礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

寝仏と朝日観音の由来(『南都石仏巡礼』より)

2018-12-25 05:55:53 | コラムと名言

◎寝仏と朝日観音の由来(『南都石仏巡礼』より)

 今年の夏、神田神保町の澤口書店で、西村貞(てい)の『南都石仏巡礼』(成光館書店、一九三三)という本を買い求めた。図版が豊富で、記述も周到だという印象を持ったからである。いま、これを取り出してみると、巻頭の「図版第二十六」に「瀧坂寝仏」があり、「図版第二十八」に「瀧坂朝日観音石仏」がある。昔から、よく知られた石仏だったのであろう。
 これらについては、もちろん、本文でも解説されている。「奈良市内及び近郊」の部の「瀧坂附近の石仏」の節、および、それに続く「瀧坂の朝日観音」の節である。本日は、この二節を、まとめて紹介してみたいと思う(六六~六九ページ)。

  瀧坂附近の石仏

 新薬師寺から、ふたたびもとの瀧坂街道に出で、さらに東へとすすむと右に高円山、左に春日山の翠巒〈スイラン〉をうけて、その間を渓流がながれ、風気そぞろに身にせまるあたりに出る。渓流に沿うて更らに数丁を登ると、道は石畳の坂道となるが、このあたりは瀧坂と呼ばれて紅葉の名所として名高い。
 この瀧坂街道の路傍に、約四尺角ぐらゐの自然石で、岩の背面に大日如来〈ダイニチニョライ〉を陽刻した巌石〈ガンセキ〉のころがつて居るのに出くはす。俗に「寝仏」と云つてゐるのがそれである。一見、臥像〈ガゾウ〉を刻んだかのやうな具合になつて居るところから寝仏と云ふのであらうが、これはもと左手の山腹にあつたものが、崩落したものである。岩に刻まれた大日尊は金剛界の大日尊で智拳印〈チケンイン〉を結んでゐる。多分足利期のものであらう。
 左手の山腹には、また仏像を切付けた岩石が多数にあつて、そのうち「仏像巌」と呼ばれて数体の仏像を陽刻した岩石は、その彫刻の様風から察すると、寝仏とはほぼ同期のものとおもはれる。仏像巌よりやや上手へと登ると、また来迎弥陀〈ライゴウミダ〉の摩崖仏がある。巨大な岩石の表面をうすく壷形光背に彫りしづめて、そのなかに半肉で来迎相〈ライゴウソウ〉の阿弥陀如来〈アミダニョライ〉の立像を陽刻したものである。彫刻の手法様式とも、「朝日観音」とはまつたく同様であるから、その造立〈ゾウリュウ〉は鎌倉期のもので、作者もおそらくは同一人であらうかと想像される。此の石仏は高さ約六尺あまりで、相貌のどこかに微笑を隠してゐる。秀れた石仏である。

  瀧坂の朝日観音

 寝仏より数丁ひがし、渓流を距てて、対岸なる断崖に三体の仏像を切り付けた石仏巌〈セキブツイワ〉がある。
 俗に「朝日観音」と呼んでゐるが、これは、早朝、朝日が東の山端にさしのぼると、先づこの巌崖〈ガンガイ〉を照映するところから起つた名で、「観音」ではなく、中尊は如来〈ニョライ〉形で、左右の脇仏は声聞〈ショウモン〉形である。以前は中尊は阿弥陀仏、脇立〈ワキダチ〉は地蔵菩薩であると信ぜられて居つたが、これはむしろ中尊を釈迦如来、脇侍〈ワキジ〉を二仏弟子と見る可きもののやうである。巌石は高さ一丈五尺余、巾一丈五尺ほどもある大石で、仏像は殆んどその岩面一杯に刻まれ、中尊釈迦仏の高さ約七尺七寸、左右の二仏弟子像は約五尺ほどである。向つて右脇侍の背光だけが舟型になつてゐるが、他はすべて壷形である。彫刻の出来栄えも雄麗で堂々としてゐる。殊に中尊は最もすぐれて居り、細部も手堅く刻まれ、衣皺〈イシュウ〉も流暢で像全体に渋硬のあとがない。面相もやや微笑を帯びてしかも荘重である。
 一体、瀧坂のこのあたりは、古くから霊地として知られたところで、諸書にも春日山を霊鷲山〈リョウジュセン〉に擬して種々の物語を述べたのが散見されるが、この「朝日観音」は大方は釈迦説法の故事を彫刻したものであらう。はじめ各躯には年紀と施主の名が陰刻してあったやうであるが、今は中尊にある彫銘だけが稍々明瞭である。刻銘は次ぎのやうである。
 「于時文永弐年十二月日大施主□□□」
 文永二年は今を去る六百六十余年前で、多武峰〈トウノミネ〉談山神社〈タンザンジンジャ〉西門の所謂「高麗伝来」の弥勒〈ミロク〉石像と同期の造立である。
 文治から建久へかけての東大寺大仏殿再興にあたつて、諸堂の石垣廻廊の石材は、悉く地獄谷の山中から得たので、璋円僧都〈ショウエン・ソウズ〉の本願に依つて特に路傍大小の石に諸仏を刻んで衆人に結縁せしめたといふのは、これらの瀧坂附近の諸石仏を指すのであらう。璋円僧都は『春日御流記』の一伝によると解脱上人の法弟である。来迎弥陀の石仏といひ、この朝日観音といひ、これらの摩崖仏は、ことによると、かの般若寺〈ハンニャジ〉笠卒塔婆の作者の宋人伊行吉〈イノユキヨシ〉の一派の手に成るものかも知れない。

 引用の最後のほうにある「摩崖仏」は、原文のまま。一般には、「磨崖仏」と表記される。
 それにしても、この『南都石仏巡礼』という本は、なかなか良い本である。現地まで足を運んで書いおり、考証もゆきとどいている。明日は話題を変える。

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