本島へと移り住むことになった。このときにたどり着いたのが今の「リアルト地区」である。 810年に東ローマ帝国・フランク王国間で結ばれた条約で、ヴェネツィアは東ローマ帝国に属するが、フランク王国との交易権も持つこととなり貿易都市への布石が置かれた。

 

このころヨーロッパ各国では、その国の存在をアピールする目的でその国の守護聖人を求める風潮にあった。 ヴェネツィアも同様に守護聖人を求めていたところ、福音書著者聖マルコの遺骸がエジプトのアレキサンドリアにあり、ムスリムに奪われる恐れがあることを聞きつけ、838年、それを奪い取りヴェネツィアに運んだ。 このときよりヴェネツィアは聖マルコを守護聖人とすることになった。

 

10世紀後半からはイスラム諸国とも商業条約を結び交易を拡大した。 さらにアドリア海沿岸への支配地域の拡大に努めていった。 ジェノヴァ共和国などの同じイタリアの貿易都市とは違い、都市の周辺海域が大国・東ローマ帝国の制海権内にあったために、イスラム勢力による海上からの直接的脅威を感じることが少なかったことも、イスラム諸国との関係を積極的に進める要因となった。

 

11世紀、弱体化した東ローマ帝国の要請でアドリア海沿岸の海上防衛を担うことになり、その代償として東ローマ帝国内での貿易特権を得た。

 

工廠正門ポルタ・マグナ

1104に工廠(アルセナーレ)が創られ軍船の修理を始めた。 1320年には軍船や大型商船の造船所となり、最大1万6,000人が従事し、船のロープ・帆桁などを個別に生産し、一貫作業で1日1隻の造船能力があった。 1370年代以降は銃器も生産され、16世紀には世界における造船・兵器製造の一大拠点となった。 1797年のナポレオン支配終了まで繁栄が続いた。 1593年にはガリレオ・ガリレイが技術顧問に就いている。

 

1204、第4回十字軍とともにヴェネツィア艦隊は東ローマ帝国首都のコンスタンティノープルを攻略、援助への代償としてクレタ島などの海外領土を得て東地中海最強の海軍国家となり、アドリア海沿岸の港市の多くがヴェネツィアの影響下に置かれた。ヴェネツィア共和国は東ローマ帝国分割で莫大な利益を獲得し、政治的にも地中海地域でヨーロッパ最大の勢力を誇るようになった。

 

東地中海から黒海にかけての海域が、コンスタンティンいわば「イタリア商人の海」ともいうべき状況になったことは、同じ13世紀に、ヴェネツィアのmsる子・ポーロが黒海北岸から中央アジアを経て元へ向かうことを容易にさせた。

 

富裕な貴族たちは政治の支配権の獲得をくわだて、13世紀末ごろには寡頭が行われるようになった。13  14世紀には商業上の宿敵であるジェノヴァとの戦いが続いた。 1378-81年の戦いで、ジェノヴァはヴェネツィアの優位を認めた。

そのあとも侵略戦争で周辺地域に領土を獲得したヴェネツィアは、15世紀後半にはキリスト教世界でも屈指の海軍力を持つ都市国家となった。

 

15世紀半ばのオスマン帝国の進出により、ヴェネツィアの海外領土が少しずつ奪われていき、最盛期は終わりを告げた。 1538年におけるプレヴェザの海戦で、オスマン帝国は地中海の制海権をほぼおさえ、さらにヴェネツィアにとっての圧力となった。そのうえ、大砲の登場により干潟に住むメリットがなくなってしまった。 

 

その後の諸外国の侵略や、ほかのイタリア都市の攻撃で、ヴェネツィアの力は弱まった。 また、1497-98年にポルトガルの航海者ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰をまわるインド航路を発見したため、貿易の対象がアジアに移り、アメリカ大陸が発見され、時は大航海時代へ遷るとともに貿易の舞台はアドリア海から大西洋や太平洋に移り、ヴェネツィアの貿易に対する影響力は低下、衰退は加速された。

 

これに対してヴェネツィアはガラスやレースなどの工芸品を作ることで対処した。 1508年、ヴェネツィアに対抗して神聖ローマ帝国、教皇、フランス、スペインは同盟を結び、ヴェネツィア領土内にある財産を没収した。1516年、ヴェネツィアは巧妙な外交でイタリアでの支配権を取り戻したが、海洋国家としての地位は回復できなかった。

 

1797、ヴェネツィア共和国はナポレオン・ボナパルトに侵略され、ついに崩壊した。 カンポ・フォルミオ条約により、ナポレオンはその領土をオースト

りアに引き渡した。 オーストリアは1805年にフランスが支配するイタリア王国に譲ったが、1814年には奪回。 オーストリアは港湾都市としてヴェネツィアよりトリエステを重視したため、ヴェネツィア経済は衰退した。 

 

その翌年、ヴェネツィアとロンパルディアはロンバルド=ヴェネト王国を作った。ヴェネツィア人はイタリアの政治家ダニエール・マニンの指導のもとで、1848年にオーストリア支配に対する反乱(1848年革命)を起こし、ヴェネト共和国を建国した。しかし、その翌年にオーストリアの攻撃により降伏した。 1866年に普墺戦争が始まると、イタリア王国はこれを第三次イタリア統一戦争としてオーストリアに宣戦布告し、この結果ヴェネツィアとヴェネト地方はイタリア王国に編入された。

1987、世界遺産(文化遺産)に『ヴェネツィアとその潟』として登録された。

 

海洋国家ヴェネチアの防御のための城塞都市

ヴェネチアの海の交易路を守る海上要塞都市

今回の世界遺産は、海洋国家ヴェネチアが防御のために築いた6つの城塞都市で、これらかイタリア、クロアチア、モンテネグロの3国にまたがっている。

ヴェネチアからアドリア海を南に300キロ進んだ先、狭い海峡の奥にある町がシベニク(クロアチア)である。ここは海の交易ルートの拠点で狭い海峡の入口には聖ニコラス要塞が設置され、砲台が行き交う船に睨みを効かせていた。 16世紀頃からヴェネチアが各地に築いた防御都市の一つである。オスマン帝国の進出に備えて、クロアチアの海岸の複雑な地形を防御に利用したのである。

防御が容易な半島に築かれた町がザダル(クロアチア)。 町を丸ごと城塞で囲んで防御したヴェネチア最大最強の城塞都市である。 城壁は高さ10メートルもある分厚い壁で、町への入口は数カ所のみである。 3万人がこの都市で暮らしていて、内部には多くの交易商人が住んでいた。 ヴェネチアから派遣された行政官がここを支配し、アドリア海全体の交易を管轄し、税関では外国の商人はここで莫大な税を徴収された。

さらにモンテネグロにあるコトルは15世紀にヴェネチアが領土にした都市である。背後には垂直な断崖があり、ここには何重もの壁がある。また海側には強大な城壁を備えた

 

陸の防御のための都市も

しかしヴェネチアの敵はオスマン帝国だけではなかった。ハプスブルク帝国やフランスなどの陸上勢力も力をつけていた。そのためにヴェネチアは陸も守る必要に迫られる。ヴェネチアの北方の大平原にある星型の城壁に囲まれた都市がパルマノーヴァである。ヴェネチアの穀倉地帯であるこの地を守るために築かれた。星型の出っ張りは9つあり、入口は3箇所のみ。これらの出っ張りは砲台を備えた陣地であり、死角をなくして入口に迫る敵などを砲撃できるようになっている。これはこの時代の最先端の構造であったという(五稜郭なんかもこれを参考にしたと思われるが)。

さらにアルプス越えの交易路を守るための都市も築かれた。ベルガモはヴェネチアの西の玄関口だった。岩山の上に築かれた町は全長5キロの城壁で守られている。アルプスを越えた商人はこの街を通ってヴェネチアに運ばれた。さらにアルプスを望む湖岸に築かれたのがペスキエーラ・デル・ガルダ。ここは湖が川に流れ出す場所で水運の要であった。湖上の都市はまさに湖のヴェネチアであった。

これらの都市は16~17世紀の要塞の姿を伝えるものとして世界遺産となった。

東ローマ帝国の自治領の時代から今まで、外交と防御で、国体を維持してきた『ヴェネツィアベニス』は凄いです。

(記事投稿日:2022/06/21、#543)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『美と破壊の女優と呼ばれるグランプリ女優・京マチ子さんの凄さ』 『女優は監督を選べないが、大勢の監督が選んだ、稀な女優の一人』

2022-06-20 19:57:56 | 映画

『美と破壊の女優と呼ばれるグランプリ女優・京マチ子さんの凄さ』

『女優は監督を選べないが、大勢の監督が選んだ、稀な女優の一人』

 

京マチ子さんは表題通りの美と破壊の大女優と呼ばれ、同時代の五大女優(桑野通子・原節子・山口淑子・高峰秀子・京マチ子)の一人、原節子さんとは両極端に位置づけられそうです。 北村匡平氏の『スター女優の文化社会学 戦後日本が欲望した聖女と魔女』作品社2017年9月発行があります。

 ウエブ情報から引用

この本を著した北村匡平氏のプロフィールです。

1982年山口県生まれ。 東京大学大学院学際情報学府修士課程修了、同大学博士課程単位取得満期退学。 日本学術振興会特別研究員(DC1)を経て、現在、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。 専門は映像文化論、メディア社会学。
単著に『美と破壊の女優 京マチ子』(筑摩選書)『スター女優の文化社会学 -戦後日本が欲望した聖女と魔女』(作品社)、訳書に『黒澤明の羅生門 -フィルムに籠めた告白と鎮魂』(ポール・アンドラ著・新潮社)、共編著に『川島雄三は二度生まれる』(水声社)『リメイク映画の創造力』(水声社)など。

 

先ずは、その抜粋と引用です。

『彼女たちはいかにして「スター」となったのか。 なぜ彼女たちでなければならなかったのか。 原節子と京マチ子を中心に、スクリーン内で構築されたイメージ、ファン雑誌などの媒体によって作られたイメージの両面から、占領期/ポスト占領期のスター女優像の変遷をつぶさに検証し、同時代日本社会の無意識の欲望を見晴るかす、新鋭のデビュー作。


本書が描こうとしているのは、スター女優が「国民的スター」として存在することができた最初で最後の時期――映画と戦争が協働しながら理想の帝国を築こうとし、一つの国家が映画に描かれた民主主義を目指した時代の「国民的スター女優」である。 日本映画を支えてきた(…)スター女優たちの存在は常に国家の記号『ナショナル・シニフィアン(意味しているもの・表しているもの)』だった。 だが、社会の集合的欲望が作り出すさまざまなスター女優のなかで、なぜ彼女たちでなければならなかったのか。 この問いを突き詰めれば、現代社会を生きる私たちの意識とも直結する戦後の日米関係や日本人の美意識の系譜など、日本人の〈戦後〉を異なる視点から解明してくれる。 すなわち、彼女たちの身体イメージから、戦後日本のナショナル・アイデンティティが透けて見えてくるのである。集合的欲望としてスクリーンに投影されるスターこそ、潜在的な意識を顕在化させる文化装置――あるいは抽象的な欲望を具現化する媒体(メディウム)なのである。』

 と、紹介されています。

大女優の基準を、人々を惹きつけ、映画を中心の場として活躍し女優たちとすると、そこで挙がるのが原節子、田中絹代、高峰秀子です。 この三人が日本映画を代表する女優ではないかと思います。 映画が娯楽の頂点にあった昭和という時代に、映画界で活躍した女優・日本映画の『三大女優』と言われるのは、この三人でした。 三人の出演した映画の多くは、傑作として記憶に残る作品が多くあります。 この三人で、すぐに思い出すのは、特徴的なのが、原節子には小津安二郎、田中絹代に溝口健二、高峰秀子に成瀬巳喜男という巨匠監督が存在したことです。 

昭和の名女優だった高峰秀子さんは『日本映画の最もいい時期に、最もいい監督と仕事ができて幸せだった』と語ったそうです。 が、高峰秀子さんや原節子さんは、溝口映画には出る機会がなかった。 そんななか、京マチ子さんは、日本の四大巨匠と称される、黒沢明、溝口健二、小津安二郎、成瀬巳喜雄の四監督監の映画に主演している

昭和の戦前戦後を通じての二大女優についての著書を見て、ますますこの二人の女優の大ファンになりました。 日本映画史上の三大女優を、傘寿爺が自分勝手に決めれば、残る一人は岸恵子さんで、別の機会に調べます。

(記事投稿日:2022/06/20、#542)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『古大陸文明の石造遺跡と、新大陸文明の石造遺跡の比較に、興味津々 2』 『ヨ-ロッパ中心の歴史は、凄い古代文明あった南北アメリカを新大陸と呼ぶ』

2022-06-18 13:18:28 | 歴史・世界・古代

『古大陸文明の石造遺跡と、新大陸文明の石造遺跡の比較に、興味津々 2』

『ヨ-ロッパ中心の歴史は、凄い古代文明あった南北アメリカを新大陸と呼ぶ』

 

インカ文明(後13世紀~16世紀)のオリャンタイタンボの6枚の屏風岩と、エジプト カイロのシタデル・要塞(後12世紀~14世紀)の比較

 

先ずは、6枚の屏風岩、凄いのは、の巨石の接合方法と運搬方法(切り出した場所から、約300ⅿの引き下ろし、渓流を渡渉、さらに約150ⅿの引き上げ)です。 さらに、この6枚岩のつなぎ目固定用に使われた板状の石板が見事です。 

この石工技術は、一般的には『木工技術ありきファースト』ですがその遺跡はありません。 更に運搬方法がに至っては全く想像もできません。

 

鉄製工具がなく、石製・青銅製工具で、ホゾ穴堀の方が難しく、このつなぎ目の石で、ホゾ穴堀加工で失敗したときに、新規に造り直しが出来るようにした。 この石板でなら百数十キロであり、比較的容易に、新規に造り直しができる。  つまり数十トンの巨石での、ホゾ穴堀加工の『オシャカ』対応をしないで済む。

ウエブ情報から引用

6枚中最大は、高さ4m、幅2.5m、厚さ1m、

6枚中最大は、高さ4m、幅2.5m、厚さ1m、重さ約80トン(加工石)。 

日本にもある石舞台(7世紀、時間差は約1,000年)には、77トンと60トンの天井石が載せられていますが、全く加工はされておらず、無垢の自然石です。

写真に見える、表面の突起は『継ぎ接ぎ(ツギハギ)』用ではなく運搬用の支点でしょうか、これを支点に回転させながら運搬したと言われています。

ウエブ情報から引用

 

同時代の、エジプト カイロのシタデル・要塞(イル・アルア)

 

  ウエブ情報から引用

ウエブ情報から引用

 

今後の調査のために、古大陸の目ソアメリカ文明とアンデス文明(チャビン文明、ワリ文明、モチカ文明、ナスカ文明、ティアワナコ文明、チムー文明、インカ文明)を整理しました。 

メソアメリカ文明『定住で農耕(田畑)あり』分類

文明

特徴

オルメカ文明

(前10世紀〜850年頃)

メキシコ湾岸に栄えた中央アメリカ初の都市文明。 絵文字を使った。 ジャガー神の信仰

テオティワカン文明

(前2世紀〜後6世紀)

メキシコのテオティワカンに栄えた文明。 ピラミッドを造営。 宗教・商業都市の発達。

マヤ・ティカル文明

(6〜14世紀)

ユカタン半島の古代文明。マヤ文字や階段ピラミッドを造営。スペイン人に征服された。

トルテカ文明

(6〜10世紀)

テオティワカン文明後に成立。 後に分散した。 人身供儀の風習。

アステカ文明

(12〜16世紀)

テノチティトランを中心に栄える。 ピラミッドや象形文字、太陽暦を使用。 1521年、コルテスによって滅ぼされた。青銅器文明・都市文明・20進法。

 

アンデス文明『定住で農耕(田畑)あり』分類 

・南米のアンデス山脈一帯には、アンデス文明が成立した。 アンデス文明は、チャビン文明、ワリ文明、モチカ文明、ナスカ文明、ティアワナコ文明、チムー文明、インカ文明などに分けられる。

文明

特徴

チャビン文明

(前1000年頃)

ペルーにおこった古代文明。 アンデス文明のさきがけとなった。

ワリ文明

(500年〜900年頃)

チャビン文化消滅後ペルー中部に栄えた古代文明。

モチカ文明

(100〜800年頃)

チャビン文化の後、ペルーで栄えた古代文明。

ナスカ文明

(1〜8世紀)

ペルーのカワチ遺跡周辺に栄え、地上絵を残した。

ティアワナコ文明

(1〜12世紀)

ボリビアで栄えた古代文明。

チムー文明

(12〜15世紀)

モチカ文明を継承。 インカ帝国に滅ぼされた。

インカ文明

(1200年頃〜1533年)

ケチュア族首都クスコを中心に建国した大帝国。 高度な石造技術と青銅器、キープを使用した。 著名な遺跡がマチュピチュである。1533年、ピサロに滅ぼされた。

古大陸と新大陸の文明の比較はこれからも興味津々です。

(記事投稿日:2022/06/18、#541)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『古大陸文明の石造遺跡と、新大陸文明の石造遺跡の比較に、興味津々 1』 『ヨ-ロッパ中心の歴史は、古代文明のあった南北アメリカを新大陸と呼ぶ』

2022-06-18 10:52:46 | 歴史・世界・古代

『古大陸文明の石造遺跡と、新大陸文明の石造遺跡の比較に、興味津々 1』

ヨ-ロッパ中心の歴史は、古代文明のあった南北アメリカを新大陸と呼ぶ』

古大陸文明と新大陸文明の『差とか、違い』は、そこに、大河川が存在したかが大きい。 大きな水位差のある、定期的に氾濫する大河川の近くでは、必要から『数学・治水』が発達したことの『差とか、違い』があるのではないでしょうか、しかし、天文学は古大陸文明と新大陸文明のどちらでも発達していたようです

古大陸の最古の文明は、前3500年頃、西のユーフラテス川と東のティグリス川という2つの大河川の近くで誕生・発展したメソポタミア文明です。 この影響を受けながら、ナイル川流域に農耕文明が発展したエジプト文明はおよそ前3000年前、欧州各地の巨石文明は、前2500~前2000年頃に始まりました。 やはり、欧州各地の巨石文明は別ですが、文明発祥・発展は、大河川の近くでの『定住・農耕』が最低条件ですが、特例・特別は、日本の縄文文明、『「定住」で採集・狩猟・漁労で、農耕(田畑なし)』との説もあります。 

古さの順に並べてみます。

メソポタミア文明 『定住で農耕(田畑あり)』

エジプト文明   『定住で農耕(田畑あり)』

欧州各地の巨石文明移動で採集・狩猟・漁労で農耕(田畑なし)

縄文文明     定住で採集・狩猟・漁労で農耕(田畑なし)

縄文時代は欧州各地の巨石文明と同時代。 

欧州と日本の違いも不思議ですが、やはり、文明発祥・発展には、 

  • 年間に河川の水位が数メートルから十数メートルと大きく変化するが、
  • 河床勾配は、小さい『大河の近く』で、

『治水と農業』のために、『数学・天文学ベースの文明』が発祥・発展したと考えています。

さて、表題に戻ります。 天候や地殻変動で農耕ができなくなると、人類は定住ができなくなり、歴史の盛衰を繰り返してきました。 それを顕著に証明しているのは、スペインが入植するまでの南北アメリカの文明です。

 

 ウエブ情報から引用

メソアメリカ文明『定住で農耕(田畑あり)

  • ヨーロッパ人が征服活動を行うまでは、南北アメリカには高度な文明が存在した。 アメリカ大陸原産のトウモロコシを主食としたインディオと言われる人々が、南北アメリカ各地に広がり、文明を築いた。

  • メキシコ高原から中央アメリカにかけて、メソアメリカ文明が成立した。 メソアメリカ文明は、オルメカ文明、テオティワカン文明、マヤ文明、トルテカ文明、アステカ文明などに分けられる。 

ギザの大ピラミッドコンプレックスよりは、年代では、ずっと後になりますが、南北アメリカの遺跡のスケールと緻密な設計にも驚きます。 

(1)メキシコ・テオティワカン(前2世紀〜後6世紀)の縄張りと、そのデザインセンスと、エジプトの大ピラミッドコンプレックス(前25世紀前)の比較(時間差は大きく、単純な比較は難しい)。 

テオティワカンの平面図(約2200年前建造)

ウエブ情報から引用 

テオティワカン俯瞰(約2200年前建造)

ウエブ情報から引用 

大ピラミッドコンプレックスの平面図(約4500年前建造)

ウエブ情報から引用 

大ピラミッドコンプレックス俯瞰(約4500年前建造)

ウエブ情報から引用

古大陸と新大陸の文明の比較はこれからも興味津々です。

(記事投稿日:2022/06/18、#540)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『花の世界 8(深窓に隔離された、エーデルワイス・セイヨウウスユキソウ)』  『運よく遭遇したのが、鎌倉市にある「神奈川県立大船フラワーセンター』

2022-06-14 08:35:34 | 

『花の世界 8(深窓に隔離されたエーデルワイス・セイヨウウスユキソウ)』

『運よく遭遇したのが、鎌倉市にある「神奈川県立大船フラワーセンター』
 
『ヤマをやった』山男の多くが憬れる花が、エーデルワイスと呼ばれる高山植物で、アメリカ合衆国のミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』の挿入歌『エーデルワイス・Edelweiss(セイヨウウスユキソウ)』です。 この花は、遠い国の花だと、ばかり思っていました。


 2017/05/18撮影

 この憧れの可憐でビューティフルな『エーデルワイス・Edelweiss(セイヨウウスユキソウ)』に、ほんとに運よく遭遇したのが、鎌倉市にある『神奈川県立大船フラワーセンター』でした。 いつもの写真仲間と、いつもように、昼食場所と時間、帰るときは正門での集合時間を決めて、後は自由勝手に撮影です。 この時も帰りの集合場所の、正門を入った『真正面』の棚に、その花が一鉢置かれていました。 『また、いつでも来られる』と思いながら、慌てて、何枚か撮ったうちの一枚がこの写真です。 興奮のあまり花には咲く季節があるのをその瞬間は忘れていました。

 高名な写真家A氏は、スタッフに沢山の撮影機材を準備させるのが有名ですが、特に『花撮影には沢山の種類のバックボード』です。 これを思い出して
棚の後ろに置かれた『エーデルワイス・Edelweiss(セイヨウウスユキソウ)』の後ろにバックボードが置けるかどうかも考えずに『全は急げ。花には開花時期あり』と翌日、おっとりカメラで出かけました。 運悪く『深窓(参観ができない温室)に隔離』されており、撮影はできませんでした。 ショックが先で『次は、いつ撮影できますか』も聞けず、すごすごと帰宅しました。

 腹いせに少し調べました。 ウエブ情報抜粋です。
セイヨウウスユキソウ(西洋薄雪草、学名:Leontopodium alpinum)は、キク科ウスユキソウ属に分類される高山植物。 ハナウスユキソウ(花薄雪草)と呼ぶ場合もある。  ヨーロッパ各国において、単にエーデルワイスといえばこの植物種を指す。 ただし日本には本種が分布しないため、ウスユキソウ属に分類される高山植物全てがエーデルワイスと称されることがよくある。 日本産種で本種にもっとも外観などが似ている近縁種はハヤチネウスユキソウであると一般に言われている。

トラップ大佐が、ドイツに併合され消えゆく祖国オーストリアを想い、オーストリアの象徴としてエーデルワイスを愛でて歌う。 作曲リチャード・ロジャース、作詞オスカー・ハマースタイン2世のコンビによる最後の曲であり、オスカー・ハマースタイン2世の遺作でもある。 

阪田寛夫による訳詞のものが日本の教科書に採用されるなど、大ヒット曲となった。 登山愛好者向けの歌集にも収録されている。  防災行政無線の時報として用いる自治体がある。 エーデルワイスの原語は独: Edelweißで、「高貴な白」という意味である。 オーストリアを称える内容から、オーストリアの国歌、あるいは民謡と勘違いされる事がしばしばある。 

一般にはエーデルワイスの名で知られ、ヨーロッパでもっとも有名な高山植物である。エーデルワイスの名は ドイツ語の edel(高貴な、気高い)と weiß(白)に由来する。 ドイツ語圏以外でも本種の呈する白い外観は純潔の象徴と捉えられており、ルーマニア語名 floarea reginei(女王の花)もこれに由来している(元々はラテン語である)。 

高山帯に見られるため多くの地域において山や山に関する事物に関連づけられており、また花言葉にもなっている純潔の象徴としてもさまざまな事物にその名が引用されている。エーデルワイスの名を持つ事物の一覧については「エーデルワイス (曖昧さ回避)」を参照。 

学名は属名 Leontopodium が「ライオンの足」を意味しており、ギリシア語の leon(ライオン)と podion(pous、足の小さい人)の合成語である。種小名は「高山に産する」といった意味を持つ。 スイス連邦および非公式ながらオーストリア共和国の国花に選定されている。 

自生地では古くから消化器及び呼吸器疾患に対する処方薬として民間療法で使用されてきた。一方で園芸植物としてもロックガーデンなどで盛んに栽培されており、ヨーロッパ・アルプスの観光地では種子に苗、花や蕾の付いた株をよく売っている。成長が早く、きわめて簡単に種子から育てることができる。 
ヨーロッパ・アルプスにおいては、夏季に高山帯に家畜を上げ放牧する習慣があるため、それら家畜の食害を受け、スイスの観光地などでは開発により個体数が激減しており自生株自体がそう多くない。 また、名や象徴から受けるイメージから華やかな印象があるのだが、実物は開花中であってもとても地味で目立たないため、現地を散策し野生の本種を発見するのは難しい。 

 日本の山男が日本の山で遭遇していたのは、こちらも清楚ですが魅かれる高山植物で、ミヤマウスユキソウ(深山薄雪草、キク科) 全体に灰白色の綿毛におおわれている。 花のつかない茎は伸びず、葉がロゼット状に広がる。 エーデルワイスの近縁で、人気の高い高山植物。 高山に生えるウスユキソウの意味。 山男は悪乗りして、見知らぬ花の名前を、娘さんに山で尋ねられると、下界(失礼、山男は常にこう呼んでました)の似た花に『ミヤマ・深山』をつけて『ミヤマ・深山・・・ソウ』と答えたものです。
 
ウキぺデイアより引用

 (記事投稿日:2020/06/10、最終更新日:2024/07/01、#176)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする