◎両脇は赤煉瓦の塀になっていた(松本清張)
昨日の続きである。松本清張は、小説「鷗外の婢」を『週刊朝日』に連載するにあたって、小倉に森鷗外の旧居を訪ねている。当時、鷗外の旧居は、北九州市の文化財に指定されておらず、もちろん公開もされていない。おそらく、私人の住宅になっていたのであろう。
小説「鷗外の婢」では、森鷗外の旧居は、次のように描写される。小倉に宿を取った主人公の「浜村幸平」が、散歩がてら、鷗外の旧居までやってくる場面である。引用は、新潮文庫『鷗外の婢』(一九七四)より。
「ちょっと、散歩してきますよ。鍛冶町〈かじまち〉というのは、どっちに行ったらいいんですか?」
「門を出られたら、右のほうにずっと行ってください。電車通りから一つ手前の通りですから」
洋服に着替えて部屋を出るとき、
「あの辺はキャバレーやバーが多いですから、あまり遅くおなりにならないように」
と、笑いながら見送った。
その辺は向いの家から糸をひく音が睡【ねむ】たそうに聞えると鷗外が書いているのに、ずいぶん変ったと見える。教えられたとおりに歩いてゆくと、しばらくはお宮だ寺だのがある、暗くて狭い通りだったが、やがて屋根の上から色のついたネオンの光があちこちに見えてきた。
電車通りから一本手前の横の通りは、左半分にその種の店が集まり、右半分は静かだった。歩いているひとに鷗外の家を訊くと、すぐそばだと前って、その前まで連れて行ってくれた。門の前に「森鷗外旧居の趾【あと】」と木の標識が立っている。
門から格子戸【こうしど】の玄関までは四、五メートルぐらいの細長い石だたみで、両脇は赤煉瓦の塀になっていた。平家〈ヒラヤ〉の古そうな家で、当時の面影を残しているようだった。塀の中には、無花果【いちじく】のような葉が茂っていた。
「僦房【しゆうぼう】主人宇佐美」氏とは違う姓の名札がかかっていたが、格子戸の灯は消えて、家は真暗だった。街燈の光だけで透かして見ると、その暗い「相応な屋敷」が明治三十三年ごろのかたちに写ってきた。無花果の葉にまじって夾竹桃【きようちくとう】が見えそうである。
文中に、「森鷗外旧居の趾」という木の標識があったとある。ことによると、この標識は、小倉の郷土史家・田上耕作〈タノウエ・コウサク〉が建てた標識ではなかったか。田上耕作は、松本清張の出世作〝或る「小倉日記」伝〟の主人公・田上耕作〈タガミ・コウサク〉のモデルになった人物である。
北九州森鷗外記念会が発行しているリーフレット「森鷗外と北九州・小倉」によれば、田上耕作は、一九三八年(昭和一三)二月二六日、鍛冶町の森鷗外旧居前に、「森鷗外居住の趾」という木標を建てたという。「鷗外の婢」の主人公・浜村幸平は、「森鷗外旧居の趾」という木の標識を見たという。しかし、旧居が現存しているのであるから、「森鷗外旧居の趾」という表記はありえない。浜村幸平が見た標識には、「森鷗外居住の趾」とあったのではないか。しかも、その標識は、一九三八年に田上耕作に建てた木標そのものだったのではないか。
同じく文中に、「僦房主人宇佐美」という字句が出てくる。これは、森鷗外の鍛冶町の家の家主であった宇佐美房輝のことを指す。「僦房」は難しい言葉だが、借家の意味。「僦房主人宇佐美」にカギカッコが付いているのは、鷗外が「日記」の中で使用している字句であることを示したのである。【この話、さらに続く】