知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『大ピラミッドのこと 1.1(石材230万個を、接着剤なしで、傾斜52度で積上げ)』

2023-08-08 07:55:25 | 歴史・世界・古代

『大ピラミッドのこと 1.1(石材230万個を、接着剤なしで、傾斜52度で積上げ)』

『「不揃いの石材積上げ」理論は経験からか、化粧石が剥落したので、見えるのは今』

『内部の複雑な傾斜通路と謎の構造と使用目的に関する疑問』

『大ピラミッドの王の間の上部の「五層の重量軽減の間」の技術で建っている』

今回(2024/04/04)のアップデートは『大ピラミッドは(石材230万個を、接着剤なしで、傾斜52度で積上げ)てあるが、地震もあるエジプトで、約4500年も崩壊していないのは、「石材230万個の寸法が不揃いであること」』も一要因であると言われています。 ピラミッド建設時代は約1000年続いて、そのあとの時代は、『神殿建設時代』から『地下墓所建設時代』と続きます。 

この約1000年間に100基余のピラミッドは建設され、約1000年間の中ごろに、国力が最も充実した時代に、最も完成度の高い大ピラミッドが建設されています。 この『不揃いの石材積上げの理論』は、長いピラミッド建設時代の経験で培われたものでしょうか。 約4500年前に不揃いの石材の階段状を、白色の石灰石の化粧石で、真っ平の面の、四角錐にした古代エジプト人にはただ驚くばかりです。 四面の中央が凹んでおり、正確には四角推ではありません。これも崩壊防止のためともいわれています。 経験から来た技術とは言え、想像を絶するレベルです。
大ピラミッドのトップビュー『不揃いの石材積上げ』が見える写真
 ウエブ情報から引用

前回(2023/08/08)のアップデートは、石材の傾斜路引き上げ方法、『3年前の情報⇒❶建設時の指揮官の日記と、❷椰子の皮製ロープで使える木製滑車代わりに、丸太柱を滑車として石材を引き上げたこと、が判明』、詳細は、別ブログ『大ピラミッドのこと 7(遂に「ピラミッドの石材運搬方法が完全解明)』 参照願います。

 

『世界の七不思議』で唯一現存するピラミッド。 『世界の七不思議』の

 ほとんどが、地震によって破壊されたが、大ピラミッドの『王の間』の上部

 『五層の重量軽減の間』の技術で大ピラミッドは、4,500年立ち続けている

 この仕組みがなければ、中央部分が地盤に沈み、崩壊したと言われている。

 

 『時はすべてのものを嘲るが、ピラミッドは時を嘲る』と言われる。

 4,500年以上も立ち続ける大ピラミッドを敬った昔のアラブ人の諺。

 

4,500年で満期を迎えた人類史上最大最長の財形貯蓄』であるピラミッドの

 おかげで、エジプトの観光収入は、年間40億ドル。   これでも、パリの

 エッフェル塔には及ばないとか・・・・・。

 

 

 

ピラミッド学上の不幸は、アレキサンドリア大図書館の関連書物がローマ時代

 のカエサル帝とテオドシウス帝の時代に焼失したこと。

ヘロドトスの著書『歴史・ヒストリアイ』、歴史の語源になったが、これは

 動詞『調査する・ヒストリオ』等の派生である。

 

このヘロドトスが、10万人の奴隷を動員、20年の歳月をかけたと言った。

 これが定説になっていたが、これが3カ月交代であれば、後述のハーバード大のレーナー博士の立証と合う

 ピラミッド研究に、最大の貢献は、ロゼッタ・ストーンの解読でした。

 これには、『ヒエログリフ』象形文字、それを簡略化した『デモティク』民衆

 文字と古代ギリシャ語の3種類の言語(トリリンガル)で布告が書かれていた。

 『ヒエログリフ』は表音文字、表意文字の混合でした。 これは最も進化したと言われるハイブリッド言語です。

 

 日本語は現在、唯一のハイブリッド言語です。 れが今では『ハンデキャップ』。 韓国も、ベトナムも、インドネシアでも、現在はハイブリッド言語ではない。

 

それでは、ピラミッドの『WhyHow』の整理を試みます。

 このトリガーは、グラハム・ハンコックのベストセラー『神々の指紋』に

 ある『ピラミッドは12000年前に超古代文明人が造った!?』という

歪められたピラミッド学でした。  12000年前オリオン座の三つ星が

 ピラミッドの配置と同様であったとの理由だけで。 12000年前は、

 地球は第6氷河期の終り頃で、旧人ネアンデルタール人が滅んだ時代でした。

 

 1)  ピラミッドは何のために

 『目的』は、一つではない。直説・間説目的の相乗効果がピークに達した、 

   時期に大ピラミッドが造られた。その後は直接目的が薄れた。

『直接目的と背景』は、王の魂の甦る・復活の場所、王を神に変えるための

   仕組みと、国民の太陽神への信仰心からくるモチベーション。

   王の間(奥行き10.5m、巾5.2m、高さ5.8)の空の石棺は、従って、

  魂の休息所では。要調査

 

『間接目的』は、ナイル氾濫期の失業対策と国威発揚

   奴隷ではない労働者は、飯場でビールとパンで生活。

 『王墓』説、ヘロドトスは、エジプトの神官から『これは王の墓だ』と聞いた

   だけで、現在まで立証されていない。

   今まで盗掘されず無傷で発見された古王国の王家の墓は、スネフェル王の

   妃の ヘテプヘルスの墓だけ、宝飾類、家具、ミイラ化処理された内蔵

  だけで、ミイラ本体は発見されていない。 

   ツタンカーメンの墓は、ピラミッドではない。

   しかし、一部のピラミッドで地下深くに、墓が発見されている。

 『ピラミッドテキスト』には、王が死して鳥となり地下より地上に飛び立つ。

   そして西の空に向かっていくとある。 地下室が墓で、上は神殿。      

   太陽の船、二艘目も発見され、太陽の船は二艘、一艘には、マストと帆と

  ロープ、この船には、

  太陽神ラーが、もう一艘には、ロープだけで、これに神になる王の遺骸が

  乗って太陽神ラーに、引っ張られて西へ・・・・。

 

『石棺』になぜ蓋がない。 石棺ではなく太陽神ラーの合体儀式の用具では。

  日の出に始まり、日没に終わる儀式。

 

2)  ピラミッドの造り方

   重い石を運ぶことに、エジプト人は熟練していた。 大ピラミッドが

  建設された2,000年後(2,500年前)には、250トンのオベリスクを

   運んで直立させている

 

 基本的な知識

『計測輪』で距離を測ったので、当然、円周率(π、パイ)は経験的に判る。

『北方角の決定』は、恒星が東から昇る方角と西に沈む方角の、2等分点。

 『コロ使用説』は非現実的『テコと橇と逆レール』で直線型傾斜路を引き揚げ。

   エジプト人が、機械や、滑車や、車輪を使った証拠はないとの説も

  あるが、滑車使用の傾斜路引き揚げでないと、大回廊と王の間は

   構築できない(要紙上調査)。 大回廊の下部にその痕跡がある

他に、『らせん状傾斜路』仮説、 『ジグザグ型傾斜路』仮説、

    『封筒型傾斜路』仮説、 『複合型傾斜路』仮説、 

    『渦巻型傾斜路』仮説、  

 もあるが非現実的。

 

『内部トンネル傾斜路』仮説は、

   最近のドイツの建築技術者のもの。

   内部傾斜路での直角方向に転換を、滑車で吊り揚げ。

   高さ3分の1までは直線傾斜路、上部は内部トンネル傾斜路説。

   目下、最有力説。 重力分布測定でトンネル空洞は観測された。

 『橇』は逆レールに、水又は油を潤滑剤として使用。

 『逆レール』は二本の溝に角材木を敷いたもの。

 『水平』は岩石大地に碁盤の目の溝を切り、水を張り、水平に削る。

 『バットレス構造』の石積みは、重力エネルギーを上下に吸収で長寿命。

 

 この大ピラミッドのバットレス構造(要調査)

 『正四角錐の真正ピラミッド』は太陽信仰の絶頂期に、太陽の光をイメージ。

 『真正ピラミッド設計』は、ヘムオン、ピラミッドの中興の祖、これ対し

 『階段ピラミッド設計』は、イムヘテプはピラミッドの開祖

  前述の『バットレス構造』も、ヘムオンが考え出した。

 『肥沃な土地』40平米で一人の人間を一年間養えたと記録もある。

       高官や支配階級は10,000平米も持っていた。

『妻』や『ミセス』と同じ意味合いの言葉や肩書あったが結婚の概念なかった。

 『住環境』は劣悪だが、床屋で石の刃で髭は剃った。

 『クフの石切り場』と言われる石材の豊富な場所は、キザの南方3km。

           230万個の殆どの石材は、ここから運ばれた。

 『労働力』大ピラミッドには平均1立米、2トン半のブロックが、およそ

   230万個使われ、『トリノ・パピリス』によれば約23年かかった。

   一日10時間労働で、約2分に一個積み上げた。

 参考情報: 江戸城の石垣の石材は数百万個と推定される

 

ハーバード大学のレーナー博士の立証では、

 直接労働

 『石の切り出し』 1,212

 『石の運搬』:  34チーム・20人・2交代=1,360人。        

 『石の積み上げ』:680人、 その他748人  小計約4,000

 補助的支援労働: 約20,000人    合計24,000

 チームには、組頭の兵隊が1名入っていた。 人足の給料はすべて食料と衣類で支払われた

 クフ王の間に使われた赤みかげ石は、40トンもありアスワンから平底船で

 運ばれた。

 

石材運搬用傾斜路

王の間の構造に使用された巨大石材(一本60トン、43)は、ナイル川

を平底船で運搬され、陸揚げ後は、橇と逆レールで引き上げられた。

 この巨大回廊(高さ8.5m、巾2.0m、長さ47.0)が巨大石材の運搬用で、もあったのでは。

   滑車とナツメヤシのロープとレバノン杉の橇で、更に吊り合い重りを使用。 

  (要調査)

 従来の『西向き直線型傾斜路』仮説には弱点、

 河岸からサイトまで、東西で長くなり、緩傾斜では、高さ147mまで

 の距離がとれず、揚げられない。

 

 最近の最有力説は、『南向き直線型傾斜路』仮説

 ナイル川西岸からキザ台地には西向き『直線型』では距離不足で傾斜が

 きつくなるので非実際的との説であったが、最近、大ピラミッドの南側に

涸れ谷が発見され、ナイル川氾濫期には船が着けられ南向き傾斜路も長く

 とれるとされる。

 朗報、最近南側で、南向き傾斜路遺跡の一部が発見された。

 

現在は階段状に積み上げられた石がむき出しだが、もともと『化粧石』(磨きこまれた石灰石)で

コーティングされていた。

 この『化粧石』はトップから貼り付けたか、下部から貼り付けたか(要紙上調査)

 大ピラミッド、キャップストーンのトップへの乗せ方は、前述のドイツの建築

 技術者の建築方法が実際的。

 

ピラミッドの工期

 今までは、雨期(夏)に造られたと言われたが。 春にも造られた、

 つまり一年中作業できた説が有力。

 何年で完成したか。 従来は27年と言われていた。

石材には切り出された年と季節の記録あり、傾斜路の取り外された後の

太陽の船の納める穴の蓋石の記録から、工期は20年以内と証明された。

 (記事投稿日:2013/03/24 、最終更新日:2023/08/08、#073)

 

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『キリスト教徒とイスラム教徒の攻防は、スペインの要塞都市・ クエンカから』 『レコンキスタは、イベリア半島北部で始まり、南部のグラナダ で奪還が完了』

2023-08-07 22:52:25 | 歴史・世界・中世ー現代
『キリスト教徒とイスラム教徒の攻防は、スペインの要塞都市・
クエンカから』
レコンキスタは、イベリア半島北部で始まり、南部のグラナダ
で奪還が完了』

この表題に備えて予備情報です。

キリスト教は、ヨーロッパ生まれの巨大宗教で、レコンキスタ当時は、ヨーロッパ中がキリスト教の影響を受けまくっています。

イスラム教はアラビア半島で生まれた宗教で、610年に始まって以来、色んなイスラム教の国が生まれたり消えたり、他の地域に攻め込んだりしていました。

イベリア半島は、ヨーロッパの南西にある半島です。現在は、スペインとポルトガルがあります。レコンキスタの舞台となった場所です。

崖上の要塞都市グエンカ スペイン北東部

 ウエブ情報から引用

この『魔法にかけられた街』『空中都市』とロマンチックな異名を持つクエンカはその名の通り、まるで絵画を見ているような風景の街。 実際に遠くから見ると断崖絶壁にあるクエンカの街は宙に浮いているように見えるそうです。

スペイン東部のカスティーリャ=ラ・マンチャ州にあるクエンカは、9世紀にイスラム教徒によって、フカール川沿いの石灰岩の岩山の上に築かれた要塞が起源。 その後、12世紀にカスティーリャ王国のアルフォンソ8世がレコンキスタによってこの都市を奪還し、ここに王国の主要都市を建設しました。

1257年頃に建造されたクエンカ大聖堂

ウエブ情報から引用

20世紀にはファザードが再建されていますが、実はいまだ未完成のまま。

 
ファザード
 建築物の正面部分(デザイン)のことである。フランス語に由来し、英語のfaceと同根[要出典]。最も目に付く場所であり、町並みを形成するもので、設計上、重要視される。

スペインのクエンカにあるクエンカ大聖堂は、1196年から建設がはじまりましたが、現在も未完成のままで、20世紀初頭に再建されたファサードが美しい大聖堂です。 ここはスペイン唯一のノルマンディー・ゴシック様式の大聖堂で、アビラ大聖堂と共にスペイン最初のゴシック様式とされ、北側の交差廊などにはルネサンス様式の装飾も見られます。

聖堂内の周歩廊は二重となっており、三連窓やアロンソ・ベルゲーテによって彫刻が施されたプラテレスコ様式の扉などがあり、正面に向かって右側の博物館には祭壇画や絵画など貴重なコレクションも見ものです。 また、今ではクラシックコンサートも開催されています。

サクラダ・ファミリアのように建造が進んでいる様子もないので、クエンカ大聖堂がいつか完成する日が来るのかは謎のまま。 とはいえ、クエンカ大聖堂はスペイン最古のゴシック様式建造物のひとつで圧巻の美しさがあります。

城砦グラナダとアルハンブラ宮殿 スペイン南部中央

ウエブ情報から引用

今後の、スペインの中世史調査のために、イスラム教と、キリスト教と、レコンキスタとが理解できるウエブ情報の抜粋・引用です。

スペインは紀元前200年頃からローマ帝国の支配下になり、ローマの進んだ技術がスペインに伝わったことで数多くの建築物が建てられた。 スペインの代表的な都市は新しくできた街であるマドリードを除けば、ほとんどこのローマ時代に起源を持つか、あるいはそれ以前にあった町がこの時代に本格的に発展したものと言われている。

しかしローマ帝国が崩壊すると北ヨーロッパ系の西ゴート族がスペインに侵入し5世紀前半にはスペインを制圧。 スペインは西ゴート王国となり、ここまでがスペインにキリスト教文化が根付くまでの歴史。 こうしてローマ帝国とその後の西ゴート人による支配によってキリスト教の土壌がスペインに出来上がっていくことになる。 しかし、それも長くは続かない。

ここで、イスラム教徒が登場時は西暦711年。 北アフリカから押し寄せたイスラム教徒の軍勢が西ゴート勢を圧倒。 彼らは破竹の勢いで侵攻し、スペインを一気に北上していく。 その勢いはとどまることを知らず、西ゴート勢はピレネー山脈の辺りまで撤退することとなった。

これによってスペインのほとんどがイスラム教勢力によって制圧され、ここからスペインはイスラム教徒の国へと姿を変えていくことになった。 イスラム教徒は、なぜこんなに簡単にスペインを手に入れてしまうほど、強かったのだろうか。

イスラム教は西暦610年頃、ムハンマドが神の啓示を受けたことによって始まった宗教で、ムハンマドが亡くなった西暦632年の後も、彼の教団は爆発的な勢いでアラブ地域や西アジア、さらには北アフリカ地域にも広がっていった。 そして680年頃にはシリアのダマスカスを首都としたウマイヤ朝という王朝まで成立する。 これがイスラム帝国のはじまり。 つまりイスラム教という宗教が単なる宗教教団という枠を超えて、国家そのものになっていったのだ。 

スペインへの進撃はイスラム帝国がさらに領土を拡張していこうという流れの中から生まれてきたもので、アラブからエジプトに入り、ひたすら西へ進みモロッコへ。 モロッコからスペインは海峡を隔てて目と鼻の先だ。 そしてイスラム帝国の強みは、違う民族同士でも、イスラムという信仰の絆によって協力が可能だった。

北アフリカからスペインに進軍していくときも、どんどん仲間が増えていく。
たとえ民族や言語が違ったとしても、イスラム教徒でさえあれば同盟は成立する。 内紛ばかりしていた西ゴート人では一枚岩のイスラム帝国軍になす術もなかったことだろう。(同じ一神教のキリスト教徒とは異なるようです。)

イスラム教徒の土地となったスペインは、他のヨーロッパ世界とは異なった独自の世界を構築していくことになる。 特に8世紀後半以降からスペイン南部のアンダルシア地方でイスラム文化は花開き、特にコルドバは当時世界に誇るほどの大都市となっていった。

その繁栄ぶりがいかに大きなものであるかというと、10世紀当時の全盛期ではコルドバ市内に600のモスク、300の公衆浴場、50の病院、17の高等教育施設、そして何十万冊もの蔵書を持つ20の図書館が存在していた。

当時のヨーロッパではコンスタンチノーブル(現イスタンブール)を除けば人口3万人以上の街はほとんどなく、ましてや上に挙げた公共施設などほぼ存在していなかったというありさまだったという。 ヨーロッパ暗黒時代とスペインイスラム世界の繁栄ぶりの差はここに極まったと言えるだろう。

レコンキスタ、
とは再征服、国土回復戦争という意味。 つまり、ピレネー山脈まで押し出されたキリスト教徒がイスラム教徒に奪われた土地を再び取り返していく戦いをレコンキスタと呼んだ。 始まりは722年、711年にイスラム軍が侵略してキリスト教徒がピレネー山脈まで追い出されたすぐ後。

実は割と早くに戦いの火蓋は切って落とされていたのだったが、国土奪還は遅々として進まなかったのが実情。しかし、西暦1002年、ついに膠着状態が破られる。 スペインをまとめていたコルドバの最後の王が亡くなり、イスラムの領土は多数の小国に分裂していったこと。 スペイン全土は小国同士で覇権を争う戦国時代に突入。

これが転機となりキリスト教徒勢が一気に攻勢をかける。 そして1085年についにトレドを奪還。 その後もレコンキスタは続き、1248年までにはスペインに残るイスラム教の国はグラナダを残すのみになった。

上納金をスペインキリスト教国の王に納めることでなんとか生きながらえていたグラナダ王国であったが1492年、ついにこの国も陥落。 これでレコンキスタは完了し、スペインはキリスト教国たるカスティーリャ王国によって統一されることになった。

ここからスペインはキリスト教全盛の時代へと入っていき、1517年ルターによって始められた宗教改革に対しては、反宗教改革の中心地として大きな役割を果たしていくことになる。 スペインはローマカトリックと密接なつながりを持った国だ。

もともと古代ローマ帝国の支配下だった影響やレコンキスタを支えたのもローマカトリックの流れ、だからこそルターが宗教改革を始めた時も、ローマカトリックを擁護しプロテスタントに反対する立場を表明した。 それほどスペインはローマに匹敵するほど熱烈なカトリック信仰を持つ国。

スペインはイスラム文化が花開いた国でもあり、カトリック文化が花開いた国でもある。 どちらも歴史上最高峰の文化遺産を、残してくれている。
スペインがヨーロッパでも独特な文化を持っているのも、イスラム教徒の支配とキリスト教徒によるレコンキスタによる影響がものすごく大きい。

スペインの歴史に、ますます興味津々です。
(記事投稿日:2023/08/07、#678)
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『小次郎の燕返しの「物干し竿」の正式名称は「備前長船長光」』 ―武蔵の野戦剣法・二天一流に対して、道場剣法と言われた小次郎の巌流―

2023-08-04 22:56:12 | 歴史・日本

『小次郎の燕返しの「物干し竿」の正式名称は「備前長船長光」』

―武蔵の野戦剣法・二天一流に対して、道場剣法と言われた小次郎の巌流―

長い鞘を背負っての決闘は不利なので手持ち刀を抜刀の後、鞘は投げた―

 

巌流島の決闘で『物干し竿の鞘』を投げながら言った一言、あまりにも、有名なシーンですが『遅いぞ、武蔵、臆したか』それに対して、武蔵は『小次郎、敗れたリ、勝つ者が何ゆえに鞘を捨てるか』といった台詞が、小説やドラマなどでは、おなじみです。

『岩流』は『三尺の白刃』を手にして決闘に挑み、武蔵は『木刃の一撃』でこれを倒したとある。 このときの武蔵の必殺の一撃は『電光猶ほ遅きが如し』と表現されている。 また碑文には『両雄同時に相会し』とあり、武蔵は遅刻していない。

ここで、野次馬的な邪推『佐々木小次郎はサウスポー』であった。 下の絵のように、小次郎は、いつも、映画でも、芝居でも、右肩から30㎝もある『物干し竿』の柄を出して背負っています。

ウエブ情報から引用

当時の日本人の平均的な身長は155cm~158cmと言われていますので、小次郎の身長、五尺七寸(約173㎝)、武蔵は、さらに大きく、六尺(約182㎝)と大変な偉丈夫であった。 剣道と抜刀道の有段者である津本陽氏がこう言っています。 

身長、五尺七寸(約173㎝)の小次郎の使いやすい刀は、身長より三尺(約91㎝)引いた長さが目安で、彼の使いやすい刀の長さは、二尺七寸(約82㎝)になる。 これは、まっすぐ立ち,利き腕で刀を下げ、切っ先が地上すれすれになる程度。 これに対して小次郎の大太刀の名『物干し竿』(刃渡り三尺(約91㎝)、柄一尺の大業物)も、『二天記』の記された江戸時代中期頃に名付けられたが、しかし、いつ誰が命名したのかははっきりしていない

小次郎の身長では、『物干し竿』刃渡り91㎝、柄30㎝を背中に背負った状態で抜刀は大変で、神業であったろうと思います。 さらに疑問が右肩から柄が出ていますので、まず右手ではストローク不足で、難しいので左手での抜刀『サウスポー・左利き』だったと思います。 今後の課題は、佐々木小次郎の実戦記録探しです。 

(記事投稿日:2021/05/30纏め、#339)

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『凄い人は、凄い人を知る 1(ちあきなおみ vs 中島みゆき)』 『「中島みゆきが、ちあきなおみに曲を書きたがっている」と新聞記事に!』

2023-08-02 23:27:22 | 歌・音楽・歌手
『凄い人は、凄い人を知る 1(ちあきなおみ vs 中島みゆき)』
『「中島みゆきが、ちあきなおみに曲を書きたがっている」と新聞記事に!』

先日(2023/08/01)BSTBS放送で『表現者 ちあきなおみ ジャンルを超えた歌声ちあき所有映像を公開』を見て感激しました。

ちあきなおみ『喝采』

 ウエブ情報から引用

中島みゆき『地上の星』

ウエブ情報から引用

ウエブ情報から引用です。
圧倒的な歌唱力と歌心。“不滅の歌声”と謳われるボーカリスト、ちあきなおみ。 平成4(1992)年 9 月、歌手活動を休止して以来、長い沈黙を続けている。 マイクを置いて 30 年。だが、その存在は今も多くの人を魅了している。
その証として、折々に発売されるCDアルバムは本人不在にもかかわらず、 売り上げチャートの上位にランクイン。2022年10月に発売されたコンセプトアルバム「残映」は、週間アルバムランキング演歌・歌謡曲部門で1位を獲得した。
 アイドル歌手としてデビューし、キャリアを積み「喝采」で日本レコード大賞を受賞、やがて、自らの歌の世界を構築。その思いは日本の歌だけにとどまらず、世界へ広がり、新たな道を歩いた。 時代を超え人々の心に生き続け、絶頂期を知らない世代にとっても、リスペクトされているちあきなおみ。歌謡曲、演歌、シャンソン、ファドとジャンルを超えたボーカリストの歌声を、TBSや所属事務所に残る貴重映像を中心にあますことなく紹介する。


■紹介予定曲
♪雨に濡れた慕情
♪四つのお願い
♪Ⅹ+Y=LOVE
♪恋した女
♪禁じられた恋の島
♪喝采
♪劇場
♪夜間飛行
♪円舞曲(ワルツ)
♪あいつと私 
♪恋挽歌 
♪役者
♪紅とんぼ 
♪ルージュ 
♪サーカスの唄 
♪人生の並木路
♪祭りの花を買いに行く 
♪部屋 
 ♪ひとりしずか   ほか

この特番の中で、衝撃的であったのは、『凄い人は凄い人を知る 1(ちあきなおみ vs 中島みゆき)』の表題そのものでした。

中島みゆきとちあきなおみの出会い
ちあきなおみへの提供曲『ルージュ』は、1976年に中島みゆきがちあきなおみに提供した曲で、後に中島みゆきもセルフカバーし、1979年のオリジナルアルバム『おかえりなさい』に収録された。

きっかけは研ナオコの『あばよ』
ちあきなおみが、中島みゆきに曲を書いてもらおうと思うきっかけになった曲が、研ナオコの『あばよ』。 1976年に中島みゆきが研ナオコへ提供したこの曲を、ちあきなおみが気に入り、やがて自分も曲を書いて欲しいと思うようになったという。 そんなある日、たまたま読んでいた新聞の記事に、ちあきなおみは衝撃を受ける。 その記事には、「中島みゆきが、ちあきなおみに曲を書きたがっている」といった内容が書かれていたそうです。

2人の出会いの日
お互い両想いであることを知ったちあきなおみは、北海道へ足を運んだ時、札幌の中島みゆきの実家へ電話をかけている。
 それをきっかけに親しくなり、2人は一緒に食事をすることになった。
中島みゆきにとって、ちなきなおみは憧れの存在だ。
1976年10月31日に行われた近畿大学工学部大学祭の中で、中島みゆきはちあきなおみのヒット曲『四つのお願い』を披露している。
 滅多に他のアーティストの曲を歌うことのない中島みゆきにとっては、異例のことだ。
「TAPthePOP」によると、憧れのちあきなおみを初めて目の当たりにした中島みゆきは、このような印象を抱いた。
「最初は憧れという感じで、本物かしら、さわってみようかしら(笑)。これはひとりよがりの見方かもしれませんが、気取らないひとだなって思いました」
一方、ちあきなおみも、シンガーソングライターという肩書には気難しさを感じていたが、実際、中島みゆきと会うと、すぐに緊張が解けた。
 イメージとは異なり、ずいぶんサッパリとした感じだったからだ。

と、ありました。 この時期、ちあきなおみと中島みゆきが、大活躍する時代には、香港とパナマに出向・滞在のために日本の歌謡曲界の『凄い人は凄い人を知る』を知る由もありませんでした。 
(記事投稿日:2023/08/02、#676)
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