◎根津夫人に特に揮亳をお願ひした(谷崎潤一郎)
谷崎潤一郎『盲目物語』の複刻版を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
本日は、同書の「はしがき」と「目次」を紹介してみたい。
は し が き
一 ここにあつめた四篇は、それぞれ独立の作品であるが、いづれも作者の国史趣味乃至和文趣味を反映してゐると云ふ点で、何処かに共通した匂ひがある。作者は今後もかう云ふものを書くかも知れないが、さしあたり、引きつづいて此の方面へ進んで行かうとば考へてゐないので、取り敢へず此れだけを一冊に纒めてみた。
一 作者が昔文壇へ出た時の処女作は、栄花物語から材を取つた「誕生」と云ふ戯曲であつた。左様に作者の国史国文趣味は古くからのことであり、処女作以後にもその傾向を代表する作品が少くない。しかし此処に集めたやうなものが出来たのは去る大正十二年以来近幾の地に移り住んで古典に由縁【ゆかり】ある風土や建築や音楽の影響を受け、容貌言語習慣等に今も往々数百年来の伝統をとどめてゐる土地の人々との接触に依つて、ひとしほ作者の持ち前の趣味が培養された結果である。さう云ふ意味で、これらの作品は関西に於けるいろいろな交友、旅行、遠足、遊宴などの思ひ出と結び着き、作者に取つてなつかしいものばかりである。就中「吉野葛」を書くに就いては、大阪の妹尾徤太郎氏、大和上市〈ヤマトカミイチ〉の樋口氏、飯貝〈イイガイ〉村の尾上氏、吉野桜花壇の辰巳氏等の好意と配慮とを煩はしたところが頗る多い。
一 此の書の装幀は作者自身の好みに成るものだが、函、表紙、見返し、扉、中扉等の紙は、悉く大和の国栖【くず】村の手ずきの紙を用ひた。此れは専ら樋口喜三氏の斡旋に依るのである。
一 口絵のコロタイプは北野恒富画伯筆「茶茶」の画面の一部である。此れは嘗て院展に出品されたことのある名高い絵で、元来縦に細長い構図であるが、此の書の形態上その全画面を載せることが出来ず、書伯の許可を得て人物の居ない上半部を切り去ることにした。今此の絵は大阪の根津清太郎氏の蔵幅になつてゐる。作者は此れが「盲目物語」の口絵として甚だ適当であることを思ひ、日頃懇意な間柄の恒富氏並びに根津氏に乞うて、幸ひに巻頭を飾ること
を得た。
一 函、表紙、扉、中扉等の題字は根津夫人の染筆である。聞くところに依ると、恒富氏は茶茶の顔を描くのに根津夫人の容貌を参考にしたと云ふ。そんな因縁があるのと、夫人の仮名書きが麗しいのとで、特に揮亳をお願ひした。
一 尚此の外に、大阪の菊原撿校高野山の梶原涼風氏等の名前も逸し難い。作者はそれらの人々の友情や刺戟のお蔭で斯う云ふ本が出来たことを深く感謝する次第である。
昭和かのとひつじの歳十二月 倚松庵に於いて 作 者 し る す
本 文 目 次
盲 目 物 語 一丁
吉 野 葛 百十一丁
紀井国狐憑漆掻き語 百六十七丁
覚海上人天狗になる事 百八十一丁
挿 絵 目 次
九里道柳子筆三絃甲所【かんどころ】の図 八十七丁
同 箏名所【などころ】の図 百五十五丁