礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

朝日観音から柳生街道を経て奈良市内へ

2018-12-24 01:36:14 | コラムと名言

◎朝日観音から柳生街道を経て奈良市内へ

 昨日の続きである。一九六六年(昭和四一)八月末、修学旅行の下見に奈良まで赴いたA・T教諭とF・K教諭は、たぶん、国鉄桜井線で京終(きょうばて)駅まで行き、そこから、徒歩で、「寝仏」を目指したのだと思う。途中、白毫寺(びゃくごうじ)にも立ち寄ったはずである。この真言律宗の古刹は、京終駅の東方、高円山(たかまどやま)の山麓にある。
 白毫寺をあとにした両教諭は、「大杉教会の前を通ってやっと街道らしい道にさしかかる」。この「大杉教会」というのは、「御嶽教大杉大教会本部」のことであろう(当時の呼称は不明)。御嶽教(おんたけきょう)というのは、奈良市大渕町に本部を置く、いわゆる教派神道である。
 両教諭は、この付近から「旧柳生街道」に入る。今日では、旧柳生街道は、「滝坂の道」と呼ばれているらしい。インターネットで、このあたりの地図を確認すると、「滝坂の道入口」という表示が見える。
 私がその地図を見たのは、「奈良まちあるき風景紀行」というホームページである。詳しく言えば、「【寝仏】滝坂の道沿いにある巨石の裏側には大日如来像が描かれる」という記事で見たのである。この記事は、すでにタイトルで、「巨石の裏側」と教えてくれている。親切なことである。ホームページ主宰者は、ここまでやってきたのに、寝仏を見つけられない観光客が多いことを知っておられるのだろう。
 記事を少し引用させていただく。

「寝仏」は、奈良市街地から「柳生の里」方面へと伸びる「滝坂の道」沿いに複数ある石仏のうちの一つであり、新薬師寺などのある高畑〈タカバタケ〉界隈から山道に入ってからの区間ではじめに出会う石仏となっています。
 道沿いに無造作に置かれたように見える「寝仏」が描かれた巨石には、ふつうに歩いているだけでは特に何も彫り込まれているような様子は確かめられませんが、少し立ち止まってこの巨石の裏手に回り込むようにして確かめると、風化でかなりわかりにくくはなっているものの、確かに寝転んだ姿勢を取っておられる仏さまのような模様をわずかに確かめることが出来るようになっています。
 描かれている仏さまは室町時代頃に彫られた大日如来様とされており、当初は付近の高台に設けられた普通の磨崖仏〈マガイブツ〉であったものが、落石により横倒しになった結果、寝転んだように見えるようになったとされており、当初から寝転んだ仏さまが描かれたという訳ではないとも考えられています。

 ところで、昨日、紹介した『旅のしおり』には、「日程一覧表」なるものが折り込まれている。それによると、一九六七年(昭和四二)四月一日のコースに、「柳生街道から市内へ」を選んだ生徒たちは、午前八時零分に奈良市内の「魚佐ホテル」を出発、八時三〇分に「朝日観音」に至る予定になっている。この間の交通手段は、たぶん貸切のバスだったのであろう。これを書いているうちに、少しずつ思い出してきたが、たしかに自分は、この「柳生街道から市内へ」のコースに加わっていたと思う。他の生徒たちと一緒に、一台のバスに乗りこみ、辺鄙なところで降ろされた記憶がある。
 おそらく、その降ろされた場所が、「朝日観音」の近傍だったのであろう。「日程一覧表」によれば、そのあとの行動は、朝日観音―夕日観音―寝仏―新薬師寺と歩き、あとは自由行動になっている。つまり、旧柳生街道(滝坂の道)をくだってゆく形で、奈良市内に至るというコースである。情けないことだが、朝日観音、夕日観音、寝仏、新薬師寺、いずれも全く記憶がない。ただ、そのあとの自由行動で「白毫寺」を訪れたことだけは、かすかに覚えている。【この話、さらに続く】

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